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2011年2月18日金曜日

手記43:嘆きの朝

引き続き妻から聞いたことです。
子どもたちは深夜に見慣れぬ外国の兵に起こされたショックから泣き続け、父親はどこかとまた泣いたのです。
実家から妹が来て兄ヤヒヤ、弟アリ、そして妻の14才の弟も連れ去られたことを皆に告げて一緒に泣いたそうです。
2月下旬はまだ冬の寒さでした。ドアと窓が壊された家で寒さをしのぐために妻はなんとか応急処置をしなければいけませんでした。妻は一部屋だけ片付けると薪を燃やし子どもたちを暖かくして眠れるようにしたのです。ただニブラスだけがパニックが治まらず10分おきに目を覚まし大声で叫ぶのでした。
ニブラスは3才で言葉を覚え始めたころで可愛い盛りでした。今この原稿を書いていて隣にニブラスがいます。「毎日部屋に閉じこもってひとりで泣いてお父さんの帰ってくるのを待っていたの」とニブラスは言ってくれます。

わたしたち家族はすでに十分痛めつけられていました。宗派戦争でバグダッドから逃れて来てそれほどの時間はたっていません。弟はミリシアに殺され、妻の父親も誘拐後殺されました。わたしの両親も続けて死んだばかりです。そんな中で、ついにわたしまで行方不明となれば妻と子どもたちはわたしが殺されたのか逮捕されたのか、とにかく良い想像では出来なかったでしょう。
翌日、日が昇ると同時に妹と妻、子どもたちは農場と周辺を歩き回りました。子どもたちは学校に行かず米軍が何か手がかりを残していっていないか探したのです。ほとんど希望の持てない嘆きの朝でした。
米軍は何も言わずにわたしたちを連れ去っています。こうした米軍に襲われた場合恐ろしい話ですが連れ去られた男たちは翌朝たいてい近くで死体で見つかっているのです。
農場とその周辺には血の池など殺害を示すものはありませんでした。妻は子どもたちに希望を話して聞かせました。お父さんは生きていると。

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