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2015年11月20日金曜日

14:夜の海

私たちに許されボートに持ち込むことのできた荷物はたいへんに限られていました。小さな男の子がやってきて予備のライフジャケットはないかと聞いてきました。その子の母親は貧しくライフジャケットを用意することができなかったのです。わたしは自分のライフジャケットをその子に渡しました。自分にはまだクルマのタイヤチューブがありました。
ケータイは全て電源を切るよう指示されました。沿岸警察はケータイの信号をキャッチするのだそうです。
ギリシア側の島までわずか13Kmでボートの船長は40分くらいで到着するだろうと言いました。ボートは重量オーバーでまったくスピードが出せなかったからです。

13:海へ

バス4台を連ねて港へ向かいました。バスそれぞれに23人の乗客です。町外れで斡旋業者と合流し2隻のボートを牽引しました。すなわち一隻に46人でエンジンはたったの30馬力です。
バスの運転手はかなりの速度でバスをとばしました。取り締まりを恐れてのことですが山道ではスリップしそうでなんどもヒヤリとしました。運転手にとって逮捕されるのは事故よりも大問題なようです。それでも一台が捕まってしまいました。
狂気の運転でもイスタンブールから9時間の道のりで深夜2時にようやく海に到着しました。しかし港ではなく森のようなところで恐ろしげに見えました。斡旋業者は繁みに隠していた船の部品などを引っ張り出し、運んできたボートと組み立てました。
ボートは海に押し出されました。海は高くうねり、風の音が強く暗闇で何も見えず誰もが押し黙ったままでした。夢に見たはずのヨーロッパへの一歩のはずでした。それぞれ日常で脅かされていた爆弾、銃撃などとは違った恐怖を感じました。みな無言でライフジャケットを着はじめました。

12:イスタンブール出発

ただ時間がすぎ不安がつのりました。前払いした船代を返してもらい別の斡旋業者を探すことにしました。仲買人に手数料を払って見つけたのはバスラから来た信頼できるという評判の男でした。彼と交渉し操船をするという条件で自分の分の船賃は無料になりました。数日無為に待ち出発の準備が整ったという連絡がありました。今度の集合場所は別の丘でした。ミニバスが来てようやく乗ることができました。バスの運転手は窓にカーテンを引き、前の座席には金髪の女性を座らせ後ろの方にはむくつけき髭の男たちを座らせたのでした。今回も警察が現れましたがわたしたちのバスは止めらることもなく出発しました。
今回の手配のシリア人の元締めが現れ段取りの説明をしました。わたしはエンジンについて質問をしました。途中で止まってしまっては困ります。エンジンはホンダの30馬力の新品だと答えました。

11:イスタンブールで待機

翌日バスを待つひとびとは増えていました。待機場所は取り締まりの目を恐れて町から遠く離れた丘に移りました。やがて2台のバスが来ましたがわたしたちの座席はありませんでした。
数分後警官隊が現れ周囲を囲まれました。何人かは逮捕されたようですがわたしたちは路地裏からなんとか抜け出すことができました。今回の逮捕劇で港行きのバスは3日間キャンセルになりました。アクサライの難民集結場所は警察にマークされてしまったようです。

10:イスタンブールの脱出者たち

斡旋業者は戦後トルコに脱出してきたサダム・フセインの一族で誠実そうな男でした。彼を信用して前金を払いました。出発の日は確定せずいつでも出発できるよう待機していろ言われました。海の旅のためにライフジャケットを買い、さらに浮き輪代わりにクルマのタイヤ用のゴムチューブも買いました。貴重品は防水袋に入れひとつにまとめずあちこちのポケットに仕舞いました。
公園では100人以上が港へのバスを待っていました。トルコ当局の取り締まりを警戒し30分ごとに場所を変えました。夜の7時から深夜1時までバスを待ちましたが小さなバスが2台来ただけでわたしたちは乗ることができずそのうち警察がやってきてわたしたちは逃げ出すしかありませんでした。今夜チャンスはないとあきらめました。
わたしたちは公園で朝を迎えました。強盗に襲われるよりは高いホテルに泊まるべきなのですが深夜ということもあってホテルは見つかりませんでした。

9:家族と未来のために

イスタンブールのホテルで息子と話し合いをしました。海に乗り出すのはひとつの決断でした。息子はイラクの田舎で育った純朴な少年です。危険を冒し海を渡るべきかその判断を彼にゆだねてもいいものでしょうか。しかしイラクに留まっていては彼に未来はありません。電話で話した妻はとくに最初の子供である彼のことを案じています。イラクに引き返したところでさらなる恐怖が待ち受けるだけです。イラクに帰ることはできません。
ある晩、わたしは息子に話しました。イラクで残酷なテロリストに殺されるわけにはいかない。この旅は危険かもしれないが勇気を持って乗りだそう。残してきた家族の未来のためにも。
息子は納得し翌日わたしは斡旋業者を決めました。

8:海を渡ってギリシアへ

トルコの先の目的地はギリシアです。翌日から海路ギリシアへの方法を探しはじめました。だたいたい密輸をやっているような商人が手配も請け負うようでした。
だいたい二つの選択がありました。
ひとつは小さな数人乗りのプラスチック製のボートで、予算はひとり1500ドルくらい。
もうひとつは大型船でひとりあたり2500ドル。商人は前払いを要求しました。
うわさ話がわたしたちのようなヨーロッパに向かう脱出者の間で飛び交っていました。ギャングに金を奪われた話。海で沈んだボートの話。わたしは誰を信じて海に乗り出せばいいのでしょう?ともかくわたしも息子も泳ぎができません。息子を海で死なせては妻に言い訳ができません。小さなボートはやはり避けるしかないようです。資金に余裕がないものの選択の余地はありませんでした。しかし海で溺れることるだけが心配ごとではありませんでした。
もしトルコ警備隊に捕まったらどうなるのか?イラクに犯罪者として送り返されるのか?手配の商人は信用できるのか?だまされてしまうのではないか?

7:トルコ

ひさしぶりのトルコはすっかり変わっているようでした。そしてほとんど全て、街の通りからなにからイラクとは違って見えました。
アルビルからトルコの大都市イスタンブールまで34時間のバスの旅でした。
イスタンブールの到着は午後になりました。数時間で夕暮れでした。
わたしと息子はアカサラという難民受け入れセンターに来てみました。そこには100人ほどのひとたちが路上で寝ていました。イラク人、シリア人、アフガニスタン人、他の国籍のひとたちもいたでしょう。いくつかのNGOが来ておりとくに子供と女性向けの支援をしているようでした。多くの家族がいてたいへんな混雑ぶりでした。わたしたちが横になるスペースもないようで長旅で疲れ切った体を休めるためにホテルを探しました。どこも満室あるいは高額な料金のため長いあいだイスタンブールの街を探し歩きました。

6:故郷との別れ

生まれた国、愛しい家族を残して深夜の国境から去っていくことになるとはきょうその日まで想像もしませんでした。イラクがこのまま危険な地であれば戻ることもない、、つらい想像でした。
しかしわたしに選択はあったでしょうか。あのままイラクに残ればいずれ、遠くないうちに殺されるのは明白でした。
手続きが終わってバスがもう戻ることのないトルコへの道を走りはじめました。

5:トルコ入国と山本美香さん

アルビルでクルド商人と相談し山岳地帯の国境越えも検討しましたがISISメンバーと疑われる可能性もあり危険と判断しました。クルド当局は出入国に対して慎重になっているようで安全策としてバグダッドークルディスタンのノーマル航空券を購入することになりました。昨夜と同じ農家で一晩を過ごし、翌日航空券の提示でスムーズに国境を通過することができました。
国境を越えた側のアルカリールでトルコ側の手続きがありました。バスが停車しました。11年前にジャーナリストの山本美香さんとこの地に来ました。わたしの胸が痛みました。

4:トルコ国境越えで一悶着

翌日、国境まで乗り合いバスで向かいました。バスは満員で一時間ほどでアルビルの出国審査ポイントで降ろされました。国境の警官は航空券か許可証が無ければ通せないと言ってきました。クルド人商人からはそのような書類はいらないと事前に聞いていました。しかし警官は出国を認めてくれません。わたしはこのルートを手配したクルド商人に連絡をとりアルビルのバスターミナルに引き返すことにしました。

3:トルコ国境の町へ

真夜中にディアーラというのトラックサービスエリアに着きました。夜間の戒厳令のため道路はこの先封鎖されるというので駐車場で夜明けを待つのです。わたしたちは数時間の仮眠をとりました。12時間の長いドライブでしたがところどころ未舗装の道でトラックは何度も停車をしました。わたしたちはアルビル到着まで車外に出ることができませんでした。
アルビル到着後パーキングエリアにランドクルーザーがやってきました。トラックはここまででした。わたしたちはランクで郊外の小さな農家に連れて行かれ翌日まで不安な思いで過ごしました。

2015年11月19日木曜日

2:イラク脱出

8月8日、わたしは子供たちのうちの17才の長男ひとりを連れ、日没から数時間後の夜のバグダッドから北のクルディスタンを目指しました。
最初に乗ることができたのは大型トレーラーで食品用の冷蔵車でした。非常に暑い真夏の貨物車に乗るのは不可能でした。
バグダッドから北部のアルビルまでは国道をシーア派民兵がコントロールしており激しい戦いがISISとの間でおきています。スンニ派市民がこのルートを通過することは非常に危険で多くのスンニ派市民が殺されていました。
クルドエリアにはアラブ系イラク人は許可証がないと入れません。クルド人密輸商人は北のトルコ国境までのトラック乗車を約束してくれました。

ワリードからの手紙1:2015年夏イラクから脱出を決断

友人のみなさんへ。
この夏の突然の決断、イラクを脱出し北欧のフィンランドを目指しました。
イラクの治安は悪化しとくにバグダッドそして自分の住む村までも日々危険にさらされるようになっていました。
わたしの村では子どもから大人までの誘拐が頻発し、理由なき殺人、さらに不当な警察による逮捕、その後の音信不通。この一年の間に自分の二人の従兄弟、友人ひとりがそれぞれ別の地域で警官に拘束されました。そして今にいたるまで彼らの消息は誰も知りません。

イラクを脱出したワリード

ヨーロッパ諸国を目指す難民が続出した今年の夏、ワリードとその息子もまた国境を越えていました。
移動中のワリードとの連絡は不定期でしたが約一ヶ月前に北欧に到着、当面の受け入れ先収容施設の暮らしにも落ち着いたようです。
この数ヶ月間の彼のイラクから北欧フィンランドを目指した道のりをお伝えします。