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2011年1月31日月曜日

あの白血病の少女サファー


絵はがきや写真集で知られた白血病のサファーですがワリードに連絡がありました。病気はよくなり今は病院で看護師として働いています。写真の当時は10才くらいでしょうか?今はもう二十歳です。

2011年1月30日日曜日

襲撃された教会


さきほど話をしてたら受話器越しにサイレンの音が聞こえました。
「爆弾だ」とワリードが言いました。
ワリードの事務所がバグダッドのどこにあるのかそういえば知らなかったので聞いてみました。
カラダ地区でした。2ヶ月前にアルカイダ系グループに襲撃された教会が近いそうです。その教会には2003年5月沖縄の教会をワリードが案内しています。近くには日本人になじみのあるバグダディーヤとアンダルスパレスがあります。

覚醒委員会

手記を読んでの感想です。
米軍は当初ワリード逮捕の意図はなかった。たまたま銃声がしてパニックでワリードたちを逮捕してしまった。その後に絡んだ覚醒委員会が企みを起こしてワリードは罪を被ることになったように思います。ワリードが捕まれば彼の農場を手にできるという意図です。
覚醒委員会(評議会)とはどんな組織なのでしょう。
米軍が治安維持のために利用している民間組織で、米軍の支援を受けて(あるいは米軍を支援するために)シーアエリアではマフディ軍と戦いスンニエリアではアルカイダと戦っているとのことです。いずれも米軍にとっての利にかなっています(米軍がコントロールできる範囲であれば)。

2011年1月28日金曜日

ワリード職探し奮闘記

ワリードが釈放されてからもうじき1年です。戦後激しく変わっていくイラクで2年のブランクは大きいうえ精神にも肉体にもダメージを受けて娑婆に帰ってきたワリードにはきびしい職探しです。家族6人さらに一族のために休養の余裕もなく走り始めます。

2011年1月27日木曜日

食糧配給制

湾岸戦争から20年、イラク戦争から7年以上もたっているのにまだ配給制度が続いています。イラクでは最低以下の生活をするひとが700万人以上いるともいいます。
ワリードが刑務所にいた2年間、妻と5人の子どもはどうやって生きていただろうかと思っていました。生後3ヶ月の赤ちゃんがいて奥さんが働きに出られません。最低限の暮らしは配給食糧でなんとかなると思うしかありませんでした。
たまたまワリードの地域は昨日が配給日でした。明細を聞いてみました。
米、小麦粉、砂糖、豆、粉ミルク、石けん、洗濯石けんなどが配給されていました。昨年春から米、小麦粉、砂糖、油だけに減らされたそうです。今月は一人あたり米1キロ、食用油0.5リットルだけだったそうです。なお先月は配給がなかったそうです。
配給は貿易省(ministry of trade )の管轄で行われています。ワリードは横流しなどで市民に廻ってこないのだと言っています。

なぜワリードなのか?

なぜワリードのことばかりなのか?というご指摘を頂きました。
3年前ワリードが音信不通になりイラク関係のNGOに消息を聞いてまわりワリードへの支援も依頼しました。ワリードは支援関係者にも知られた男です。
その際にも言われたのは「公私混同になるため組織としては紹介できない」
他のNGOでは「子どもたちを救うための活動をしているためワリードには関われない」
などでした。
イラクのため動いておられる方にそれ以上の何かを頼みはしません。どうぞ子どもたちを救ってあげていただければと思います。
当方らワリードに関して個人として友人としてできることがあるはずだし、まずは出会ってしまったワリードを救いたいというスタンスをご理解いただきたいと思います。
(管理人ひろし)

メモ:拒否された医薬品

石油食糧交換プログラムが97年から始まりました。
しかしこのプログラムはイラク人のためではなかったようです。それまで産油国イラクの石油は原則輸出できませんでした。このプログラムにより部分的に解除されイラクは7年間で640億ドルという現金を手にします。人道支援物資として使われるという名目でしたがそれだけの巨額な金額ともなると腐敗はおきるもので国連幹部へのワイロ、そして結果的にフセイン一族に環流します。当時そんなことを知る由もなく上記情報は数年前に放送されたNHKのBSドキュメンタリーで知ったわけです。

15年前の記憶はあいまいですが配給は月に一回、公民館というか集会場のようなところで配られていました。小麦粉や米などの主食、塩、砂糖、食用油に石けんなどで肉・魚はなかったように思います。
ガソリンだけは戦前同様安くイラク人は死なない程度には生きていけるようになりました。
しかし医薬品は以前禁輸品に含まれイラクの患者には届かない状況でした。にも関わらずイラク保健省は97年、外国NGOからの医薬品の受け取りを禁止してしまうのです。
いまだにその理由がわかりません。
アメリカCIAが支援団体を偽装してイラク入りした。
期限切れの粉ミルクが大量に届いた。
HIVに感染した血液製剤がフランスから(誤って)届いた。
などとも聞いたことがあります。

メモ:救援活動で刑務所行き

管理人です。経済制裁が風化しつつあるようではあるしワリードの次の原稿が届くまでの場つなぎに書いてみます。

湾岸戦争後の経済制裁は主に乳児幼児を犠牲にする戦争に匹敵、それ以上にむごたらしいものでした。
反対のキャンペーンを張ったキャシー・ケリーと荒野の声でしたが1998年アメリカ政府から罰金刑が下りました。経済制裁という国策に反し医薬品や粉ミルクなどを不正に輸出したという罪で財務省から訴えられました。団体には16万3千ドルの罰金、個人には1万ドル。30日以内に支払え、そうしない場合は12年間の禁固刑

2011年1月26日水曜日

手記続き

現在管理人に届いたワリードの手記は全てアップしてあります。続きがいつ届くかわかりません。ワリードは現在の不安定な仕事からなんとか脱却したいとあがいています。その苦闘ぶりはイラクのひとつの状況を表しているかもしれません。

ワリードはバグダッドの基地内に収容されたあとバスラにある本格的な刑務所に移されます。目隠し後ろ手錠での数十時間の輸送だと聞いています。
この手記にはワリードの裁判費用を支援していただいた方々への報告という意味もあります。
弟アリはまだ釈放されていません。

2011年1月25日火曜日

メモ:イラク戦争と荒野の声

ワリードがキャシーについて手記に書いたので荒野の声のホームページを見てみました。すでに消えていました。2年前にキャシーらとワリード救出の電話会議をしたときにはまだ残っていました。残念です。
イラク戦争中の緊迫したリポートも読めなくなってしまいました。オリジナルドメインだったので経費がかかっていたのでしょうか。貴重な記録だったはずです。どこかにミラーサイトがあるといいのですが。

日本語で「荒野の声」と検索しても出てくるのはキリスト教に関連したものが多いです。
むろんキャシーはクリスチャンで団体名もキリスト教にちなんだものです。
キャシー・ケリーKathy Kellyは英文でならウィキペディアにページがあります。
当方が知っている範囲ですが荒野の声は複数の団体により構成されアメリカシカゴに本部を置き1996年から2003年まで活動しました。当初は医薬品や粉ミルクなど支援物資をイラクに送っていたように覚えています。経済制裁の不当性を訴えていました。2002年、アメリカがイラクを攻撃するという情勢になり、反戦を強く訴えるようになりました。その年の秋からイラクに常駐メンバーを置くようになりました。
2003年4月戦争終了後荒野の声は解散し構成団体はそれぞれ活動を始めました。
その年のノーベル平和賞にキャシーと荒野の声の活動がノミネートされました。キャシーは3度目の平和賞ノミネートでした。
荒野の声の有力な構成団体だったCPT(Christian Peace Maker Teams)は米軍による人権問題に取り組みアブグレイブ刑務所を告発しました。
CPTは戦後もイラクに留まり活動を続けましたが2005年11月イギリス人やカナダ人のメンバー4名が誘拐され、うち2名が殺害されました(正義の剣旅団が犯行声明)。
CPTは一時的に撤退しましたがまたイラクに戻りました。
キャシーは新しい団体Voices Creative non Violence を立ち上げ現在も活動中です。

2011年1月24日月曜日

最悪な年

いまワリードから電話があったので聞いてみました。湾岸戦争後の経済制裁中でもっとも悪かった年はいつか?
1994、95、96年かなと言ったあと、やはり96年だと答えました。
「食べるものがなかった!」
石油食糧交換プログラムは96年末に合意してその後生活は持ち直しました。しかし国連のその計画によって汚職が政府に、残念ながら国連にもはびこったということがあります。
参考映像
ワリードの息子が映像に出てくる学校に通っています。一教室に70人の児童だと嘆いていました。教室と先生が足りないそうです。

メモ:湾岸戦争と市民運動

18年前にワリードは日本の市民運動と出会い湾岸戦争の被害者救援活動を手伝うことになりました。
救援活動のきっかけは20年前の湾岸戦争(1991年1月17日ー3月3日)でした。当時クウェートに侵攻したイラクへの風当たりは相当強くおそらく一部の市民だけが立ち上がり行動を起こしたように見えました。それがPAN(ペルシャ湾のいのちを守る地球市民行動ネットワーク)というグループでした。
PANは湾岸戦争に反対し被災者を救援するという目的で91年1月30日に結成されました。影響を与えたのはGPT(ガルフピースチーム)、日本山妙法寺の寺沢上人らでした。ワリードの友人でもあるアメリカ人キャシー・ケリーはGPTのメンバーでもありその後はクリスチャン中心の平和団体「荒野の声voices in the wilderness」を設立しイラク戦争中も現地に留まりました。その活動が評価されキャシーと荒野の声はその年のノーベル平和賞にノミネートされました。キャシーは3度目の平和賞ノミネートでした。

2011年1月22日土曜日

ラーメン大ブーム

ワリードによると今、イラクでインスタントラーメンが大人気だそうです。子どもたちが大好きだと言っています。6個で1ドル以下(2,000ディナール)と安いです。
イラクで麺類を見た記憶はありませんでした。アンマンでも高級スーパーでなら見つかるかどうかって感じでしたが今やワリードの住む田舎でも買えるそうです。サウジアラビア産だそうです。

2011年1月20日木曜日

手記41:尋問

拘置所に入れられると自由だけでなく名前も失います。番号を言い渡されこれからは自分の名前を忘れてしまうよう告げられるのです。
アンラーワン基地での3日目の夜、突然番号が呼ばれました。数字がわたしの新しい名前です。尋問は唐突にしかも夜に始まるのです。その日も寒い夜でした。名前を呼んだのは女性の兵士で冷たく光るステンレスの手錠と足かせを持っていました。女性兵に手かせ足かせをされチェーンに繋がれ取調室に引っ張られました。チェーンのたてる大きな音がして耳障りでした。通路を歩くとあちこちの蜂の巣部屋の収容者から声がかかりました。「しっかりしろ!」「あきらめるな!」「神がそばについてるぞ」そして大合唱となりわたしを励ましました。
「アッラーアクバル!アッラーアクバル!アッラーアクバル!アッラーアクバル!」
勇気を得て怖そうな女性兵士に頼みました。
トイレに行かせてくれ。
腹具合が悪く歩くのも大変でした。しかし答えはNOでした。
取調室に入るとイスが三つありまもなく通訳を連れた取調官が入ってきました。その二人もまた女性でした。わたしは苦痛のあまりしゃべることもできません。なんとかトイレに行けるように頼み今度は許可されました。せきほどの女性兵は不機嫌な顔つきです。トイレには見張についてきます。股間のイチモツは暗くて見られなかったはずでそれがせめてもの慰めでした。
わたしはようやく人心地ついて頭が働くようになりました。取り調べは再開されましたが質問はいつものどうしようもないものでした。

メモ:バグダッドの日本女性

バグダッド(マンスール地区)に一人で住んでいる日本女性がいます。
ワリードから聞かされただけで当方管理人は面識ありません。ワリードも二年の刑務所暮らしで連絡が絶えていました。安否を気にかけていて昨年秋から何度も訪問をするとは言っていたのですが「セキュリティエリアで自分のIDでは入れない」「郊外に帰宅するのに夜遅くなったら危ない」といろいろ理由があって時間がかかっていました。
すでに帰国しているかもしれませんでした。治安は多少良くなったとはいえ外国人それもかなり目立つ女性でイラク暮らしができるとは思いませんでした。
で、ようやくワリードが会いに行ってきました。元気で暮らしているそうです。買い物などたいへんらしいですが近隣住民との関係は良好でまずはだいじょうぶそうだということです。

彼女もこの戦争の犠牲者です。イラクでひとりになってこの一月末でまる六年になります。

手記40:孤独と家族への思い

拘置所の奥の独房にいると耐え難い孤独を感じます。まるで世界から切り離されたようでした。夜は所内のあちこちからすすり泣く声が聞こえてきたものです。
なぜわたしはここにいるのでしょう。なぜアメリカの(頭文字Fな)兵隊らは容赦ない仕打ちをするのでしょう。
わたしは肉体的にはひとりぼっちでしたが胸の中は家族への思いがあふれつづけていました。三ヶ月前に生まれたばかりの赤ん坊はどうしているか、誰か殺されていなか、誰が生き残ったろうか。家族と過ごした時の鮮やかな思い出のフィルムが頭の中で回りいつまでも止まりませんでした。
わたしと同じように妻や子どもたちはどれほど心配しているでしょう。逮捕された夜わたしは家族に何も告げずに家を出て来ました。わたしが妹の電話を受けたとき家族はすでに寝入っていたからです。
妻と子どもが銃声で目を覚ましたときわたしは家におらず、「お父さんは殺されてしまった!」とみなが信じ込んだそうです。
夜が明けると妻と年長の子どもたちは農場を歩き回りわたしの死体を探し、血痕を探しました。米軍が来てそこに血溜まりが残されればそれは誰か殺されたのだと子どもでも知っています。そして家族らはわたしが拉致されたと判断したのです。
家族と面会が許されこの話を聞けるようになるにはこのあとまだ半年かかるのでした。

手記39:健康診断

困惑の最たるものは健康診断でした。検査には着衣を脱ぐことになります。これがアラブ人にはたいへん落ち着かない不愉快な気分になるのです。米軍は手を抜いてアラビア語通訳を用意しません。価値観(羞恥心の感覚)、コミュニケーションの欠如がときに悲劇を引き起こします。
若いアメリカ兵のスラング混じりのアクセントはわたしにも聞き取れないことがありました。何を要求しているのか一般的なイラク人には全く通じなかったでしょう。
中年の男性がいました。服を脱ぐように言われましたが彼には意味がわかりません。それどころか数人がかりでレイプされると思ってしまったのでした。アブグレイブ刑務所での虐待事件はイラク人の記憶に焼きついています。おじさんはパニックになり「犯られてたまるか!」と叫びながら激しく抵抗しますが兵士らは何を言っているのかわからず二人が力ずくで裸にしてしまいました。そこに現れたドクターはおじさんの抵抗を痔の疾患と解釈し彼をひざまずかせました。
おじさんは守りたかったところを無駄にグリグリされやはり尊厳を失いました。

2011年1月17日月曜日

湾岸戦争から20年

経済制裁はその数年前からなのでもう20年以上イラク人は苦しんでいるわけです。
アメリカ中心の国連が下した経済制裁により1991年からの12年で120万人から170万人と言われるイラク国民が死にました。多くは新生児や乳児でした。(イラク戦争前にイラク赤新月社で160万人という数字を聞きました)。左サイドのイラクボディカウントの数字を見てください。当時は一年で10万人以上です。
国連の石油食糧交換計画(オイルフォーフード)が始まる96年(実質97年?)までは文字通りバタバタと死んでいたように思いました。

2011年1月16日日曜日

手記38:SHAKEDOWN

一日に5、6回看守がやってきて「SAKEDOWN」と怒鳴ります。房内検査です。わたしは壁に向かって立ち上がり両腕はまっすぐに伸ばし、足は大きく肩幅に広げなければいけません。看守のひとりが房内を調べもうひとりは入り口で銃を構え逃亡や反抗に備えています。看守は全てを調べるのですがもとからたいしたものを所持していません。看守は泥だらけのブーツで毛布を踏んづけ、コーランを蹴飛ばしていきます。
支給された寝具はひどいものでした。毛布はよく言って犬小屋の犬なら使う程度でしょう。
枕はなかったためプラスチックのサンダルを枕にしていました。たった1センチの高さしかありません。これが新しいアメリカ民主主義が与えてくれたものでした。

米軍は1万回も繰り返し尋問しました。「なぜ英語を話すのか?」「なぜ日本のマスコミの書類を大量に持っているのか?」「なぜ結婚しているのか?」「なぜ子どもがいるのか?」「映画ヒバクシャはなんだ?いつ撮影された?」「タカシとは誰だ?」「キャシーとは誰だ?」「誰だっ?誰だ?誰だ?誰だっ・・・・?」
バカバカしい尋問でした。尻の穴の毛の本数さえ数えました。
取調官は何度も入れ替わり、なかには女性もいました。
精神が打ちのめされ一日が暮れていきます。

手記37:刑務所暮らし

当然ながらすべてが激変しました。広々とした生活は巣箱に押し込められました。幼児のように扱われ何をするにも許可がいります。米兵は気紛れで時に許可され時に拒否されます。
そのうえで米軍はわれわれに民主主義と自由を与えにきたと信じろと言うのです。

基地に着くとシャワー室に連れて行かれました。その前の三日間シャワーもトイレでの水も使えませんでした。わずか2分間のシャワーが許されただけでしたがこれまでの苦しみと疲れを癒す休憩になりました。不潔な生活が再スタートです。。
看守役の兵士は2、30分おきの見回りのたびに部屋のドアを力まかせに蹴飛ばしていきました。寝かさず休ませないためでしょう。それでも以前の基地よりは暖かいぶんだけましでした。夜間は二回トイレに行くことができました。しかしトイレにドアはなく常に見張られていました。時に女性兵士が看守でした。許される時間はわずか30秒。たいへんな屈辱でした。
わたしたちは起訴されたわけでもなくまして判決もなく、身分としては被疑者であって勾留場という名前の施設にいるのでしたが実質監獄であり囚人でした。

〜休憩タイム〜


残ったウサちゃん。

2011年1月15日土曜日

手記36:囚人として

アンラーワン基地の広い敷地の奥に拘留施設がありました。高い塀に囲まれていました。
頑丈なドアが背後で閉じるとわたしは囚人になったのでした。
囚人らはほとんどがバグダッド南部の出身者でした。
集められたわたしたちの前に刑務所の責任者が現れ警告をしました。
「この建物は隔離されておりいままで誰も脱走したことはない。番犬の代わりのオオカミが生きた兵器として脱走者をかみ殺すことになっている」
金属製の手錠に変えられました。支給された囚人服は派手な赤地にオレンジ色でした。
部屋は一人用で高さ幅、奥行きともに190センチの真四角で天井は金網です。そのため米兵は蜂の巣と呼んでいました。
基地に着くとシャワー室に連れて行かれました。その前の三日間シャワーもトイレでの水も使えなかったので大いに期待しましたがわずか2分間のシャワーが許されただけでした。それでもこれまでの苦しみと疲れを癒す休憩になりました。しかし新たな苦しみの始まりでもありました。

手記35:バグダッドの基地へ移送

アリの犠牲にも関わらずわたしとヤヒヤは解放されません。それどころかバグダッドの別の基地に移動すると言ってきました。約束が違うではないかと言っても聞き入れません。それどころか凶悪犯としてキューバのあの悪名高きグァンタナモ刑務所に移すとまで言われたのです。
夕暮れを待ってわたしたちはバグダッド北東のアンラーワン基地に移送されました。核施設基地には三日間の拘留でした。あっという間の転落でどこまで落ちていくのでしょう。

アンラーワン基地はサダム時代は陸軍の新兵訓練施設でした。わたしは16才のとき体験兵士としてここに来たことを思い出しました。今基地には星条旗がはためき、わたしは囚人です。

2011年1月14日金曜日

イラクの未成年

アリは17才でしたが成年と同じ扱いをされました。イラクでは日本のような少年法がないようです。ワリードは刑務所で12才の囚人を見たそうです。毎夜泣き明かしていたそうです。

手記34:弟の決断

武器と家族の女性らの写真は米軍が撮影したものに違いありません。わたしたち罪を被せるためにです。
わずか10分で結論など出せません。
弟アリが志願しました。
わずか10分のことでもこの時のわれわれ兄弟の心情を語るのは苦しいです。
アリは家族の女性と子どもたちを守るために自分の役割を果たすのだと言ったのでした。
アリはまだ17才でした。兄を殺され両親を一度に失ったばかりでした。
翌年10年の判決を受けることになります。

手記33:米軍の脅迫と取引

武器所持についての主張は認められませんでした。そして彼らは提案を持ちかけてきました。わたしたち兄弟3人のうちひとりが罪を認め刑に服せよと言うのです。しかしこれは提案というより脅しでした。拒否すれば家にいる妹らを逮捕するというのです。
アラブでは女性の位置は微妙で繊細です。アラブの男なら身内の女性の品位を守るためにすすんで犠牲を払うものです。米側の提案はこのわたしたちのウイークポイントをついたものでした。この提案を拒否すれば米軍と結託している地域のサフワにつけこまれ先祖の土地を奪われることになるでしょう。
決定的だったのは米軍が見せたもう一枚の写真でした。そこには姉と妹、わたしと兄弟の妻たちそして子どもたちが銃を前にして並んで写っているものでした。
取調官は冷酷に言ってのけました。
「お前らの言うことを聞く人間はどこにもいない。10分やるから一人を選べ」
テントの外に連れ出され兄弟三人になりました。兵士ひとりが後ろで見張っています。
わたしたちは愚かしい人種だと思われているに違いありません。

手記32:暴行

弟の取り調べには脅しと暴力がありました。弟は何も知らないと言い続けたそうです。殴られ顔から血を流していました。アリはまだ17才です。わたしは頭に来ました。がまんできません。この気持ちをなんと書き綴ればよいでしょう。
寒い夜でした。義理の弟は取り調べに連れ出されたきり戻ってきませんでした。彼はまだ14才で連れてこられて以来泣き通しでした。父親を最近亡くしたばかりでした。そのため釈放されたとのことでした。
しかしわたしたち兄弟は自由だと言われながらいっこうに釈放されません。

取り調べはわたしに廻ってきました。取調官は険しい顔で現れました。彼は言いました。
「農場で武器を見つけた」
「いったいどこで?」とわたしは聞き返しました。
一枚の写真を見せられました。地中から掘り起こされたような武器でした。その武器をなんと説明すればよいのでしょう。わたしたちは二年前にバグダッドから移り住んできました。そのしばらく前に米軍と覚醒評議会サフアによる武装解除で地域の武器が集められ廃棄処分として埋められたのがわたしたちの農場でした。そのことなら地域の住民はみな知っています。
埋め立て処理の日付の記録、武器についた指紋などの照合を要求しましたが米軍ははわたしたちのものだと決めつけるのでした。

手記31:米軍の尋問

翌朝から尋問が始まりました。アラビア語の通訳はシリア人でしたが彼の訳はおおむね間違っている、あるいは適切な訳語を使っていないようでした。彼はアメリカ兵以上に短気でわたしたちの回答に満足せずに時に殴ることがありました。
米軍が聞き出したいことは「誰が米軍を攻撃しているか?」そして何人かの写真の人間を見せ人物を特定できるか、そしてレジスタンスに供給される武器弾薬の在処についての情報を聞きだそうとしました。

わたしは翌々日の3月3日までにイラク北部に行く約束がありました。日本から取材に来るマスコミとの仕事でした。米軍に事情を話し出発しなければならないと訴えましたが当然のように拒否されました。
彼らアメリカ人は最優等の人間でわれわれイラク人には配慮される価値がゼロなのです。
わたしは米軍に協力することをやめました。なぜに拘束されているのか?理由もわからずに何も協力はできません。米軍とネゴシエーションを続けようやく、わたしには追求されるような落ち度はなくいくつかの質問があるだけでまもなく解放される。という言葉を引き出しました。取調官によるとわたしに対するネガティブな報告があったがこれまでのところ証拠はないことがわかった。ということでした。夜の8時までかかり調書をまとめわたしと兄は翌朝には解放されるということになりました。弟の解放は遅れることになりました。

わたしは即座の解放を要求しました。しかしすでに夜になっており危険なので解放できないと扉を開きません。
おかしな話でした。米軍は必要とあればどんな時間でもイラク人を引っ張り出しています。現に基地内にいて夜の8時で解放できないとは。
このとき何かが企てられていたようです。米軍はわたしたちをじらし、一方で脅しいつのまにか操られ知らずにイラク側に引き渡されることになったのです。それはわたしたちがレイプされ殺されることを意味しています。後になって米軍士官から聞いたことです。

2011年1月13日木曜日

手記30:米軍基地一夜め

基地に着いたのは午前2時を廻った頃でした。わたしたちはそれぞれ個別に聴取を受け、ひとつのテントに容れられました。目隠しをされ後ろ手に手かせされ簡易ベッドに寝かせられました。毛布など寝具も暖房もありませんでした。たったひとつの電気ヒーターは見張りの兵士が使っていました。
夜の冷え込みが厳しくなっていました。尿意が強くなり見張りにトイレに行かせるよう交渉しました。ようやく訴えがとおりトイレ用のテントに連れて行かれました。兵士は入り口の布を取り払いました。手かせは後ろから前にされました。
テントのトイレはかつてこれほどのものを見たことがないくらいの凄まじさでした。プラスティック製のポータブル洋式便器は汚れ放題。水もトイレットペーパーもありません。腹がくだっているときこの半壊したトイレでどのように用を足せというのでしょう。兵士たちは誰もわたちたちの不満に耳を貸しませんでした。わたしたちは敵と見なされた囚人なのだとこれらの扱いではっきりわかりました。

手記29:米軍基地へ連行

上官はわたしの家はどこかと聞いてきました。場所を示すと部下らに捜査するよう指示を出しました。家には3ヶ月前に生まれた赤ん坊がいます。イラクの田舎ではベッドではなく床に寝ています。停電で何も見えずアメリカ兵の軍靴に踏まれてはたいへんです。上官に注意するよう頼みこんだ矢先、大きな爆発が起きました。同時に兵士が銃を7、8発続けざまに撃ちました。爆発はなんとわが家のほうからではないですか。叫び声も聞こえます。子どもと女性の声でした。何が起きたのか確認のしようなくわたしと父の家にいた兄弟はその場で逮捕されてしまったのです。わたしたちは4人で兄ヤヒヤと弟アリ、そして14才の義理の弟でした。


わたしは猛然と抗議しました。わたしたちのどこがテロリストなのか!わずかな時間の議論で非協力的とみなされ連行されることになりました。すでに犯罪人扱いでした。まず地域の覚醒委員会(Sahwa)に連行され身元の照合をうけ釈放か拘束か判断されました。どうやら釈放されなさそうな気配でした。
そして連行されたのは米軍の基地でした。村から西に4キロ足らずでサダム時代にツワイサ原子力研究所として知られたところでした。

手記28:2008年2月29日深夜逮捕

いつものように基地の仕事から帰宅し就寝しました。人目を避けて通勤しているため朝がたいへん早いのです。妻や子どもたちは10時くらいまで起きておりわたしは別の客用の部屋で寝ることにしていました。ちょうどその日は義理の弟がわたしたちと同居している彼の妹に会いに来ていました。
携帯電話が鳴り深い眠りから目がさめました。11時、寒い夜でした。近所の父の家に住む妹から急を告げる連絡でした。米軍が来ておりわたしの家はどこかと探し回っているとのことでした。通常ならすぐに逃げ出すべき事態です。わたしにはテロリストとの関係は全くなく、基地で仕事をし英語も話せます。米軍を避ける理由がありません。米軍が来ているという父の家に行き問題を解決するべき判断をしました。
父の家はすでに米軍の車両(ハンヴィー)が数台取り囲んでいました。停電のためあたりは真っ暗です。ハンヴィーのルーフには射撃手が配置され警戒しています。ここで姿を現すのはまずいのではないか?暗闇から現れたら敵と間違われ撃たれるかもしれない。引き返すべきと判断しました。しかし今ここで背中を見せれば米兵は私が逃げ出したと思うかもしれません。難しいとっさの判断でしたがわたしはゆっくりと近づきアメリカ兵に声を掛けることにしました。それが撃たれないための最善の方法と思えたのです。
わたしの「ハロー」という言葉に兵士らは驚きいっせいに銃口をわたしに向けてきました。「落ち着いてください、わたしはこの家の者です」
兵士が上官らしき将校を連れてきました。階級はわかりませんでしたが彼はわたしの顔に銃をつきつけ質問をしてきました。まるで犯罪者に対する尋問のようでした。
米軍は何人かのイラク人を探しているようでその顔写真のリストを見せてきましたがわたしには名前も顔もわかりませんでした。

2011年1月12日水曜日

手記27:逮捕直前

前回原稿の最後にイラクにいる米兵との架け橋となり暴力を止めたいと書きました。現実には米軍基地ないでのショップ店員として危険にさらされる日々でした。毎朝の出勤時に基地の入り口でひとりづつチェックを受けます。そんなときに地元のミリシアなど反米組織に見つかれば命を奪われることになります。一方で基地で働かなければ家族と生きていくことができません。
バグダッドから逃れ郊外の村に移り住むことになったのですが不運にも良い選択ではなかったようです。ひとたび村を出るとミリシアの戦闘に巻き込まれかねないのです。サドル派マフディ軍と地域のスンニ派ミリシアとの戦闘でした。家を出ることはいわばギャンブルのようなものでした。うまくいけば無事に帰られるかもしれません。
米軍は治安の維持も回復もできずイラク政府も同様でした。市民は自分らで身を護るしかありませんでした。とくに夜に村人が襲われることあり村では自警団を組織しわたしも参加しました。時に警察と戦闘になることもありました。ミリシアは時に警察車両を乗りつけてくるので本物か偽物かがわからないのです。

2011年1月11日火曜日

ワリード手記再開

秋以来途絶えていたワリードの手記が届きました。米軍に捕らえられる直前までがこれまでの手記に書かれていました。数回に分けて和訳する予定です。

ワリードからーーーーーーーーまず原稿の続きが遅くなったことをお詫びします。イラクでの生活が苦しく原稿に向き合うことができませんでした。ーーーーーーーーーーー

2011年1月2日日曜日

ワリードの息子、ウサギを埋葬する

ワリードの息子が知人からウサギ2匹をもらいました。翌日に1匹が逃げ出しました。イヌが追いかけたところ突然死んでしまったそうです。牧場犬として飼っている利口イヌなので噛んだりはしていないとワリードは言っています。