ワリード兄弟イラク通信 Topページ  手記  メモ | ワリードとは | メール

2011年11月28日月曜日

復活したマフディ軍と反マフディ軍の新勢力

ワリードによると18日に投稿した記事のシリアに向かうバスの行列はマフディ軍とのことで、そのマフディ軍に対抗する新しい勢力も出てきてマフディ軍を襲撃しバグダッド出身の兵士数人を殺したのだそうです。
マフディ軍は米軍が年内に撤退しないと復活すると脅していたはずでしたがイラクのことはまったくわかりません。

2011年11月18日金曜日

ガイガーカウンターの音

video
03年12月ワリードとサマワで見つけたものでメーターの数字は1.5〜4.5マイクロシーベルトを指していました。同年5月のツワイサでは500マイクロシーベルト以上計測しました。

シリアとイラン。間のイラク。

Syria and Iraq future
   as we said before the dream of Iran is to establish its state from Iran till Lebanon, and making crescent shape surround Gulf countries ,  the loyality of Syrian regime is for Iran and this bothering the Gulf countries so that currently many attempt trying to stop this dream by topple Syrian regime. this attempt started by isolating the Syria from Arab university council  recently and supporting the anti Syrian regime resistance .

2011年11月16日水曜日

混迷深まるイラク

ワリードからの情報です。

 the spokes man of Iraq resistance announce the withdrew of US forces from our country its not welcomed by our leadership because we want them to stay as much as they can to revenge from them otherwise we can not follow them to state to fight them, thats why now a days all resistance groups increase there attack to US bases .

米軍の撤退にともないこれまで押さえつけられていたグループが次ぎなるイラク支配を目指し武力に訴える動きをみせています。
ヨーロッパからイラクに戻ろうとしたワリードの友人はあまりに危ないと家族が警告し隣国シリアで足止めされているそうです。イラクは急激に治安が悪化しています。

2011年11月15日火曜日

悪化する治安

 米軍の撤退に呼応するかのように急激に治安が悪化しているそうです。

Now let me write to you about iraq, today many accident happened there
al bayaa area , baghdad al karkh roadside bombed near from bus terminal two civilian people were wounded
camp sara area, al rissafa road side bomb targeted police car two police man were wounded
Al rabeea street al karkh area two policeman were wounded by silent gun attack
al karada  area roadside bomb attack VIP convoy ,1 civilian people were wounded
Alsader city(saddam city) road side bomb target eshbilia bank , two civilian peoples wounded
7 katiosha rocket attacked kalso US base in Babel yon province, one of those rocket miss the base and dropped near from base cause 2 civilian injury and n information for us side
two rocket attacked US base in kirkuk , one of them dropped on civilian house no victem from civilian side.

2011年11月8日火曜日

Iraq situation  米軍イラク年内撤退について

福島にいるワリードからレポートが届きました。明日東京に戻るそうです。

Iraq situation
  the decision of president Obama for withdrew his country troops from Iraq was big surprise for most politicians in Iraq especially Kurd and sunna leaders, because everybody knows that iraqi forces still weak and can not protect Iraq from any foreign aggression even they can not protect citizens inside Iraq from terrorism .
   United state offered to Iraq government to submit request to extend there troops(means Iraq should pay the expenses of US troops) staying but there was big opposition inside Iraq parliament that's why this decision couldn't get approved, from the other hand USA couldn't afford to resist the expenses of the huge number of there troops from there fund during current economic crises in united state.

2011年11月2日水曜日

2011年11月1日火曜日

ワリードの疑問

ある日のことこんなものを見つけたのだそうです。

 Dear friends
  Day by day i discover many new thinks in Japanese society which totally not founded in our society.
    So i am asking if any one can give me the real story or the meaning of the attached pictures-- see the pictures first to understand what about i am talking-

briefly while i am walking inside tokyo i saw  a ( Fuse vaginal cotton ) with dry blood, means its been used hanging above or beside river ???

what is the message the girls want to send it when they hang such things, and how we (men) shall reply when we saw such things

waiting your reply
thank you
waleed
ワリードにどんな回答があったかわかりませんが、管理人は東京で見たことはありません。興味深いのは 「girls からのメッセージ」とワリードが決めてかかっていることです。それってそうだといいなあというワリードの妄想?願望?
このようなことを書くとわざわざ翻訳してワリードに教えてくれるひとがいるかもしれません。だいじょうぶです本人に直接言いましたから。
「少女がぶさらげているとこ」を目撃したわけではないそうです。

2011年10月10日月曜日

当ブログ閉鎖について

9月13日より当ブログを閉鎖しました。ワリード来日を機に内容を見直しました。ワリードから再開の要望があり、ワリードをサポートしているNGOの弁護士からも内容(手記)に問題がないことを確認できたため一週間後に再開しました。
このときの検討の結果、会の名称を変え再出発することになりました。圧力がメディアからかかったわけではありません。

2011年10月9日日曜日

ワリード証言2:サマワ日本テレビ

video
「証言」です。

サマワ自衛隊からの感謝状

 証言1の冒頭でワリードがもらったと言う感謝状は2006年7月6日、陸自山中敏弘群長名で出されています

ワリード証言1:危険な勤務。サマワ犠牲者

2011年7月31日「イラク人が見た自衛隊、米軍基地、捕虜収容所—ワリード・ホマディ氏証言会」より video

 2005年1月中旬のことだそうです。いまだ行方不明です。
詳しくはこちらを http://www.ustream.tv/recorded/16347142

to the readers

I apologize to the people who want to continue with my story,there are many reasons why i am stopping writing my story
when i was in Iraq ,before my visiting Japan i was so busy with hardship of life ,me and my family need to survive so that it was to hard to find time to continue writing, and when i came to japan the life been harder than Iraq,like securing house thinking how make my trip success and many other reasons currently i can not disclose it.but the sure think is one day i will continue it.and i will not forget one day you helped me
many thanks and GOD blessing all of you
waleed

まず原文をアップします。

なお、これまでワリードが書いた手記の原文もアップするかご要望の方にはお送りする予定です。(管理人)

2011年10月8日土曜日

ご質問ご要望クレームはこちらまで

当ブログの内容についての責任はワリードではなくイラク通信(旧連絡会)管理人にあります。ワリード手記についても翻訳文は当会の対応とさせていただきます。訳文のミスはすぐに対応いたします。
ご質問・クレームは shurayra@gmail.com までお寄せください。google voice で会話も可能です。

記事を削除しました

ワリードの要望により一部記事を削除しました。○○社より不適切と指摘されたそうです。

2011年9月28日水曜日

ワリード支援とJIM−NET

 ワリード来日後、とくにこの一ヶ月デリケートな折衝がありその詳細はここで書くことができませんでした。
今後はJIM−NETなど大手NGOがワリード支援にあたることになりました。ワリードは以前彼自身が希望したとうり福島に震災ボランティアに行くようです。

ワリード兄弟救出連絡会は役割を終えることになりました。
連絡会としてワリード釈放までは一定の役割を果たしたと思います。金銭的支援は昨年の2月の釈放時までで以降は振り込み口座を停止しました。
いまだワリードの末弟アリは服役中です。アリにたいしてはワリードからの具体案のないことのままに連絡会としての対策を打ち出せませんでした。
救援という言葉はワリード釈放後の「連絡会」の実態をあらわさずおこがましいのでこれを機にあらためます。
今後は「ワリード兄弟イラク通信」としてワリードの近況を軸にイラク問題の時事的な情報をアップしていくつもりです。
なお管理人の都合につきこのブログの更新を10月11日まで休止します。

2011年9月25日日曜日

「報道されなかった湾岸戦争」1992年影書房刊


「報道されなかった湾岸戦争」写真集編集委員会編。
 当時、イラクとイラク戦争に関する情報は圧倒的にアメリカから伝えられるものばかりでした。まさに報道されなかったイラク側からの戦争被害を伝える写真集です。
イラクではフィルムも印画紙も現像のための薬品も不足していました。 デジカメもネットもアルジャジーラといった報道機関も存在していませんでした。

湾岸戦争と日本山妙法寺

 1991年1月湾岸戦争が始まり(前年8月にイラクがクウェートに侵攻)世界中から反戦の動きがありました。いくつかの団体や個人がヨルダンやサウジを拠点にして活動を始めました。日本からは妙法寺の寺沢さんが駆けつけました。
戦下の中ガルフピースチーム一員(ノーベル平和賞候補、のちに荒野の声を主催したキャシー・ケリーもメンバー)としてイラク入りし体を張って終戦の仲立ちをしようとしました。寺沢さんが帰国し伝えた情報は日本での反戦と支援の動きにつながり終戦間もない3月にはPAN(ペルシャ湾の命を守る市民ネットワーク)が支援団を派遣することができました。寺沢さんの活動がなければおそらく支援の動きははるかに遅れた、あるいは成立しなかったのではないかと思います。ワリードが初めて出会った日本人はPANの後継団体として活動していたメンバーでした。PANは92年に解散しましたがその流れはまだイラク支援に引き継がれています。

寺沢さんはイラクの後拠点をチェチェンに移しこの数年はキルギスを中心に活動をしています。

写真:日本山妙法寺卯辰山仏舎利塔と寺沢正人(撮影2008年)

ケータイ紛失顛末記「警察で殺されずケータイが戻ってきた!」by ワリード

どんどん日本を好きになっていきます。昨夜、ケータイを失くしてしまいました。あきらめることもできず、近くの赤羽駅の交番に行きました。夜の11時をまわっていました。英語が通じませんでしたが交番の警察官にはどこかの部署に電話を掛けてくれました。相手先のひとは1時間もかけてあれこれ調べてくれました。わたしが失くした時間帯ではいくつものケータイがすでに届けられていて赤羽警察署に保管されていることがわかりました。
その赤羽警察署は赤羽駅から歩いて20分ほどかかりました。すでに時間は12時半になっていました。真夜中です。教えられた場所の建物は警察署なのかはっきりしませんでした。イラクでは警察は大きく威圧的な建物で敷地には数台のパトカーが何台も停められているものです。
こんな遅い時間なのにジョギングをしている男性がいました。尋ねたところ目の前の建物がやはり警察署でした。場所はわかったものの時間も遅くわたしは歓迎されざる人間ではないかと不安になりました。
エントランスを覗いててみましたが誰もいません。やはりイラクなら数名の武装した警官が立ち番をしているものなのです。ちょっと上を見上げてみると警察の星のような看板が掲げられていました。パトカーが停まっていることにも気がつきました。この建物は警察署で間違いありません。
しかしながらわたしは建物にはいることにためらいました。警察署に入るには許可証がいるのでは?わたしはただ失くしたケータイのことを聞きに来ただけです。呼び鈴もないのでそのまま中に入ることにしました。わたしは足を止めました。こんな夜更けに勝手に中に入ることができるのがおかしい。警察署に警備がいないなんて異常な話です。たまたま警備がいないだけかもしれません。イラクでなら場合によっては命に関わる要注意な状況です。バグダッドで間違いで入った建物の武装セキュリティに殺されてしまう事故が多発しているのです。今にも誰かが現れてわたしを呼び止め不審者と見誤って銃を撃つかもしれません。


*ワリードの弟(四男)は警察に連行されたあとミリシアに殺害されています。手記14
(管理人より補足)

2011年9月24日土曜日

ロスト アンド ファウンド

ワリードがケータイを無くしました。あわてて連絡してきたのですが警察に届けるということに思い当たらなかったようです。「もう無理だ、見つからない」とへこんでいました。翌日ちゃんと交番に届いていました。日本はすばらしい国だと感心するワリードですがイラクではやらないような不注意になっているかもしれません。

2011年9月20日火曜日

Waleed in Tokyo



来日して2ヶ月以上になります。帰国を考えています。

2011年9月7日水曜日

2011年9月4日日曜日

写真


 ワリードがいつも持っている写真です。2006年脅迫されバグダッドを脱出する前日に写した母と孫たちです。ワリードと妻子はサマワへ。後日両親らはツアイサ近くの村へ移住します。


手記10:両親との別離
シリアへの脱出を決め準備を始めました。
その頃すでに多くの家族がバグダッドから脱出を試みていましたが、かなりの人数が市内を抜け出すところで殺害されていたのです。脱出には幸運も必要でした。
ところが両親までも脅迫を受けてしまったのです。
これは一族にとっても戦争でした。わたしたちは戦争をやり過ごし戦争から生き延びねばならないと決意しました。
病弱な母にはわたしたちのプランを告げずに夕食に招きました。わたしたちが家族から離れることを知った場合母はおそらく悲しみにくれるでしょう。そして親戚や隣人に黙っていることは出来ないはずでした。計画は誰にも知られてはならなかったのです。
わたしは家族のそろった写真を何枚も撮りました。

わたしと妻は両親が帰るのを待ち脱出の準備を進めました。当時バグダッドでは夜間の戒厳令で、外出が許される朝の5時まで6時間しかありませんでした。そ れまでにで全ての荷造りを済ませました。父は同行したいと行ってきましたがわたしは断りました。二人同時に失うよりは一人だけのほうがまだましでしょう。
かわりに父に頼みました。「わたしが殺されたら子どもたちを頼みます」
わたしは死を覚悟していました。しかしせめて家族のいる家では殺されたくはなかったのです。

...続きhttp://savewaleed.blogspot.com/2010/09/blog-post_8048.html

2011年8月28日日曜日

2003年5月ワリードの兄ヤヒヤ、ツワイサで核被害を語る

video

市民団体のガイドをするヤヒヤ。
この数年後バグダッドから逃れこの近くの村に住むことになります。
当時オシラク原子炉研究所はまだ米軍基地化されていませんでした。2008年ヤヒヤたち兄弟が逮捕され拘置されたのが研究所敷地(広大です)にできた米軍基地でした。

映像でヤヒヤが発言した病院のサルマンパックとは近くの町の名前です。右バー下地図参照。
現地を訪問したのは終戦から一月たらずのころです。核による被害はそれ以前の話です。1991年の湾岸戦争、1981年イスラエル空軍によるオシラク原子炉の爆撃による放射線が原因のひとつではないでしょうか。もちろんイラク政府がどのように核物質を管理していたかも定かではありません。地域の住民は何も知らされず知識もなくゆえに戦後オシラク原子力研究所から容器目あてのドラム缶を持ち出すことになります。それにはイエローケーキがはいっていました。
関連記事

2011年8月27日土曜日

Dear Haitham 2003年10月末

video

 アンマンの薬剤師ハイサムです。動画シーンは買い付けした医薬品をクルマに積み込みアンマンを出発するところ。国境を深夜に越え、バグダッドに朝到着します。


一昨年、カンパいただいたワリード支援金をイラクを送るためにハイサムの協力がありました。当時銀行送金は不可能でした。アンマンで活動している連絡会メンバーが、ヨルダンとバグダッドを行き来するワリードの知人に現金を手渡ししイラクの家族まで届けてもらいました。タイミングがあわなければイラクに入るワリードの知人が来るまでハイサムに預かってもらいました。そのワリードの知人もイラクに住み続けるのは困難で今年ヨーロッパに脱出しました。

2003年ラマダン中のある夜(音量注意)

video
夜の11時半。戒厳礼は解除されてましたが危険なのは変わらず夜間外出するひとはいません。停電のためホテルは真っ暗。外も一部の自家発電以外は暗闇です。突然ホテル周辺のあちらこちらから銃声が響きました。米軍への一斉蜂起か!と緊張しました。いよいよバグダッドで内戦か、と。
画面中央斜めの白いコンクリートは昨年襲撃された教会です。

おまけ映像。2003年5月。バグダッドに向かうハイウエイで砂嵐多重衝突

video
医薬品など物資を積んだ別の一台は玉突き衝突に巻き込まれました。バグダッドの街中で砂嵐は経験していましたが砂漠ではまったく別物でした。
翌日バグダッドは電話もネットも通じず記憶を頼りにワリードの家を探しだし戦後初めて再会しました。

2003年12月サマワ劣化ウラン弾

video
先頭を歩くのがワリード。
攻撃から9ヶ月たち風雨にさらされたキャノン砲はぼろぼろでした。
ガイガーカウンターの表示単位はマイクロシーベルトです。
関連手記5:サマワ、劣化ウラン発見

2011年8月26日金曜日

1998年ドキュメンタリ「イラク、戦禍にみまわれた子供たち」後編

video
容量制限のため 7分の1に画質をエンコードしてあります。

2003年12月ワリードとサマワで見つけた劣化ウラン弾使用の証拠動画も近日中にアップします。

1998年ドキュメンタリ「イラク、戦禍にみまわれた子供たち」前編

video
ワリードが通訳コーディネートしたドキュメンタリです(NHKBS)。
クリントン政権によるこのバグダッド空襲は当時ほとんど話題になりませんでした。イラク戦争の4年以上前のことです。国連安保理の決議を得ずに行われたこの攻撃は「砂漠の狐作戦」と呼ばれその後のイラク戦争に繋がるのです。
日本では小渕政権があっさりと攻撃支持の声明を出しました。市民運動側は抗議のデモを渋谷でやりましたがささやかなものでした。
そのころコソボ攻撃で劣化ウランが使われたこともあり1999年末には東京九段に有志が集まりおそらく日本で初めての劣化ウラン問題に取り組むNGOを立ち上げました。
*動画の容量制限で先日アップしたものは途中で切れていました。二つに分割して再アップします。
後編はこちら  http://savewaleed.blogspot.jp/2011/08/1998_2402.html

2011年8月25日木曜日

再アップ!1996年映像イラク経済制裁

通訳ワリード。1996年11〜12月。7分30秒、小学校で絵本を読んでいるのがワリード。教室の生徒の数が倍近い70人に増えたそうです。
農村にあるこの小学校にワリードの子どもたちが通うことになるとは当時独身のワリードには思いもよらなかったでしょう。

2003年1月。イラク戦争2ヶ月前映像。イヤササ

video
ワリードが通訳・コーディネートしました。ビデオ後半に映る幼稚園はバグダッドにありワリードの長男が通っていました。

2011年8月16日火曜日

出発前の子どもたち

 ←今回の来日の出発直前、スーツケースに入って一緒に日本に行こうとする次男と次女









夜、不審者に備えてこれから寝ずの番をする長男。
身を守る術はありませんが家族を起こすことはできます。
この子はバグダッド生まれの都会っ子でした、、。







→写真はバグダッドにいた2003年
左が長男。
隣は戦場カメラマンW氏


2011年8月12日金曜日

爆発した発電機

ワリードの報告会で話しのあった発電機の写真が届きました。
イラクではいまだに電力供給が不安定です。
一家には昨年11月に生まれた幼子がいるので50度以上になる夏の暑さはたいへんです。

2011年7月18日月曜日

ご参加ください。7月31日

【東京・主催イベント】
「イラク人が見た自衛隊、米軍基地、*捕虜収容所—ワリード・ホマディ氏証言会」(仮)
日本のNGOやメディアへの協力者として活躍し、劣化ウラン被害や自衛隊の活動をレポートし続けたワリード・ホマディ氏。外国メディアへの協力を理由に、現地武装勢力から処刑宣告され、宗派衝突で弟を失い、米軍に罪をでっち上げられ、無実でありながら家族を守るために2年間も苛烈な獄中生活を強いられた…ワリード氏の見聞きしたこと、体験したことは、正にこの間イラクで起き続けた悲劇を象徴するものでしょう。
来日したワリード氏に、その体験を、映像や写真、不当拘束中、心の支えだったという子どもからの手紙などのエピソードも交えて、証言していただきます。

2011年7月16日土曜日

来日しました

火曜日にエティハド航空で成田に到着しました。実は半信半疑なところがありました。
ワリードは「日本政府は自分の逮捕歴を問題にしてビザを出さないのではないか?」と心配もしていました。マイナーとはいえここのブログでも堂々と書いていますので。

月末にイベントに呼ばれているようです。場所は渋谷です。詳細がわかりましたらアップしますのでご参加ください。
*都内にいるワリードは滞在先でネット環境にないためメールを開いていません(ネカフェに行けばともかく)。3日前からケータイを入手しています。
にメールいただければワリードに連絡します。

2011年7月10日日曜日

ワリード来日

ワリードが来日することになりました。来週早々の予定です。イラク人ビジネスマンのアテンドなのでワリード自身で予定を決められないようです。ワリードの話を聞かれたいかたはご連絡ください。

2011年6月30日木曜日

難民としてヨーロッパに逃れたイラク人

ワリードの友人が難民登録されました。認定された理由のひとつは外国メディアに協力したことにより武装勢力から脅迫され身に危険が及んでいるということです。ワリードのほうがよほど実害を受けていると思います。しかしイラクを出ることもEU諸国のビザを取ることもワリードにはできません。
外国メディアとは日本のテレビ局です。

2011年6月28日火曜日

津波ごっこと戦争ごっこ

video東北の被災地では子どもたちが津波ごっこをしているそうです。遊びをとおして衝撃を乗り越えるのだと紙面で読みました。イラクでは戦争ごっこをしています。赤いワンピースの女の子はワリードの長女です。兄弟と近所の子どもたちと遊んでいます。次兄に刺され死体役になり長兄からは銃で撃たれます。
*2時間のDVDからカットしました。この遊びには意味があるのだとわかり公開することにしました。


2011年6月20日月曜日

刑務所で舌を噛んだワリードの弟

もう数ヶ月前のことですがワリードと一週間ほど連絡が取れなくなったことがありました。ようやく連絡がとれたワリードはたいへん沈んでいました。
弟アリが収監されているアルビルの刑務所に呼び出され留守にしたとのことでした。18才で逮捕され3年めを迎えたアリが所内で舌を噛み病院に運ばれたのでした。アリはワリードの手記にあるとおり家族を守るため兄らの身代わりになり、ひとり10年の刑を受けています。まだ若い彼には刑務所は厳しすぎるはずです。舌を噛んだのはてんかんによるものだろうとワリードは書いてきました。てんかんについて何も知らなかったので調べてみたのですが、昔はてんかんで舌を噛むと言われていたようですが現在ではてんかんでは舌を噛むことはないとの記述がありました。幸いアリの容態は回復したそうです。

イラクの村、放射能汚染の影 8年経てがん相次ぐ

今朝の朝日新聞記事です。
http://www.asahi.com/special/npr/TKY201106190405.html
イエローケーキの入ったドラム缶が持ち出されたツワイサ原子力研究所はワリードの住む村から数キロしか離れていません。この高い塀に囲われた広大な施設は戦後米軍の基地になり、3年前逮捕されたワリードが最初に拘置されたところです。
1981年にイスラエル空軍が16発の爆弾を落とし、1991年の湾岸戦争では米軍がさらに破壊しました。出力の小さな実験炉とはいえ、人口4−5百万人のバグダッドから距離30キロ弱にある原子炉に爆弾を落とすのですからすごいことをするものです。
イラク政府は国民にも厳重に秘密にしており住民たちは放射線被害を知りようも防ぎようもなかったようです。湾岸戦争の数年後、近くを通った際に軍による厳重なチェックポイントがありました。その理由がわかったのはイラク戦争後のことでした。

参考まで2003年6月に現地取材したフォトジャーナリストの森住氏の記事です。
http://www.morizumi-pj.com/iraq/iraq4/03/iraq4_03.html
35マイクロシーベルトを検出したと書いてあります。
このとき乗っていた車に向けて集まってきた少年たちが石を投げ車のガラスが割れた(ひびが入った)ことを思い出しました。運転手は文句を言うと思いきやそのまま車を走らせました。

2011年6月14日火曜日

ワリード、震災ボランティアで来日?

ワリードが今回の東北の被災者の役に立ちたいと言ってきました。
生活に余裕がないので資金的には厳しいはずです。生後半年の子どももいれて6人の子持ち、さらに大家族の面倒も見ています。
いろいろ聞いてみると4月にバグダッドで会った日本のNGOのスタッフから、イラクは日本から世話になったから今回はボランティアとして来るべきだ!と言われたのだそうです。
イラクは日本ほど豊かで安全な国でもないので基本的な条件が違いすぎます。ワリードが今回用意できる資金は不十分なうえ日本人ならたいした金額ではありませんが彼には大金です。
(ワリードが5月にシリアに行ったのは日本のビザを取るためでした。イラクには日本大使館がありますがビザ発給業務は行っていません)

2011年6月13日月曜日

ヨルダンで空港トランジットさえできないイラク人

かつてイラク人は隣国ヨルダンにはビザなしで自由に行き来していました。しかしイラク戦争後の治安悪化でヨルダンに逃れるイラク人が増え、ヨルダンは入国の制限をするようになりました。実質イラク人はヨルダン入国ビザを取ることはできなくなりました。
海外旅行で目的地に行く前に経由地で飛行機を乗り換えることがありますが空港から出ないトランジットなら(入国しなければ)例えその国の入国ビザを持っていなくても問題ありません。日本からだとアエロフロートでモスクワ乗り継ぎヨーロッパ行きなどがそうです。
イラク人の場合バグダッド発着の国際線がまだ少ないので近くの国際空港アンマン乗り継ぎが合理的になります。例えば九州から国際線で近くのソウルで乗り換えるようなものです。
ところがワリードによるとアンマン乗り継ぎでもヨルダンはビザを要求するというのです。入国を伴わない空港保安エリア内ではビザは不要だと常識的に思います。ワリードの勘違いではないか?と。
イラク人が日本への入国ビザを取ったとします。日本への直行便はないのでヨルダン経由にするとヨルダンのビザも必要となるのです。ヨルダンのビザが取れないので飛行機に乗ることが出来ないということになります。

このように好ましからざる国を封じ込める政策の国は他にもあることがわかりました。
一例ですがドイツです。イラク人はドイツ経由になるルフトハンザに乗れません。
 以下ドイツ政府HPより
http://www.tokyo.diplo.de/Vertretung/tokyo/ja/01__RK/VISA/TRANSIT/TOP.html
旅行者の大多数は、飛行機でドイツを経由する際ビザを必要としません。しかしながら、その国籍によっては、空港トランジット・ビザが必要となります。
空港トランジット・ビザは、国際線トランジット・エリア内での短時間の滞在だけを認めるものであり、同エリアを出ることも宿泊することもできませんのでご注意下さい。
手荷物の受け取りや再チェックインが必要かどうかは、搭乗の航空会社に確認してください。そのような場合には、ドイツへの入国が必要になり、観光ビザを所持していなければなりません。
トランジット・ビザ申請が必要な国のリスト
アフガニスタン、バングラディッシュ、コンゴ共和国、エリトリア、エチオピア、ガーナ、インド、イラン、イラクヨルダン*、レバノン、ミャンマー、ナイジェリア、パキスタン、ソマリア、スリランカ、スーダン、シリア、トルコ**
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
実質的な制裁処置に見えるのですが上記の国はドイツにどのような害を与えているのでしょう?
ちなみに日本で乗り継ぎする外国人は空港内トランジットであればビザを必要としないようです。

イラクでATMとクレジットカードが使えます

いまのところバンクオブバグダッドだけのようですがVISAやマスターカードを発行するようです。そういった国際化がよいことかどうかの論はあるかもしれません。
恩恵に預かるひとたちはまだ限られていると思います。ワリードはATMも知らないし銀行カードさえ持っていません(ATMがなかったので当然ですが)。

2011年6月11日土曜日

昨日(金曜)バグダッドで大規模なデモ

マリキ政権は100日以内に国内の諸問題(雇用、治安、電力・水供給等)の解決を約束しました果たせませんでした。数日前がその公約の100日目でした。抗議のデモが昨日あり多くの逮捕者負傷者が出たそうです。

生後半年の息子。目元がそっくり。

2011年6月10日金曜日

イラクに郵便が送れます

 遅ればせながら上記の情報を見つけました。昨年ワリードからイラク国内の郵便事情が復旧していないと聞いていたので、日本から郵送ができるようになるには時間がかかると思っていました。

イラクあて航空運送する郵便物(EMS及び航空便)の全面引受の開始

http://www.post.japanpost.jp/whats_new/2011/0304_01.html

2011年5月20日金曜日

ワリード、シリアから無事帰る

ワリードが所用でダマスカスに10日ほど行っていました。シリアでは民主化運動で多数の死者が出ており心配しましたが、ワリードに言わせればイラクで危険と常に隣合わせで生きていたわけで危険についてイラク人に言えることはありませんでした。

2011年4月16日土曜日

米軍駐留延長とマフディ軍復活の噂

米軍は今年末にイラクから撤退することになっていますがマリキ政権は米軍に駐留を延長するように要望するような動きがあるそうです。オバマ政権もイラク政府にたいして駐留を延長する提案をしているようです。ワリードによると米軍に反対するサドル派が来週バグダッドでデモンストレーションをするそうです。解散しているマフディ軍が復活するのではと言われています。

2011年4月11日月曜日

イラクでも花粉症?

ワリードが体調が悪いと言います。咳鼻水涙が出ると言います。先週からバグダッドは砂嵐が吹いてそのせいかと聞いたのですがアレルギーだそうです。花粉症のような症状になるひとがバグダッドにもいるそうです。
追記:1993年くらいから4月のこの時期に症状が出るひとが増えたそうです。バグダッド近郊に杉などは生えていません。
左はワリードの息子ですが数年前の写真です。

2011年3月15日火曜日

タラルからお見舞い

brother..
I want to tell you how I am sad and sorry to what is japanese faceing now..it is hard time for them and I wish that I can help with..
I wish you are fine
please send me to know..about you..
keep in touch..

2011年3月12日土曜日

ワリードから震災お見舞い My condolence

Dear Friends

   We received the news of earthquake  in Japan with big sorrow  and sadness
    I have nothing to do except praying to GOD to save the lives of people and quick recover for the wounded people
 
Yours
waleed

2011年2月26日土曜日

手記50:あと45日?

翌日の取調官はまだ若く、腕にはshell of bullet(意味不明)と硝煙の刺青をしていました。いくつかの質問のあとわたしにタバコをくれました。メンソールだったと覚えています。
「あなたの経験からしてわたしの釈放の見込みはありますか?」わたしは聞いてみました。
「自分はその担当ではないのではっきり言えないがもし釈放されるとしても最低45日はかかるだろう」そう答えた彼は親切な男でした。わたしは英語が話せましたし、事情を聞いてもらうことができました。
「ましな部屋を用意しよう。しかしこんな話をしたことは誰にも話さないほうがいい。ねたまれてレイプされる。悪ければ殺される」
さらに日本との関係があることも話さないようにと忠告されました。あの中には殺人者もテロリストもいると言うのす。

わたしは雑居房に戻ってから考えてみました。45日間はたいへんに長い。長すぎます。わたしが請け負っていた取材の仕事は始まっていて日本からの取材班はバグダッドに来ているはずです。この刑務所でいくら気をもんでも、いくら抗議してもまったく無駄だったでしょうけれど。

取り調べなどで房を出されるときは頭からすっぽり目隠しをされ手錠もかせられます。兵士が悪党な奴だとチェーンで引っ張り廻します。
「犬のクソのケツの穴のち○カス野郎のdoosh back(意味不明) ……etc」と耳元に口をつけて罵詈雑言を浴びせます。
そして脅し文句は「いつでもテイザー&ペッパーをお見舞いしてやるぞ」です。
ここで何が起きているか、何を言われているか誰が知るでしょう。わたしたちは5メートルもある高い塀に囲われています。外に出るには護衛が守る橋があります。誰も逃れることができません。ここでは黄色い囚人服を着せられました。このいまいましい世界がわたしの生きる現実になったのです。


*仮訳中です
*管理人の解釈ですが起訴になるか不起訴になるかの手続きまで45日かかる、ということなのではと思います。
*ワリードは日本のメディアがワリードの逮捕を知って何らかのアクションをするものと期待していたはずです。ワリードのアシスタント役のイラク人が、ワリードが約束の日になっても現れないために家族に連絡をとり、事情を把握し日本のメディアに知らせています。
日本はアメリカの友好国です。自分はそこらのイラク人とは違うと考えていたかもしれません。その期待ははずれて刑務所を転々としてさらに2年を過ごすのでした。

手記49:劣悪な雑居房

空港(クロッパー)刑務所では雑居房に入れられました。コンクリートの打ちっ放しでドアは頑丈な鉄製でした。広さは8×7メートル。さまざまな国籍の男たちであふれていました。エジプト、イエメン、サウジアラビア、シリア、イラン、アフガニスタン、nibal(意味不明)、インドなど、、。
考えられないほどのすし詰めでした。最も人数が増えたときには一部屋に80人にもなったのです。1メートル四方に1.5人の計算になるでしょうか。横になって眠ることなど出来ません。みなで考えて眠るひと以外は立ってスペースを作り交代で眠ることにしました。。
年をとった者は長く休めるように配慮されました。
よく停電がありました。ファンが止まると多すぎる人で息が苦しくなりました。
何度も逮捕されたというひとは珍しくありませんでした。米軍は手当たり次第逮捕していたのでしょう。逮捕の理由はばらばらでそれぞれ皆にストーリーがありました。
食事はパンにバターとジャムでした。たまにバターとオレンジでした。イラク人には受け入れがたいものです。わたしたちは空腹を抱えていました。
(ワリードと連絡が取れないので仮訳です)

2011年2月25日金曜日

手記48:電気ショック銃 taser and pepper

広場で2時間立たされました。ひとりの老人が疲れ果てて不満を口走りました。その時テイザーの意味を知ることになりました。テイザーはスタンガンの一種で引き金を引くとワイヤ付きの針が飛び出して電撃を浴びせます。それをくらわされた老人は悶絶して床でのたうちまわりました。老人の孫が助け起こそうとしました。ペッパーの意味がわかりました。兵士はまだ子どものような若者の目に向けてスプレーを発射したのです。その場の全員は彼らを助けることができず凍りつきました。
後になり話をできる兵士から教えられました。ペッパーとは唐辛子成分の催涙スプレーのことでした。
テイザー&ペッパーで基地から手荒く歓迎されました。可哀想な老人と孫は見せしめだったのでしょう。
すっかり従順になったわたしたちは順番に網膜と指紋を撮影登録されました。続いて最初の取り調べが始まりました。今までにない変わった質問がありました。
「自殺したいと思うか?」
あわれな男たちがイエスと答えました。そう答えれば同情され丁寧に扱われ、釈放も早まるだろうと考えたのです。
現実にはそう答えた連中は自殺防止のために裸にされ独房に放り込まれたのでした。

手記47:空港刑務所へ

翌朝になりました。わたしの番号が呼ばれ外に連れ出されました。そこには兄と弟も来ていました。会話をすることは禁じられていました。わたしたちはハンビーに乗せられ10分ほど離れた広場に着きました。石ころだらけで座ることもできず2時間そこで待たされました。吹きつける砂とエンジン音が聞こえるとヘリコプターが見えてきました。
わたしたちを乗せるとヘリは飛び立ちました。解放されるのではなく別の基地に連れていかれということがはっきりしました。
その大型のヘリコプターはブラックホークでした。兵士らは「まっくろくろすけ」と呼んでいました。目隠しをされているのでどこを飛んだのかわからないまましばらくして着陸しました。そこで数人の囚人を乗せふたたび飛び立ちました。一時間ほどの飛行だったでしょうか次に到着したところはバグダッド空港と言われました。
当時バグダッド国際空港は米軍により要塞化されていました。エリア内にある刑務所、キャンプクロッパーにバスで移動しました。日産の新しいバスでした。
広場に集められ目隠しと手錠を外されました。広場には大勢の兵士がいました。壁に向かって床に座らされました。口を開くことは禁じられました。
「この刑務所で言うことを聞かないやつは痛い目にあうことになるぞ。テイザーとペッパーだ。よく覚えておけ」下士官らしき兵士が怒鳴りました。
わたしたちの誰もテイザーペッパーなるものを知りませんでした。

手記更新について

*ワリードが釈放されて丸一年になります。釈放直後の精神状態に比べればかなり良くなったように思っていましたが、この数日、よく眠れない。悪夢を見て目が覚める。といったPTSDのような状態です。
つい数日前家族に悪いことが起きたこともワリードの精神状態に影響しているでしょう。
手記についてあれこれ聞き取る状況ではありません。和訳にはしばらく時間がかかりそうです。ご了承ください。
管理人

2011年2月24日木曜日

手記46:釈放の期待

バグダッドのアンラーワン基地で10日ほど過ぎました。
気紛れな拷問でわたしの尊厳をズタボロにし show my gentiles(意味不明)
乱暴に扱われました。
真夜中、取調に呼ばれました。以前、女性の取調官から予備尋問を受け、釈放される可能性があること、10日ほど待っていればいいと言われていたのでこの日を待ち望んでたのです。
手錠をされ取調室に引っ張り出されました。トイレに行かせてくれるように頼みましたが女性兵士は断りました。とにかく取調室の冷たいイスに腰掛けました。数分後取調官が入ってきました。彼女は質問を開始しましたがわたしは拒否しました。「トイレに行かせてくれ」
彼女は警備の兵士にトイレを許可しました。
「よい話しはありません」女性取調官が切り出しました。
「たぶんあなたは無実でしょう。わたしはそう信じます。できそうなことは全てやったのですが釈放はできません。上からの命令が来てしまいました。明日別の基地に送られることが決定しました」
「いったいどこの基地ですか」わたしは尋ねました。
「それは教えられません。あなたはイラクの裁判所に送られ罪が決まるでしょう」
「今のイラクを牛耳っているのは誰なのか知っているでしょう?」
宗派の対立でスンニは追い詰められています。シーア派からジャッジを受ければ私の運命は最悪なものになります。
「ごめんなさい。わたしには何もできることがないのです」彼女は言いました。
わたしは別の倉庫のようなテントに連れて行かれ逮捕された時に着ていた寝間着を出してきました。「おめでとう。これを受け取れば明日の朝には釈放だよ」と倉庫の兵士は言いました。
わたしはど派手な囚人服を脱ぐと汚れてみすぼらしいけれど私服である寝間着に着替え独房に戻されました。
向かいの独房の男と話しをしました。会話は禁じられていたのでこっそりと身振り手振りでです。彼はわたしが私服を着ているの見て、それは明日の釈放が決まったという意味だと喜んでくれました。ウムランという彼はわたしの村から遠くないところの出身でした。彼は自分の家族の電話番号を教えてきました。自分の無事を伝えてほしいと言うのでした。彼の娘の名前はマリアム。愛していると伝えてほしいと言いながら涙を流したのです。
わたしは混乱しました。別の刑務所に移されるという取調官、倉庫係の兵士、どちらの言葉が正しいのでしょうか。

2011年2月23日水曜日

ワリード近況

ワリードと連絡が取れました。やはりバグダッドの治安が悪化して事務所が閉鎖されていたそうです。これからしばらく事務所に来るのは不定期になりそうとのこと。
あさって金曜日はバグダッドで大規模なデモがあるそうです。イラク人の不満は他のアラブ諸国に負けていません。
失業問題、電力不足、水不足、物価高、もちろん治安の問題などです。

2011年2月22日火曜日

手記**:家族との面会

原稿はあるのですがワリードと連絡がとれず訳文を完成できません。もう一週間になります。ログオンがありません。バグダッドの治安が悪く会社に来ないのかもしれません。

2011年2月19日土曜日

ニブラス

あともう少しで死ぬところだったニブラス
ニブラスがどんだけかわいいか
ワリードが送ってきたので

手記45:死にかけた娘ニブラス

生活にせい一杯でいつニブラスが病気になったのか誰も気がつきませんでした。高熱を出して痩せてしまいました。何も食べられなくなり意識がもうろうとなりました。
3才の女の子に死のサインが見えていても医者に診せるお金がありません。
妻は毎夜泣き続けました。ニブラスはそのうちトイレにも立てなくなり横になるともう起き上がれなくなりました。呼吸が早くなりました。
停電でエアコンが動きません。気温は50度に達します。農村なのでハエや蚊も飛び回っています。眠れるのは夜涼しくなってからで健康なひとでも体力を奪われます。
ニブラスの病気は水疱瘡でした。ふつうの医療体制なら死ぬような病気ではないでしょう。しかしイラクです。
わたしが10年以上日本のNGOと何十万本の注射器、何トンもの粉ミルク、高額な抗がん剤抗生剤を病院に運び込もうとも水ぼうそうの我が子を救えません。
偶然妻の姉の夫が家に来ました。それまで米軍に捕まっていて解放されたのでひさしぶりに会いに来たのです。
彼が見つけたときニブラスはもうほとんど死にかけていたといいます。彼がニブラスを病院に運んでくれました。彼がニブラスを救ってくれました。
わたしは子どもたちみなを愛しています。どう言っていいかわかりませんがこの子ニブラスはわたしの心の特別なところにいるのです。

2011年2月18日金曜日

手記44:家族の苦難

妻は子どもたちを連れて家にに引き返しました。息子に朝食を買ってこさせました。戸棚には朝食を買えるだけの少額なお金しかありませんでした。昨夜は暗くてわかりませんでした。家中の金目のものすべて無くなっていました。現金も妻の金の結婚指輪とネックレスも奪われました。
それだけではありません。食糧配給の登録カードと子どもたちの身分証明書(ID)までなくなっていたのです。それらは日常生活に絶対に必要なものでした。配給カードがなければ食糧を受け取れません。IDが無ければ学校に入れません。
妻と面会できるようになったのは逮捕から半年後でした。わたしは米軍に抗議交渉しました。米軍の責任者の女性の大佐は配給カードがイラク人の命綱であることを知らなかったと驚いたのでした。米軍がIDカードを家族に返すまで一年三ヶ月もかかりそれ間は配給を受けられなかったのです。

イラクでは黒い服は喪を意味します。妻は父親を亡くした後だったのですでに喪服を着ていました。夫を亡くしてもあらためて買う必要はありませんでした。
妻は言います。人生でいちばんたいへんだったのは夫がおらず5人の子どもを腕に抱えたときだった、と。
農場では小麦を植えていました。食用と飼料用でしたが米軍の車両が畑を踏み荒らしてしまいすっかりダメになりました。
アウースとハムーディは遠くまで牛の餌の草を求めて歩きました。
年長のアウスは家族を支える大人の役割になりました。ミルクと自分で育てたオクラを売り歩きました。村に来てからでもそんなことをしたことがありません。彼にとってつらいことだったようです。
アウースは4月からの進級が出来ませんでした。試験よりも生活が優先でした。ナウースはIDが無いためその年の小学校入学が認められず翌年に遅れました。
家族のため生き残るためにみながもがき、すこしづつ這い上がっていきました。
妻はそれまで表に出る仕事の経験もなく若くして結婚し家で子育てをしていました。子どもたちも都会で不自由なく育っていました。妻と子どもたちの話を聞いてわたしが知らなかった妻の強さと子どもたちの成長を知りました。

手記43:嘆きの朝

引き続き妻から聞いたことです。
子どもたちは深夜に見慣れぬ外国の兵に起こされたショックから泣き続け、父親はどこかとまた泣いたのです。
実家から妹が来て兄ヤヒヤ、弟アリ、そして妻の14才の弟も連れ去られたことを皆に告げて一緒に泣いたそうです。
2月下旬はまだ冬の寒さでした。ドアと窓が壊された家で寒さをしのぐために妻はなんとか応急処置をしなければいけませんでした。妻は一部屋だけ片付けると薪を燃やし子どもたちを暖かくして眠れるようにしたのです。ただニブラスだけがパニックが治まらず10分おきに目を覚まし大声で叫ぶのでした。
ニブラスは3才で言葉を覚え始めたころで可愛い盛りでした。今この原稿を書いていて隣にニブラスがいます。「毎日部屋に閉じこもってひとりで泣いてお父さんの帰ってくるのを待っていたの」とニブラスは言ってくれます。

わたしたち家族はすでに十分痛めつけられていました。宗派戦争でバグダッドから逃れて来てそれほどの時間はたっていません。弟はミリシアに殺され、妻の父親も誘拐後殺されました。わたしの両親も続けて死んだばかりです。そんな中で、ついにわたしまで行方不明となれば妻と子どもたちはわたしが殺されたのか逮捕されたのか、とにかく良い想像では出来なかったでしょう。
翌日、日が昇ると同時に妹と妻、子どもたちは農場と周辺を歩き回りました。子どもたちは学校に行かず米軍が何か手がかりを残していっていないか探したのです。ほとんど希望の持てない嘆きの朝でした。
米軍は何も言わずにわたしたちを連れ去っています。こうした米軍に襲われた場合恐ろしい話ですが連れ去られた男たちは翌朝たいてい近くで死体で見つかっているのです。
農場とその周辺には血の池など殺害を示すものはありませんでした。妻は子どもたちに希望を話して聞かせました。お父さんは生きていると。

押収品リスト


逮捕時に米軍が押収した物のリストです。
一部修正してあります。

2011年2月17日木曜日

手記42:兵隊が家に来た!

手記28に書きましたが家族の誰もわたしが逮捕連行されたことを知りませんでした。わたしが家を出た時みな眠っていたからです。
わたしも逮捕の直前家の方から銃声が聞こえたことしかわかりませんでした。その時家族になにが起きたのでしょうか。

5人の子どもがいます。
アウース 男 9才 小学5年生
ハムーディ 男 7才 小学2年
ナウラス 女 5才
ニブラス 女 3才
ゼナ 女 生後85日
(当時)

妻は真夜中突然ドアを叩く音で眠りから覚めました。玄関のほかに二つのドアがあったのでいったい家のどこのドアが叩かれたのかわかりませんでした。ドアは金属製で大きく響きそれだけでパニックになりました。
英語の叫ぶ声が聞こえたのでアメリカーがだろうということがわかりました。ドアを開けるしかありません。ドアを開けようとしたところいきなりドアの向こうから発砲されました。3発の銃弾がドアを打ち抜き破片が妻の手を傷つけました。殺されなかったのは幸運でした。金属片とガラスが部屋に飛び散りました。子どもたちは隣の部屋で眠っていました。
(わたしはこのようにドアを銃で撃ってその破片で失明した兵士を知っています)
妻は部屋の隅に逃れました。10人以上のアメリカーが押し入って来て身動きがとれなくなりました。その時のことを妻は言いました。「なぜ子どもたちを置いたままにしたのだろう!子どもたちを守ることが出来ないのに!」

兵士たちは家中をひととおり捜査し終えてようやく妻は子ども部屋に入ることができました。涙を流していた妻に「怖くないよママ、何も悪いことは起きないよママ」とニブラスは言うのでした。それは妻がいつも子どもたちに言っている言葉でした。その頃村では銃声や爆発音がしてそれに脅えて子どもたちが泣くと妻がそうしてなだめていたのでした。

生後85日の赤ん坊は無事でした。停電で真っ暗な部屋で兵士たちに踏みつぶされずにすみました。
たまたま泊まりに来ていた妻の弟(14才)は連れ去られました。その時一族にいた男はみな連れ去られたのです。
長男のアウースは兵士のリーダーに外に連れ出され聞かれました。「お前の父親はどこにいる?」アウースはわからないと答えました。兵士は彼に何か言ってつきとばしたそうです。アウースが覚えている言葉は「fuck you」でした。
兵士たちは家中を捜索し、バッグを見つけるとわたしの書類や写真、CDなどを詰め込みました。そのバッグはわたしが日本に来たとき、アウースの通学用に買ったものでした。
アウースは取り返そうと抗議しましたがまたも兵士に押しのけられたのでした。
兵士らは一時間ほど家にいて家具などを手当たり次第に壊しました。その間家族は外に出ることができず事態を伝えることができませんでした。

*アウースも大きくなりました。平和市民連絡会がバグダッドでアウースの幼稚園を訪問しカチャーシーを踊ってからもう8年です。 アウースはまだ「いやささ!」を覚えています。

湾岸戦争、おすすめ本

湾岸戦争後に出版されたので古い本です。湾岸戦争について書かれた本はあまりありませんがこの本には湾岸戦争だけでなくその後の戦争に繋がる普遍的内容があると思います。
アメリカ元司法長官だったラムゼー・クラークが 湾岸戦争がその何年も前から周到に準備されていたこと、メディアを操作し世論をいかに操ったかを分析し検証しています。
これだけの告発がなされているのにイラク戦争は起きてしまうのだと愕然としてしまいます。
アマゾンで見たら古本なら250円とか。

2011年2月10日木曜日

タラル無事

昨夜タラルからメールが来ました。無事でした。
たいへんお騒がせしました。理由は書いてありませんでしたがタラルらしいとしか言えません。管理人は約3年前のワリードの消息不明のトラウマがあり過剰反応したかもしれません。
当時ワリードが逮捕されたとわかるまで「捜索モード」になってから3ヶ月かかりました。ワリードが逮捕されたと知って「少なくとも夜、撃ち合いで死んだり、道ばたで首は切られない分、刑務所は安全だろう」と思いました。

2011年2月8日火曜日

イラク各地でデモ

ワリードによるとイラクのあちこちでデモが起きています。
イラク人はチュニジアで始まりエジプトに広がったデモの話を聞いていて彼ら自身で主張すべきことがあると立ち上がったそうです。

2011年2月6日日曜日

タラル 2006年

2006年のタラルから苦境を伝えるメールです。この年はワリードも厳しい状況でした。

dear friendsgen ki desuka?
watshi ha genki nai desu yo..

Three years have already passed since you left my country Iraq.
I'm sorry for long silence after you return to Japan.
I have never forgotten experience with you in Baghdad and Basrah.
After you left Iraq, I wanted to get a new life still in Iraq but our life is threatened too much.
I think the news from Iraq tells only very little part of miserable things.
You know I lived Basrah was more safe than Bagdad hell.
But Religious power had been activated during half year.
Member of religious group maybe their armed group is chasing me and killing me.My cousin is missing from my town with his wife.

メモ:タラルが遭遇した邦人拉致事件

タラルが送ってきたメールです。2004年4月14日
この次に来たメールには見かけたら殺すと脅されたと書いてありました。
today big disaster happened Mr. watanabe and Mr. yasuda janbe were kidnapped in front of my eye ,2.pm, I almost dieing confused what to do .
I try to tell them its dangerous to go Abo-Krib but they insist to go they and the taxi driver and my disaided to return with them but they sad just ask them some

行方不明者を探すには

ワリードもタラルを知っています。しかしタラルの家族や彼のイラク人の友人を知っているほどの関係ではありません。
「誰か友人を知らないのか?」と聞かれました。
バスラでタラルの従兄弟を紹介されたことがあります。サウス・オイルカンパニーに勤めていました。翌年行方不明になったと聞きました。
バグダッドではおじさんの家に連れて行かれました。ジェントルマンなおじさんは警察官(IFP)でしたが後に殺害されました。
イラクではタラルだけの災難ではありません。
タラルは単に面倒で連絡しないのかもしれません。後で笑い話なり管理人の大恥なら大いにけっこうです。しかし心配になるのは過剰な反応ではないと思います。彼はかくまわれていた友人宅に爆弾を仕掛けられたことさえあります(2006年。ターゲットはタラルではなく友人だったかもしれません)。

2011年2月5日土曜日

行方不明者の家族

戦後のイラクで犠牲者を出さなかった家族は少ないでしょう。宗派の対立によるものや金品目的の強殺など戦前には考えられなかった理由で多くのひとが殺されました。
ある日突然家族の誰かが帰ってきません。犯行声明か身代金の要求があれば行方不明の理由がわかります。遺体が見つかることもあるでしょう。モルグで家族を探し出したひともいます。しかし突然姿を消したきりいつまでも帰ってこないこともあります。家族はどうしたらいいのでしょう。いつまで無事を信じて待つのでしょうか。
交通事故かもしれません病死かもしれません。しかし身分証明書の携行が義務のイラクで身元の所持品なしの不明死体というのも考えにくいでしょう。
ある日本人の母親は帰らぬ息子をひとりバグダッドで6年間待ち続けています。特別な息子だから秘密の刑務所に入れられているのだと生存に希望を持っています。

2011年2月4日金曜日

タラルとワリード

タラルはワリードを知っています。日本人らが常宿としているホテルにさっそうと現れるワリードを見て、「いつかあんな風になってみたいものだ」と話していました。今は無念赤貧のワリードです。
当時のワリードは大手テレビからフリーランスのカメラマンにまで引く手あまたの忙しさで猛烈に稼いでいました。それに見合うだけの下積みの苦労がありました。
タラルはまだ見習い中のようなもので格段にギャラの安いNGOのお手伝いとか戦争見物に来た学生のガイドとかいう感じでした。
翌年日本人誘拐に巻き込まれることになります。

タラルのケータイ

タラルは数年前までかなり危ない状況でした。バスラ出身のタラルはシーア派ですが同じくシーアのサドル派マフディ軍から処刑宣告を受け逃げ回っていました。
その頃のタラルはケータイも持たず居候暮らしでメールでの連絡も不定期でした。
昨夜タラルのケータイに繋がりました。Out of service というメッセージが聞こえました。解約という意味でしょうか。ブロードバンド回線を解約することがあってもケータイを止めるとは考えられません。

2011年2月3日木曜日

タラル朝日新聞記事

タラルの近況がわからないものかとわずかな期待で検索してみました。古い2004年の記事があったので貼り付けます。

(2004/18 19:17)
http://www2.asahi.com/special/jieitai/houjin/TKY200404180148.html

2邦人拘束をメールしたイラク人通訳、朗報に喜び語る
「3日間、食べ物がのどを通らなかった」——事件発生時に通訳として2人とともにいたイラク人通訳タラル・アブドルリダさん(28)は17日、朝日新聞記者にこの間の恐怖と、朗報への喜びを語った。
アブドルリダさんが事件後、日本のジャーナリストに電子メールを送り、2人の拘束が初めて明らかになった。
「武装グループから、何も話すなと命じられた。2人には『危ない』と言ったが、途中で引き留めなかったことを後悔した。話せば殺されると思ったが、知らせることが自分の責任だと思って、夢中でメールを送った」

引き続きタラル

タラルへのメールとスカイプに反応がないのでオールドファッションに戻って電話を掛けています。ところがバスラへの電話はめったに繋がりません。呼び出し音も聞こえません。たぶん着信以前の問題です。なもんでワリードに電話を掛けてもらっています。

バスラのタラル

タラルと連絡が取れません。タラルは2003年、日本の学生グループから招待されて来日し各地を講演で廻ったことがあります。彼にバスラを案内された平和・支援メンバーやジャーナリストも多くいると思います。タラルは時にシリアスでもだいたいアバウトなやつなのでこれまでも連絡が途絶えたことがありました。今回は限度を超えています。スカイプがまったくログオンされていません。電話も通じません。たんに個人的に愛想を尽かされていたということであればいいのですが。(管理人)

2011年1月31日月曜日

あの白血病の少女サファー


絵はがきや写真集で知られた白血病のサファーですがワリードに連絡がありました。病気はよくなり今は病院で看護師として働いています。写真の当時は10才くらいでしょうか?今はもう二十歳です。

2011年1月30日日曜日

襲撃された教会


さきほど話をしてたら受話器越しにサイレンの音が聞こえました。
「爆弾だ」とワリードが言いました。
ワリードの事務所がバグダッドのどこにあるのかそういえば知らなかったので聞いてみました。
カラダ地区でした。2ヶ月前にアルカイダ系グループに襲撃された教会が近いそうです。その教会には2003年5月沖縄の教会をワリードが案内しています。近くには日本人になじみのあるバグダディーヤとアンダルスパレスがあります。

覚醒委員会

手記を読んでの感想です。
米軍は当初ワリード逮捕の意図はなかった。たまたま銃声がしてパニックでワリードたちを逮捕してしまった。その後に絡んだ覚醒委員会が企みを起こしてワリードは罪を被ることになったように思います。ワリードが捕まれば彼の農場を手にできるという意図です。
覚醒委員会(評議会)とはどんな組織なのでしょう。
米軍が治安維持のために利用している民間組織で、米軍の支援を受けて(あるいは米軍を支援するために)シーアエリアではマフディ軍と戦いスンニエリアではアルカイダと戦っているとのことです。いずれも米軍にとっての利にかなっています(米軍がコントロールできる範囲であれば)。

2011年1月28日金曜日

ワリード職探し奮闘記

ワリードが釈放されてからもうじき1年です。戦後激しく変わっていくイラクで2年のブランクは大きいうえ精神にも肉体にもダメージを受けて娑婆に帰ってきたワリードにはきびしい職探しです。家族6人さらに一族のために休養の余裕もなく走り始めます。

2011年1月27日木曜日

食糧配給制

湾岸戦争から20年、イラク戦争から7年以上もたっているのにまだ配給制度が続いています。イラクでは最低以下の生活をするひとが700万人以上いるともいいます。
ワリードが刑務所にいた2年間、妻と5人の子どもはどうやって生きていただろうかと思っていました。生後3ヶ月の赤ちゃんがいて奥さんが働きに出られません。最低限の暮らしは配給食糧でなんとかなると思うしかありませんでした。
たまたまワリードの地域は昨日が配給日でした。明細を聞いてみました。
米、小麦粉、砂糖、豆、粉ミルク、石けん、洗濯石けんなどが配給されていました。昨年春から米、小麦粉、砂糖、油だけに減らされたそうです。今月は一人あたり米1キロ、食用油0.5リットルだけだったそうです。なお先月は配給がなかったそうです。
配給は貿易省(ministry of trade )の管轄で行われています。ワリードは横流しなどで市民に廻ってこないのだと言っています。

なぜワリードなのか?

なぜワリードのことばかりなのか?というご指摘を頂きました。
3年前ワリードが音信不通になりイラク関係のNGOに消息を聞いてまわりワリードへの支援も依頼しました。ワリードは支援関係者にも知られた男です。
その際にも言われたのは「公私混同になるため組織としては紹介できない」
他のNGOでは「子どもたちを救うための活動をしているためワリードには関われない」
などでした。
イラクのため動いておられる方にそれ以上の何かを頼みはしません。どうぞ子どもたちを救ってあげていただければと思います。
当方らワリードに関して個人として友人としてできることがあるはずだし、まずは出会ってしまったワリードを救いたいというスタンスをご理解いただきたいと思います。
(管理人ひろし)

メモ:拒否された医薬品

石油食糧交換プログラムが97年から始まりました。
しかしこのプログラムはイラク人のためではなかったようです。それまで産油国イラクの石油は原則輸出できませんでした。このプログラムにより部分的に解除されイラクは7年間で640億ドルという現金を手にします。人道支援物資として使われるという名目でしたがそれだけの巨額な金額ともなると腐敗はおきるもので国連幹部へのワイロ、そして結果的にフセイン一族に環流します。当時そんなことを知る由もなく上記情報は数年前に放送されたNHKのBSドキュメンタリーで知ったわけです。

15年前の記憶はあいまいですが配給は月に一回、公民館というか集会場のようなところで配られていました。小麦粉や米などの主食、塩、砂糖、食用油に石けんなどで肉・魚はなかったように思います。
ガソリンだけは戦前同様安くイラク人は死なない程度には生きていけるようになりました。
しかし医薬品は以前禁輸品に含まれイラクの患者には届かない状況でした。にも関わらずイラク保健省は97年、外国NGOからの医薬品の受け取りを禁止してしまうのです。
いまだにその理由がわかりません。
アメリカCIAが支援団体を偽装してイラク入りした。
期限切れの粉ミルクが大量に届いた。
HIVに感染した血液製剤がフランスから(誤って)届いた。
などとも聞いたことがあります。

メモ:救援活動で刑務所行き

管理人です。経済制裁が風化しつつあるようではあるしワリードの次の原稿が届くまでの場つなぎに書いてみます。

湾岸戦争後の経済制裁は主に乳児幼児を犠牲にする戦争に匹敵、それ以上にむごたらしいものでした。
反対のキャンペーンを張ったキャシー・ケリーと荒野の声でしたが1998年アメリカ政府から罰金刑が下りました。経済制裁という国策に反し医薬品や粉ミルクなどを不正に輸出したという罪で財務省から訴えられました。団体には16万3千ドルの罰金、個人には1万ドル。30日以内に支払え、そうしない場合は12年間の禁固刑

2011年1月26日水曜日

手記続き

現在管理人に届いたワリードの手記は全てアップしてあります。続きがいつ届くかわかりません。ワリードは現在の不安定な仕事からなんとか脱却したいとあがいています。その苦闘ぶりはイラクのひとつの状況を表しているかもしれません。

ワリードはバグダッドの基地内に収容されたあとバスラにある本格的な刑務所に移されます。目隠し後ろ手錠での数十時間の輸送だと聞いています。
この手記にはワリードの裁判費用を支援していただいた方々への報告という意味もあります。
弟アリはまだ釈放されていません。

2011年1月25日火曜日

メモ:イラク戦争と荒野の声

ワリードがキャシーについて手記に書いたので荒野の声のホームページを見てみました。すでに消えていました。2年前にキャシーらとワリード救出の電話会議をしたときにはまだ残っていました。残念です。
イラク戦争中の緊迫したリポートも読めなくなってしまいました。オリジナルドメインだったので経費がかかっていたのでしょうか。貴重な記録だったはずです。どこかにミラーサイトがあるといいのですが。

日本語で「荒野の声」と検索しても出てくるのはキリスト教に関連したものが多いです。
むろんキャシーはクリスチャンで団体名もキリスト教にちなんだものです。
キャシー・ケリーKathy Kellyは英文でならウィキペディアにページがあります。
当方が知っている範囲ですが荒野の声は複数の団体により構成されアメリカシカゴに本部を置き1996年から2003年まで活動しました。当初は医薬品や粉ミルクなど支援物資をイラクに送っていたように覚えています。経済制裁の不当性を訴えていました。2002年、アメリカがイラクを攻撃するという情勢になり、反戦を強く訴えるようになりました。その年の秋からイラクに常駐メンバーを置くようになりました。
2003年4月戦争終了後荒野の声は解散し構成団体はそれぞれ活動を始めました。
その年のノーベル平和賞にキャシーと荒野の声の活動がノミネートされました。キャシーは3度目の平和賞ノミネートでした。
荒野の声の有力な構成団体だったCPT(Christian Peace Maker Teams)は米軍による人権問題に取り組みアブグレイブ刑務所を告発しました。
CPTは戦後もイラクに留まり活動を続けましたが2005年11月イギリス人やカナダ人のメンバー4名が誘拐され、うち2名が殺害されました(正義の剣旅団が犯行声明)。
CPTは一時的に撤退しましたがまたイラクに戻りました。
キャシーは新しい団体Voices Creative non Violence を立ち上げ現在も活動中です。

2011年1月24日月曜日

最悪な年

いまワリードから電話があったので聞いてみました。湾岸戦争後の経済制裁中でもっとも悪かった年はいつか?
1994、95、96年かなと言ったあと、やはり96年だと答えました。
「食べるものがなかった!」
石油食糧交換プログラムは96年末に合意してその後生活は持ち直しました。しかし国連のその計画によって汚職が政府に、残念ながら国連にもはびこったということがあります。
参考映像
ワリードの息子が映像に出てくる学校に通っています。一教室に70人の児童だと嘆いていました。教室と先生が足りないそうです。

メモ:湾岸戦争と市民運動

18年前にワリードは日本の市民運動と出会い湾岸戦争の被害者救援活動を手伝うことになりました。
救援活動のきっかけは20年前の湾岸戦争(1991年1月17日ー3月3日)でした。当時クウェートに侵攻したイラクへの風当たりは相当強くおそらく一部の市民だけが立ち上がり行動を起こしたように見えました。それがPAN(ペルシャ湾のいのちを守る地球市民行動ネットワーク)というグループでした。
PANは湾岸戦争に反対し被災者を救援するという目的で91年1月30日に結成されました。影響を与えたのはGPT(ガルフピースチーム)、日本山妙法寺の寺沢上人らでした。ワリードの友人でもあるアメリカ人キャシー・ケリーはGPTのメンバーでもありその後はクリスチャン中心の平和団体「荒野の声voices in the wilderness」を設立しイラク戦争中も現地に留まりました。その活動が評価されキャシーと荒野の声はその年のノーベル平和賞にノミネートされました。キャシーは3度目の平和賞ノミネートでした。

2011年1月22日土曜日

ラーメン大ブーム

ワリードによると今、イラクでインスタントラーメンが大人気だそうです。子どもたちが大好きだと言っています。6個で1ドル以下(2,000ディナール)と安いです。
イラクで麺類を見た記憶はありませんでした。アンマンでも高級スーパーでなら見つかるかどうかって感じでしたが今やワリードの住む田舎でも買えるそうです。サウジアラビア産だそうです。

2011年1月20日木曜日

手記41:尋問

拘置所に入れられると自由だけでなく名前も失います。番号を言い渡されこれからは自分の名前を忘れてしまうよう告げられるのです。
アンラーワン基地での3日目の夜、突然番号が呼ばれました。数字がわたしの新しい名前です。尋問は唐突にしかも夜に始まるのです。その日も寒い夜でした。名前を呼んだのは女性の兵士で冷たく光るステンレスの手錠と足かせを持っていました。女性兵に手かせ足かせをされチェーンに繋がれ取調室に引っ張られました。チェーンのたてる大きな音がして耳障りでした。通路を歩くとあちこちの蜂の巣部屋の収容者から声がかかりました。「しっかりしろ!」「あきらめるな!」「神がそばについてるぞ」そして大合唱となりわたしを励ましました。
「アッラーアクバル!アッラーアクバル!アッラーアクバル!アッラーアクバル!」
勇気を得て怖そうな女性兵士に頼みました。
トイレに行かせてくれ。
腹具合が悪く歩くのも大変でした。しかし答えはNOでした。
取調室に入るとイスが三つありまもなく通訳を連れた取調官が入ってきました。その二人もまた女性でした。わたしは苦痛のあまりしゃべることもできません。なんとかトイレに行けるように頼み今度は許可されました。せきほどの女性兵は不機嫌な顔つきです。トイレには見張についてきます。股間のイチモツは暗くて見られなかったはずでそれがせめてもの慰めでした。
わたしはようやく人心地ついて頭が働くようになりました。取り調べは再開されましたが質問はいつものどうしようもないものでした。

メモ:バグダッドの日本女性

バグダッド(マンスール地区)に一人で住んでいる日本女性がいます。
ワリードから聞かされただけで当方管理人は面識ありません。ワリードも二年の刑務所暮らしで連絡が絶えていました。安否を気にかけていて昨年秋から何度も訪問をするとは言っていたのですが「セキュリティエリアで自分のIDでは入れない」「郊外に帰宅するのに夜遅くなったら危ない」といろいろ理由があって時間がかかっていました。
すでに帰国しているかもしれませんでした。治安は多少良くなったとはいえ外国人それもかなり目立つ女性でイラク暮らしができるとは思いませんでした。
で、ようやくワリードが会いに行ってきました。元気で暮らしているそうです。買い物などたいへんらしいですが近隣住民との関係は良好でまずはだいじょうぶそうだということです。

彼女もこの戦争の犠牲者です。イラクでひとりになってこの一月末でまる六年になります。

手記40:孤独と家族への思い

拘置所の奥の独房にいると耐え難い孤独を感じます。まるで世界から切り離されたようでした。夜は所内のあちこちからすすり泣く声が聞こえてきたものです。
なぜわたしはここにいるのでしょう。なぜアメリカの(頭文字Fな)兵隊らは容赦ない仕打ちをするのでしょう。
わたしは肉体的にはひとりぼっちでしたが胸の中は家族への思いがあふれつづけていました。三ヶ月前に生まれたばかりの赤ん坊はどうしているか、誰か殺されていなか、誰が生き残ったろうか。家族と過ごした時の鮮やかな思い出のフィルムが頭の中で回りいつまでも止まりませんでした。
わたしと同じように妻や子どもたちはどれほど心配しているでしょう。逮捕された夜わたしは家族に何も告げずに家を出て来ました。わたしが妹の電話を受けたとき家族はすでに寝入っていたからです。
妻と子どもが銃声で目を覚ましたときわたしは家におらず、「お父さんは殺されてしまった!」とみなが信じ込んだそうです。
夜が明けると妻と年長の子どもたちは農場を歩き回りわたしの死体を探し、血痕を探しました。米軍が来てそこに血溜まりが残されればそれは誰か殺されたのだと子どもでも知っています。そして家族らはわたしが拉致されたと判断したのです。
家族と面会が許されこの話を聞けるようになるにはこのあとまだ半年かかるのでした。

手記39:健康診断

困惑の最たるものは健康診断でした。検査には着衣を脱ぐことになります。これがアラブ人にはたいへん落ち着かない不愉快な気分になるのです。米軍は手を抜いてアラビア語通訳を用意しません。価値観(羞恥心の感覚)、コミュニケーションの欠如がときに悲劇を引き起こします。
若いアメリカ兵のスラング混じりのアクセントはわたしにも聞き取れないことがありました。何を要求しているのか一般的なイラク人には全く通じなかったでしょう。
中年の男性がいました。服を脱ぐように言われましたが彼には意味がわかりません。それどころか数人がかりでレイプされると思ってしまったのでした。アブグレイブ刑務所での虐待事件はイラク人の記憶に焼きついています。おじさんはパニックになり「犯られてたまるか!」と叫びながら激しく抵抗しますが兵士らは何を言っているのかわからず二人が力ずくで裸にしてしまいました。そこに現れたドクターはおじさんの抵抗を痔の疾患と解釈し彼をひざまずかせました。
おじさんは守りたかったところを無駄にグリグリされやはり尊厳を失いました。

2011年1月17日月曜日

湾岸戦争から20年

経済制裁はその数年前からなのでもう20年以上イラク人は苦しんでいるわけです。
アメリカ中心の国連が下した経済制裁により1991年からの12年で120万人から170万人と言われるイラク国民が死にました。多くは新生児や乳児でした。(イラク戦争前にイラク赤新月社で160万人という数字を聞きました)。左サイドのイラクボディカウントの数字を見てください。当時は一年で10万人以上です。
国連の石油食糧交換計画(オイルフォーフード)が始まる96年(実質97年?)までは文字通りバタバタと死んでいたように思いました。

2011年1月16日日曜日

手記38:SHAKEDOWN

一日に5、6回看守がやってきて「SAKEDOWN」と怒鳴ります。房内検査です。わたしは壁に向かって立ち上がり両腕はまっすぐに伸ばし、足は大きく肩幅に広げなければいけません。看守のひとりが房内を調べもうひとりは入り口で銃を構え逃亡や反抗に備えています。看守は全てを調べるのですがもとからたいしたものを所持していません。看守は泥だらけのブーツで毛布を踏んづけ、コーランを蹴飛ばしていきます。
支給された寝具はひどいものでした。毛布はよく言って犬小屋の犬なら使う程度でしょう。
枕はなかったためプラスチックのサンダルを枕にしていました。たった1センチの高さしかありません。これが新しいアメリカ民主主義が与えてくれたものでした。

米軍は1万回も繰り返し尋問しました。「なぜ英語を話すのか?」「なぜ日本のマスコミの書類を大量に持っているのか?」「なぜ結婚しているのか?」「なぜ子どもがいるのか?」「映画ヒバクシャはなんだ?いつ撮影された?」「タカシとは誰だ?」「キャシーとは誰だ?」「誰だっ?誰だ?誰だ?誰だっ・・・・?」
バカバカしい尋問でした。尻の穴の毛の本数さえ数えました。
取調官は何度も入れ替わり、なかには女性もいました。
精神が打ちのめされ一日が暮れていきます。

手記37:刑務所暮らし

当然ながらすべてが激変しました。広々とした生活は巣箱に押し込められました。幼児のように扱われ何をするにも許可がいります。米兵は気紛れで時に許可され時に拒否されます。
そのうえで米軍はわれわれに民主主義と自由を与えにきたと信じろと言うのです。

基地に着くとシャワー室に連れて行かれました。その前の三日間シャワーもトイレでの水も使えませんでした。わずか2分間のシャワーが許されただけでしたがこれまでの苦しみと疲れを癒す休憩になりました。不潔な生活が再スタートです。。
看守役の兵士は2、30分おきの見回りのたびに部屋のドアを力まかせに蹴飛ばしていきました。寝かさず休ませないためでしょう。それでも以前の基地よりは暖かいぶんだけましでした。夜間は二回トイレに行くことができました。しかしトイレにドアはなく常に見張られていました。時に女性兵士が看守でした。許される時間はわずか30秒。たいへんな屈辱でした。
わたしたちは起訴されたわけでもなくまして判決もなく、身分としては被疑者であって勾留場という名前の施設にいるのでしたが実質監獄であり囚人でした。

〜休憩タイム〜


残ったウサちゃん。

2011年1月15日土曜日

手記36:囚人として

アンラーワン基地の広い敷地の奥に拘留施設がありました。高い塀に囲まれていました。
頑丈なドアが背後で閉じるとわたしは囚人になったのでした。
囚人らはほとんどがバグダッド南部の出身者でした。
集められたわたしたちの前に刑務所の責任者が現れ警告をしました。
「この建物は隔離されておりいままで誰も脱走したことはない。番犬の代わりのオオカミが生きた兵器として脱走者をかみ殺すことになっている」
金属製の手錠に変えられました。支給された囚人服は派手な赤地にオレンジ色でした。
部屋は一人用で高さ幅、奥行きともに190センチの真四角で天井は金網です。そのため米兵は蜂の巣と呼んでいました。
基地に着くとシャワー室に連れて行かれました。その前の三日間シャワーもトイレでの水も使えなかったので大いに期待しましたがわずか2分間のシャワーが許されただけでした。それでもこれまでの苦しみと疲れを癒す休憩になりました。しかし新たな苦しみの始まりでもありました。

手記35:バグダッドの基地へ移送

アリの犠牲にも関わらずわたしとヤヒヤは解放されません。それどころかバグダッドの別の基地に移動すると言ってきました。約束が違うではないかと言っても聞き入れません。それどころか凶悪犯としてキューバのあの悪名高きグァンタナモ刑務所に移すとまで言われたのです。
夕暮れを待ってわたしたちはバグダッド北東のアンラーワン基地に移送されました。核施設基地には三日間の拘留でした。あっという間の転落でどこまで落ちていくのでしょう。

アンラーワン基地はサダム時代は陸軍の新兵訓練施設でした。わたしは16才のとき体験兵士としてここに来たことを思い出しました。今基地には星条旗がはためき、わたしは囚人です。

2011年1月14日金曜日

イラクの未成年

アリは17才でしたが成年と同じ扱いをされました。イラクでは日本のような少年法がないようです。ワリードは刑務所で12才の囚人を見たそうです。毎夜泣き明かしていたそうです。

手記34:弟の決断

武器と家族の女性らの写真は米軍が撮影したものに違いありません。わたしたち罪を被せるためにです。
わずか10分で結論など出せません。
弟アリが志願しました。
わずか10分のことでもこの時のわれわれ兄弟の心情を語るのは苦しいです。
アリは家族の女性と子どもたちを守るために自分の役割を果たすのだと言ったのでした。
アリはまだ17才でした。兄を殺され両親を一度に失ったばかりでした。
翌年10年の判決を受けることになります。

手記33:米軍の脅迫と取引

武器所持についての主張は認められませんでした。そして彼らは提案を持ちかけてきました。わたしたち兄弟3人のうちひとりが罪を認め刑に服せよと言うのです。しかしこれは提案というより脅しでした。拒否すれば家にいる妹らを逮捕するというのです。
アラブでは女性の位置は微妙で繊細です。アラブの男なら身内の女性の品位を守るためにすすんで犠牲を払うものです。米側の提案はこのわたしたちのウイークポイントをついたものでした。この提案を拒否すれば米軍と結託している地域のサフワにつけこまれ先祖の土地を奪われることになるでしょう。
決定的だったのは米軍が見せたもう一枚の写真でした。そこには姉と妹、わたしと兄弟の妻たちそして子どもたちが銃を前にして並んで写っているものでした。
取調官は冷酷に言ってのけました。
「お前らの言うことを聞く人間はどこにもいない。10分やるから一人を選べ」
テントの外に連れ出され兄弟三人になりました。兵士ひとりが後ろで見張っています。
わたしたちは愚かしい人種だと思われているに違いありません。

手記32:暴行

弟の取り調べには脅しと暴力がありました。弟は何も知らないと言い続けたそうです。殴られ顔から血を流していました。アリはまだ17才です。わたしは頭に来ました。がまんできません。この気持ちをなんと書き綴ればよいでしょう。
寒い夜でした。義理の弟は取り調べに連れ出されたきり戻ってきませんでした。彼はまだ14才で連れてこられて以来泣き通しでした。父親を最近亡くしたばかりでした。そのため釈放されたとのことでした。
しかしわたしたち兄弟は自由だと言われながらいっこうに釈放されません。

取り調べはわたしに廻ってきました。取調官は険しい顔で現れました。彼は言いました。
「農場で武器を見つけた」
「いったいどこで?」とわたしは聞き返しました。
一枚の写真を見せられました。地中から掘り起こされたような武器でした。その武器をなんと説明すればよいのでしょう。わたしたちは二年前にバグダッドから移り住んできました。そのしばらく前に米軍と覚醒評議会サフアによる武装解除で地域の武器が集められ廃棄処分として埋められたのがわたしたちの農場でした。そのことなら地域の住民はみな知っています。
埋め立て処理の日付の記録、武器についた指紋などの照合を要求しましたが米軍ははわたしたちのものだと決めつけるのでした。

手記31:米軍の尋問

翌朝から尋問が始まりました。アラビア語の通訳はシリア人でしたが彼の訳はおおむね間違っている、あるいは適切な訳語を使っていないようでした。彼はアメリカ兵以上に短気でわたしたちの回答に満足せずに時に殴ることがありました。
米軍が聞き出したいことは「誰が米軍を攻撃しているか?」そして何人かの写真の人間を見せ人物を特定できるか、そしてレジスタンスに供給される武器弾薬の在処についての情報を聞きだそうとしました。

わたしは翌々日の3月3日までにイラク北部に行く約束がありました。日本から取材に来るマスコミとの仕事でした。米軍に事情を話し出発しなければならないと訴えましたが当然のように拒否されました。
彼らアメリカ人は最優等の人間でわれわれイラク人には配慮される価値がゼロなのです。
わたしは米軍に協力することをやめました。なぜに拘束されているのか?理由もわからずに何も協力はできません。米軍とネゴシエーションを続けようやく、わたしには追求されるような落ち度はなくいくつかの質問があるだけでまもなく解放される。という言葉を引き出しました。取調官によるとわたしに対するネガティブな報告があったがこれまでのところ証拠はないことがわかった。ということでした。夜の8時までかかり調書をまとめわたしと兄は翌朝には解放されるということになりました。弟の解放は遅れることになりました。

わたしは即座の解放を要求しました。しかしすでに夜になっており危険なので解放できないと扉を開きません。
おかしな話でした。米軍は必要とあればどんな時間でもイラク人を引っ張り出しています。現に基地内にいて夜の8時で解放できないとは。
このとき何かが企てられていたようです。米軍はわたしたちをじらし、一方で脅しいつのまにか操られ知らずにイラク側に引き渡されることになったのです。それはわたしたちがレイプされ殺されることを意味しています。後になって米軍士官から聞いたことです。

2011年1月13日木曜日

手記30:米軍基地一夜め

基地に着いたのは午前2時を廻った頃でした。わたしたちはそれぞれ個別に聴取を受け、ひとつのテントに容れられました。目隠しをされ後ろ手に手かせされ簡易ベッドに寝かせられました。毛布など寝具も暖房もありませんでした。たったひとつの電気ヒーターは見張りの兵士が使っていました。
夜の冷え込みが厳しくなっていました。尿意が強くなり見張りにトイレに行かせるよう交渉しました。ようやく訴えがとおりトイレ用のテントに連れて行かれました。兵士は入り口の布を取り払いました。手かせは後ろから前にされました。
テントのトイレはかつてこれほどのものを見たことがないくらいの凄まじさでした。プラスティック製のポータブル洋式便器は汚れ放題。水もトイレットペーパーもありません。腹がくだっているときこの半壊したトイレでどのように用を足せというのでしょう。兵士たちは誰もわたちたちの不満に耳を貸しませんでした。わたしたちは敵と見なされた囚人なのだとこれらの扱いではっきりわかりました。

手記29:米軍基地へ連行

上官はわたしの家はどこかと聞いてきました。場所を示すと部下らに捜査するよう指示を出しました。家には3ヶ月前に生まれた赤ん坊がいます。イラクの田舎ではベッドではなく床に寝ています。停電で何も見えずアメリカ兵の軍靴に踏まれてはたいへんです。上官に注意するよう頼みこんだ矢先、大きな爆発が起きました。同時に兵士が銃を7、8発続けざまに撃ちました。爆発はなんとわが家のほうからではないですか。叫び声も聞こえます。子どもと女性の声でした。何が起きたのか確認のしようなくわたしと父の家にいた兄弟はその場で逮捕されてしまったのです。わたしたちは4人で兄ヤヒヤと弟アリ、そして14才の義理の弟でした。


わたしは猛然と抗議しました。わたしたちのどこがテロリストなのか!わずかな時間の議論で非協力的とみなされ連行されることになりました。すでに犯罪人扱いでした。まず地域の覚醒委員会(Sahwa)に連行され身元の照合をうけ釈放か拘束か判断されました。どうやら釈放されなさそうな気配でした。
そして連行されたのは米軍の基地でした。村から西に4キロ足らずでサダム時代にツワイサ原子力研究所として知られたところでした。

手記28:2008年2月29日深夜逮捕

いつものように基地の仕事から帰宅し就寝しました。人目を避けて通勤しているため朝がたいへん早いのです。妻や子どもたちは10時くらいまで起きておりわたしは別の客用の部屋で寝ることにしていました。ちょうどその日は義理の弟がわたしたちと同居している彼の妹に会いに来ていました。
携帯電話が鳴り深い眠りから目がさめました。11時、寒い夜でした。近所の父の家に住む妹から急を告げる連絡でした。米軍が来ておりわたしの家はどこかと探し回っているとのことでした。通常ならすぐに逃げ出すべき事態です。わたしにはテロリストとの関係は全くなく、基地で仕事をし英語も話せます。米軍を避ける理由がありません。米軍が来ているという父の家に行き問題を解決するべき判断をしました。
父の家はすでに米軍の車両(ハンヴィー)が数台取り囲んでいました。停電のためあたりは真っ暗です。ハンヴィーのルーフには射撃手が配置され警戒しています。ここで姿を現すのはまずいのではないか?暗闇から現れたら敵と間違われ撃たれるかもしれない。引き返すべきと判断しました。しかし今ここで背中を見せれば米兵は私が逃げ出したと思うかもしれません。難しいとっさの判断でしたがわたしはゆっくりと近づきアメリカ兵に声を掛けることにしました。それが撃たれないための最善の方法と思えたのです。
わたしの「ハロー」という言葉に兵士らは驚きいっせいに銃口をわたしに向けてきました。「落ち着いてください、わたしはこの家の者です」
兵士が上官らしき将校を連れてきました。階級はわかりませんでしたが彼はわたしの顔に銃をつきつけ質問をしてきました。まるで犯罪者に対する尋問のようでした。
米軍は何人かのイラク人を探しているようでその顔写真のリストを見せてきましたがわたしには名前も顔もわかりませんでした。

2011年1月12日水曜日

手記27:逮捕直前

前回原稿の最後にイラクにいる米兵との架け橋となり暴力を止めたいと書きました。現実には米軍基地ないでのショップ店員として危険にさらされる日々でした。毎朝の出勤時に基地の入り口でひとりづつチェックを受けます。そんなときに地元のミリシアなど反米組織に見つかれば命を奪われることになります。一方で基地で働かなければ家族と生きていくことができません。
バグダッドから逃れ郊外の村に移り住むことになったのですが不運にも良い選択ではなかったようです。ひとたび村を出るとミリシアの戦闘に巻き込まれかねないのです。サドル派マフディ軍と地域のスンニ派ミリシアとの戦闘でした。家を出ることはいわばギャンブルのようなものでした。うまくいけば無事に帰られるかもしれません。
米軍は治安の維持も回復もできずイラク政府も同様でした。市民は自分らで身を護るしかありませんでした。とくに夜に村人が襲われることあり村では自警団を組織しわたしも参加しました。時に警察と戦闘になることもありました。ミリシアは時に警察車両を乗りつけてくるので本物か偽物かがわからないのです。

2011年1月11日火曜日

ワリード手記再開

秋以来途絶えていたワリードの手記が届きました。米軍に捕らえられる直前までがこれまでの手記に書かれていました。数回に分けて和訳する予定です。

ワリードからーーーーーーーーまず原稿の続きが遅くなったことをお詫びします。イラクでの生活が苦しく原稿に向き合うことができませんでした。ーーーーーーーーーーー

2011年1月2日日曜日

ワリードの息子、ウサギを埋葬する

ワリードの息子が知人からウサギ2匹をもらいました。翌日に1匹が逃げ出しました。イヌが追いかけたところ突然死んでしまったそうです。牧場犬として飼っている利口イヌなので噛んだりはしていないとワリードは言っています。