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2011年2月26日土曜日

手記50:あと45日?

翌日の取調官はまだ若く、腕にはshell of bullet(意味不明)と硝煙の刺青をしていました。いくつかの質問のあとわたしにタバコをくれました。メンソールだったと覚えています。
「あなたの経験からしてわたしの釈放の見込みはありますか?」わたしは聞いてみました。
「自分はその担当ではないのではっきり言えないがもし釈放されるとしても最低45日はかかるだろう」そう答えた彼は親切な男でした。わたしは英語が話せましたし、事情を聞いてもらうことができました。
「ましな部屋を用意しよう。しかしこんな話をしたことは誰にも話さないほうがいい。ねたまれてレイプされる。悪ければ殺される」
さらに日本との関係があることも話さないようにと忠告されました。あの中には殺人者もテロリストもいると言うのす。

わたしは雑居房に戻ってから考えてみました。45日間はたいへんに長い。長すぎます。わたしが請け負っていた取材の仕事は始まっていて日本からの取材班はバグダッドに来ているはずです。この刑務所でいくら気をもんでも、いくら抗議してもまったく無駄だったでしょうけれど。

取り調べなどで房を出されるときは頭からすっぽり目隠しをされ手錠もかせられます。兵士が悪党な奴だとチェーンで引っ張り廻します。
「犬のクソのケツの穴のち○カス野郎のdoosh back(意味不明) ……etc」と耳元に口をつけて罵詈雑言を浴びせます。
そして脅し文句は「いつでもテイザー&ペッパーをお見舞いしてやるぞ」です。
ここで何が起きているか、何を言われているか誰が知るでしょう。わたしたちは5メートルもある高い塀に囲われています。外に出るには護衛が守る橋があります。誰も逃れることができません。ここでは黄色い囚人服を着せられました。このいまいましい世界がわたしの生きる現実になったのです。


*仮訳中です
*管理人の解釈ですが起訴になるか不起訴になるかの手続きまで45日かかる、ということなのではと思います。
*ワリードは日本のメディアがワリードの逮捕を知って何らかのアクションをするものと期待していたはずです。ワリードのアシスタント役のイラク人が、ワリードが約束の日になっても現れないために家族に連絡をとり、事情を把握し日本のメディアに知らせています。
日本はアメリカの友好国です。自分はそこらのイラク人とは違うと考えていたかもしれません。その期待ははずれて刑務所を転々としてさらに2年を過ごすのでした。

手記49:劣悪な雑居房

空港(クロッパー)刑務所では雑居房に入れられました。コンクリートの打ちっ放しでドアは頑丈な鉄製でした。広さは8×7メートル。さまざまな国籍の男たちであふれていました。エジプト、イエメン、サウジアラビア、シリア、イラン、アフガニスタン、nibal(意味不明)、インドなど、、。
考えられないほどのすし詰めでした。最も人数が増えたときには一部屋に80人にもなったのです。1メートル四方に1.5人の計算になるでしょうか。横になって眠ることなど出来ません。みなで考えて眠るひと以外は立ってスペースを作り交代で眠ることにしました。。
年をとった者は長く休めるように配慮されました。
よく停電がありました。ファンが止まると多すぎる人で息が苦しくなりました。
何度も逮捕されたというひとは珍しくありませんでした。米軍は手当たり次第逮捕していたのでしょう。逮捕の理由はばらばらでそれぞれ皆にストーリーがありました。
食事はパンにバターとジャムでした。たまにバターとオレンジでした。イラク人には受け入れがたいものです。わたしたちは空腹を抱えていました。
(ワリードと連絡が取れないので仮訳です)

2011年2月25日金曜日

手記48:電気ショック銃 taser and pepper

広場で2時間立たされました。ひとりの老人が疲れ果てて不満を口走りました。その時テイザーの意味を知ることになりました。テイザーはスタンガンの一種で引き金を引くとワイヤ付きの針が飛び出して電撃を浴びせます。それをくらわされた老人は悶絶して床でのたうちまわりました。老人の孫が助け起こそうとしました。ペッパーの意味がわかりました。兵士はまだ子どものような若者の目に向けてスプレーを発射したのです。その場の全員は彼らを助けることができず凍りつきました。
後になり話をできる兵士から教えられました。ペッパーとは唐辛子成分の催涙スプレーのことでした。
テイザー&ペッパーで基地から手荒く歓迎されました。可哀想な老人と孫は見せしめだったのでしょう。
すっかり従順になったわたしたちは順番に網膜と指紋を撮影登録されました。続いて最初の取り調べが始まりました。今までにない変わった質問がありました。
「自殺したいと思うか?」
あわれな男たちがイエスと答えました。そう答えれば同情され丁寧に扱われ、釈放も早まるだろうと考えたのです。
現実にはそう答えた連中は自殺防止のために裸にされ独房に放り込まれたのでした。

手記47:空港刑務所へ

翌朝になりました。わたしの番号が呼ばれ外に連れ出されました。そこには兄と弟も来ていました。会話をすることは禁じられていました。わたしたちはハンビーに乗せられ10分ほど離れた広場に着きました。石ころだらけで座ることもできず2時間そこで待たされました。吹きつける砂とエンジン音が聞こえるとヘリコプターが見えてきました。
わたしたちを乗せるとヘリは飛び立ちました。解放されるのではなく別の基地に連れていかれということがはっきりしました。
その大型のヘリコプターはブラックホークでした。兵士らは「まっくろくろすけ」と呼んでいました。目隠しをされているのでどこを飛んだのかわからないまましばらくして着陸しました。そこで数人の囚人を乗せふたたび飛び立ちました。一時間ほどの飛行だったでしょうか次に到着したところはバグダッド空港と言われました。
当時バグダッド国際空港は米軍により要塞化されていました。エリア内にある刑務所、キャンプクロッパーにバスで移動しました。日産の新しいバスでした。
広場に集められ目隠しと手錠を外されました。広場には大勢の兵士がいました。壁に向かって床に座らされました。口を開くことは禁じられました。
「この刑務所で言うことを聞かないやつは痛い目にあうことになるぞ。テイザーとペッパーだ。よく覚えておけ」下士官らしき兵士が怒鳴りました。
わたしたちの誰もテイザーペッパーなるものを知りませんでした。

手記更新について

*ワリードが釈放されて丸一年になります。釈放直後の精神状態に比べればかなり良くなったように思っていましたが、この数日、よく眠れない。悪夢を見て目が覚める。といったPTSDのような状態です。
つい数日前家族に悪いことが起きたこともワリードの精神状態に影響しているでしょう。
手記についてあれこれ聞き取る状況ではありません。和訳にはしばらく時間がかかりそうです。ご了承ください。
管理人

2011年2月24日木曜日

手記46:釈放の期待

バグダッドのアンラーワン基地で10日ほど過ぎました。
気紛れな拷問でわたしの尊厳をズタボロにし show my gentiles(意味不明)
乱暴に扱われました。
真夜中、取調に呼ばれました。以前、女性の取調官から予備尋問を受け、釈放される可能性があること、10日ほど待っていればいいと言われていたのでこの日を待ち望んでたのです。
手錠をされ取調室に引っ張り出されました。トイレに行かせてくれるように頼みましたが女性兵士は断りました。とにかく取調室の冷たいイスに腰掛けました。数分後取調官が入ってきました。彼女は質問を開始しましたがわたしは拒否しました。「トイレに行かせてくれ」
彼女は警備の兵士にトイレを許可しました。
「よい話しはありません」女性取調官が切り出しました。
「たぶんあなたは無実でしょう。わたしはそう信じます。できそうなことは全てやったのですが釈放はできません。上からの命令が来てしまいました。明日別の基地に送られることが決定しました」
「いったいどこの基地ですか」わたしは尋ねました。
「それは教えられません。あなたはイラクの裁判所に送られ罪が決まるでしょう」
「今のイラクを牛耳っているのは誰なのか知っているでしょう?」
宗派の対立でスンニは追い詰められています。シーア派からジャッジを受ければ私の運命は最悪なものになります。
「ごめんなさい。わたしには何もできることがないのです」彼女は言いました。
わたしは別の倉庫のようなテントに連れて行かれ逮捕された時に着ていた寝間着を出してきました。「おめでとう。これを受け取れば明日の朝には釈放だよ」と倉庫の兵士は言いました。
わたしはど派手な囚人服を脱ぐと汚れてみすぼらしいけれど私服である寝間着に着替え独房に戻されました。
向かいの独房の男と話しをしました。会話は禁じられていたのでこっそりと身振り手振りでです。彼はわたしが私服を着ているの見て、それは明日の釈放が決まったという意味だと喜んでくれました。ウムランという彼はわたしの村から遠くないところの出身でした。彼は自分の家族の電話番号を教えてきました。自分の無事を伝えてほしいと言うのでした。彼の娘の名前はマリアム。愛していると伝えてほしいと言いながら涙を流したのです。
わたしは混乱しました。別の刑務所に移されるという取調官、倉庫係の兵士、どちらの言葉が正しいのでしょうか。

2011年2月23日水曜日

ワリード近況

ワリードと連絡が取れました。やはりバグダッドの治安が悪化して事務所が閉鎖されていたそうです。これからしばらく事務所に来るのは不定期になりそうとのこと。
あさって金曜日はバグダッドで大規模なデモがあるそうです。イラク人の不満は他のアラブ諸国に負けていません。
失業問題、電力不足、水不足、物価高、もちろん治安の問題などです。

2011年2月22日火曜日

手記**:家族との面会

原稿はあるのですがワリードと連絡がとれず訳文を完成できません。もう一週間になります。ログオンがありません。バグダッドの治安が悪く会社に来ないのかもしれません。

2011年2月19日土曜日

ニブラス

あともう少しで死ぬところだったニブラス
ニブラスがどんだけかわいいか
ワリードが送ってきたので

手記45:死にかけた娘ニブラス

生活にせい一杯でいつニブラスが病気になったのか誰も気がつきませんでした。高熱を出して痩せてしまいました。何も食べられなくなり意識がもうろうとなりました。
3才の女の子に死のサインが見えていても医者に診せるお金がありません。
妻は毎夜泣き続けました。ニブラスはそのうちトイレにも立てなくなり横になるともう起き上がれなくなりました。呼吸が早くなりました。
停電でエアコンが動きません。気温は50度に達します。農村なのでハエや蚊も飛び回っています。眠れるのは夜涼しくなってからで健康なひとでも体力を奪われます。
ニブラスの病気は水疱瘡でした。ふつうの医療体制なら死ぬような病気ではないでしょう。しかしイラクです。
わたしが10年以上日本のNGOと何十万本の注射器、何トンもの粉ミルク、高額な抗がん剤抗生剤を病院に運び込もうとも水ぼうそうの我が子を救えません。
偶然妻の姉の夫が家に来ました。それまで米軍に捕まっていて解放されたのでひさしぶりに会いに来たのです。
彼が見つけたときニブラスはもうほとんど死にかけていたといいます。彼がニブラスを病院に運んでくれました。彼がニブラスを救ってくれました。
わたしは子どもたちみなを愛しています。どう言っていいかわかりませんがこの子ニブラスはわたしの心の特別なところにいるのです。

2011年2月18日金曜日

手記44:家族の苦難

妻は子どもたちを連れて家にに引き返しました。息子に朝食を買ってこさせました。戸棚には朝食を買えるだけの少額なお金しかありませんでした。昨夜は暗くてわかりませんでした。家中の金目のものすべて無くなっていました。現金も妻の金の結婚指輪とネックレスも奪われました。
それだけではありません。食糧配給の登録カードと子どもたちの身分証明書(ID)までなくなっていたのです。それらは日常生活に絶対に必要なものでした。配給カードがなければ食糧を受け取れません。IDが無ければ学校に入れません。
妻と面会できるようになったのは逮捕から半年後でした。わたしは米軍に抗議交渉しました。米軍の責任者の女性の大佐は配給カードがイラク人の命綱であることを知らなかったと驚いたのでした。米軍がIDカードを家族に返すまで一年三ヶ月もかかりそれ間は配給を受けられなかったのです。

イラクでは黒い服は喪を意味します。妻は父親を亡くした後だったのですでに喪服を着ていました。夫を亡くしてもあらためて買う必要はありませんでした。
妻は言います。人生でいちばんたいへんだったのは夫がおらず5人の子どもを腕に抱えたときだった、と。
農場では小麦を植えていました。食用と飼料用でしたが米軍の車両が畑を踏み荒らしてしまいすっかりダメになりました。
アウースとハムーディは遠くまで牛の餌の草を求めて歩きました。
年長のアウスは家族を支える大人の役割になりました。ミルクと自分で育てたオクラを売り歩きました。村に来てからでもそんなことをしたことがありません。彼にとってつらいことだったようです。
アウースは4月からの進級が出来ませんでした。試験よりも生活が優先でした。ナウースはIDが無いためその年の小学校入学が認められず翌年に遅れました。
家族のため生き残るためにみながもがき、すこしづつ這い上がっていきました。
妻はそれまで表に出る仕事の経験もなく若くして結婚し家で子育てをしていました。子どもたちも都会で不自由なく育っていました。妻と子どもたちの話を聞いてわたしが知らなかった妻の強さと子どもたちの成長を知りました。

手記43:嘆きの朝

引き続き妻から聞いたことです。
子どもたちは深夜に見慣れぬ外国の兵に起こされたショックから泣き続け、父親はどこかとまた泣いたのです。
実家から妹が来て兄ヤヒヤ、弟アリ、そして妻の14才の弟も連れ去られたことを皆に告げて一緒に泣いたそうです。
2月下旬はまだ冬の寒さでした。ドアと窓が壊された家で寒さをしのぐために妻はなんとか応急処置をしなければいけませんでした。妻は一部屋だけ片付けると薪を燃やし子どもたちを暖かくして眠れるようにしたのです。ただニブラスだけがパニックが治まらず10分おきに目を覚まし大声で叫ぶのでした。
ニブラスは3才で言葉を覚え始めたころで可愛い盛りでした。今この原稿を書いていて隣にニブラスがいます。「毎日部屋に閉じこもってひとりで泣いてお父さんの帰ってくるのを待っていたの」とニブラスは言ってくれます。

わたしたち家族はすでに十分痛めつけられていました。宗派戦争でバグダッドから逃れて来てそれほどの時間はたっていません。弟はミリシアに殺され、妻の父親も誘拐後殺されました。わたしの両親も続けて死んだばかりです。そんな中で、ついにわたしまで行方不明となれば妻と子どもたちはわたしが殺されたのか逮捕されたのか、とにかく良い想像では出来なかったでしょう。
翌日、日が昇ると同時に妹と妻、子どもたちは農場と周辺を歩き回りました。子どもたちは学校に行かず米軍が何か手がかりを残していっていないか探したのです。ほとんど希望の持てない嘆きの朝でした。
米軍は何も言わずにわたしたちを連れ去っています。こうした米軍に襲われた場合恐ろしい話ですが連れ去られた男たちは翌朝たいてい近くで死体で見つかっているのです。
農場とその周辺には血の池など殺害を示すものはありませんでした。妻は子どもたちに希望を話して聞かせました。お父さんは生きていると。

押収品リスト


逮捕時に米軍が押収した物のリストです。
一部修正してあります。

2011年2月17日木曜日

手記42:兵隊が家に来た!

手記28に書きましたが家族の誰もわたしが逮捕連行されたことを知りませんでした。わたしが家を出た時みな眠っていたからです。
わたしも逮捕の直前家の方から銃声が聞こえたことしかわかりませんでした。その時家族になにが起きたのでしょうか。

5人の子どもがいます。
アウース 男 9才 小学5年生
ハムーディ 男 7才 小学2年
ナウラス 女 5才
ニブラス 女 3才
ゼナ 女 生後85日
(当時)

妻は真夜中突然ドアを叩く音で眠りから覚めました。玄関のほかに二つのドアがあったのでいったい家のどこのドアが叩かれたのかわかりませんでした。ドアは金属製で大きく響きそれだけでパニックになりました。
英語の叫ぶ声が聞こえたのでアメリカーがだろうということがわかりました。ドアを開けるしかありません。ドアを開けようとしたところいきなりドアの向こうから発砲されました。3発の銃弾がドアを打ち抜き破片が妻の手を傷つけました。殺されなかったのは幸運でした。金属片とガラスが部屋に飛び散りました。子どもたちは隣の部屋で眠っていました。
(わたしはこのようにドアを銃で撃ってその破片で失明した兵士を知っています)
妻は部屋の隅に逃れました。10人以上のアメリカーが押し入って来て身動きがとれなくなりました。その時のことを妻は言いました。「なぜ子どもたちを置いたままにしたのだろう!子どもたちを守ることが出来ないのに!」

兵士たちは家中をひととおり捜査し終えてようやく妻は子ども部屋に入ることができました。涙を流していた妻に「怖くないよママ、何も悪いことは起きないよママ」とニブラスは言うのでした。それは妻がいつも子どもたちに言っている言葉でした。その頃村では銃声や爆発音がしてそれに脅えて子どもたちが泣くと妻がそうしてなだめていたのでした。

生後85日の赤ん坊は無事でした。停電で真っ暗な部屋で兵士たちに踏みつぶされずにすみました。
たまたま泊まりに来ていた妻の弟(14才)は連れ去られました。その時一族にいた男はみな連れ去られたのです。
長男のアウースは兵士のリーダーに外に連れ出され聞かれました。「お前の父親はどこにいる?」アウースはわからないと答えました。兵士は彼に何か言ってつきとばしたそうです。アウースが覚えている言葉は「fuck you」でした。
兵士たちは家中を捜索し、バッグを見つけるとわたしの書類や写真、CDなどを詰め込みました。そのバッグはわたしが日本に来たとき、アウースの通学用に買ったものでした。
アウースは取り返そうと抗議しましたがまたも兵士に押しのけられたのでした。
兵士らは一時間ほど家にいて家具などを手当たり次第に壊しました。その間家族は外に出ることができず事態を伝えることができませんでした。

*アウースも大きくなりました。平和市民連絡会がバグダッドでアウースの幼稚園を訪問しカチャーシーを踊ってからもう8年です。 アウースはまだ「いやささ!」を覚えています。

湾岸戦争、おすすめ本

湾岸戦争後に出版されたので古い本です。湾岸戦争について書かれた本はあまりありませんがこの本には湾岸戦争だけでなくその後の戦争に繋がる普遍的内容があると思います。
アメリカ元司法長官だったラムゼー・クラークが 湾岸戦争がその何年も前から周到に準備されていたこと、メディアを操作し世論をいかに操ったかを分析し検証しています。
これだけの告発がなされているのにイラク戦争は起きてしまうのだと愕然としてしまいます。
アマゾンで見たら古本なら250円とか。

2011年2月10日木曜日

タラル無事

昨夜タラルからメールが来ました。無事でした。
たいへんお騒がせしました。理由は書いてありませんでしたがタラルらしいとしか言えません。管理人は約3年前のワリードの消息不明のトラウマがあり過剰反応したかもしれません。
当時ワリードが逮捕されたとわかるまで「捜索モード」になってから3ヶ月かかりました。ワリードが逮捕されたと知って「少なくとも夜、撃ち合いで死んだり、道ばたで首は切られない分、刑務所は安全だろう」と思いました。

2011年2月8日火曜日

イラク各地でデモ

ワリードによるとイラクのあちこちでデモが起きています。
イラク人はチュニジアで始まりエジプトに広がったデモの話を聞いていて彼ら自身で主張すべきことがあると立ち上がったそうです。

2011年2月6日日曜日

タラル 2006年

2006年のタラルから苦境を伝えるメールです。この年はワリードも厳しい状況でした。

dear friendsgen ki desuka?
watshi ha genki nai desu yo..

Three years have already passed since you left my country Iraq.
I'm sorry for long silence after you return to Japan.
I have never forgotten experience with you in Baghdad and Basrah.
After you left Iraq, I wanted to get a new life still in Iraq but our life is threatened too much.
I think the news from Iraq tells only very little part of miserable things.
You know I lived Basrah was more safe than Bagdad hell.
But Religious power had been activated during half year.
Member of religious group maybe their armed group is chasing me and killing me.My cousin is missing from my town with his wife.

メモ:タラルが遭遇した邦人拉致事件

タラルが送ってきたメールです。2004年4月14日
この次に来たメールには見かけたら殺すと脅されたと書いてありました。
today big disaster happened Mr. watanabe and Mr. yasuda janbe were kidnapped in front of my eye ,2.pm, I almost dieing confused what to do .
I try to tell them its dangerous to go Abo-Krib but they insist to go they and the taxi driver and my disaided to return with them but they sad just ask them some

行方不明者を探すには

ワリードもタラルを知っています。しかしタラルの家族や彼のイラク人の友人を知っているほどの関係ではありません。
「誰か友人を知らないのか?」と聞かれました。
バスラでタラルの従兄弟を紹介されたことがあります。サウス・オイルカンパニーに勤めていました。翌年行方不明になったと聞きました。
バグダッドではおじさんの家に連れて行かれました。ジェントルマンなおじさんは警察官(IFP)でしたが後に殺害されました。
イラクではタラルだけの災難ではありません。
タラルは単に面倒で連絡しないのかもしれません。後で笑い話なり管理人の大恥なら大いにけっこうです。しかし心配になるのは過剰な反応ではないと思います。彼はかくまわれていた友人宅に爆弾を仕掛けられたことさえあります(2006年。ターゲットはタラルではなく友人だったかもしれません)。

2011年2月5日土曜日

行方不明者の家族

戦後のイラクで犠牲者を出さなかった家族は少ないでしょう。宗派の対立によるものや金品目的の強殺など戦前には考えられなかった理由で多くのひとが殺されました。
ある日突然家族の誰かが帰ってきません。犯行声明か身代金の要求があれば行方不明の理由がわかります。遺体が見つかることもあるでしょう。モルグで家族を探し出したひともいます。しかし突然姿を消したきりいつまでも帰ってこないこともあります。家族はどうしたらいいのでしょう。いつまで無事を信じて待つのでしょうか。
交通事故かもしれません病死かもしれません。しかし身分証明書の携行が義務のイラクで身元の所持品なしの不明死体というのも考えにくいでしょう。
ある日本人の母親は帰らぬ息子をひとりバグダッドで6年間待ち続けています。特別な息子だから秘密の刑務所に入れられているのだと生存に希望を持っています。

2011年2月4日金曜日

タラルとワリード

タラルはワリードを知っています。日本人らが常宿としているホテルにさっそうと現れるワリードを見て、「いつかあんな風になってみたいものだ」と話していました。今は無念赤貧のワリードです。
当時のワリードは大手テレビからフリーランスのカメラマンにまで引く手あまたの忙しさで猛烈に稼いでいました。それに見合うだけの下積みの苦労がありました。
タラルはまだ見習い中のようなもので格段にギャラの安いNGOのお手伝いとか戦争見物に来た学生のガイドとかいう感じでした。
翌年日本人誘拐に巻き込まれることになります。

タラルのケータイ

タラルは数年前までかなり危ない状況でした。バスラ出身のタラルはシーア派ですが同じくシーアのサドル派マフディ軍から処刑宣告を受け逃げ回っていました。
その頃のタラルはケータイも持たず居候暮らしでメールでの連絡も不定期でした。
昨夜タラルのケータイに繋がりました。Out of service というメッセージが聞こえました。解約という意味でしょうか。ブロードバンド回線を解約することがあってもケータイを止めるとは考えられません。

2011年2月3日木曜日

タラル朝日新聞記事

タラルの近況がわからないものかとわずかな期待で検索してみました。古い2004年の記事があったので貼り付けます。

(2004/18 19:17)
http://www2.asahi.com/special/jieitai/houjin/TKY200404180148.html

2邦人拘束をメールしたイラク人通訳、朗報に喜び語る
「3日間、食べ物がのどを通らなかった」——事件発生時に通訳として2人とともにいたイラク人通訳タラル・アブドルリダさん(28)は17日、朝日新聞記者にこの間の恐怖と、朗報への喜びを語った。
アブドルリダさんが事件後、日本のジャーナリストに電子メールを送り、2人の拘束が初めて明らかになった。
「武装グループから、何も話すなと命じられた。2人には『危ない』と言ったが、途中で引き留めなかったことを後悔した。話せば殺されると思ったが、知らせることが自分の責任だと思って、夢中でメールを送った」

引き続きタラル

タラルへのメールとスカイプに反応がないのでオールドファッションに戻って電話を掛けています。ところがバスラへの電話はめったに繋がりません。呼び出し音も聞こえません。たぶん着信以前の問題です。なもんでワリードに電話を掛けてもらっています。

バスラのタラル

タラルと連絡が取れません。タラルは2003年、日本の学生グループから招待されて来日し各地を講演で廻ったことがあります。彼にバスラを案内された平和・支援メンバーやジャーナリストも多くいると思います。タラルは時にシリアスでもだいたいアバウトなやつなのでこれまでも連絡が途絶えたことがありました。今回は限度を超えています。スカイプがまったくログオンされていません。電話も通じません。たんに個人的に愛想を尽かされていたということであればいいのですが。(管理人)