ワリード兄弟イラク通信 Topページ  手記  メモ | ワリードとは | メール

2010年9月23日木曜日

2006年11月のメール

2006年の村での様子を書いたワリードからのメールをご紹介します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この15日間バグダッド郊外の村にいてメールが出来なかった。バグダッドの地獄から避難している。不幸なことに毎日大勢の武装集団に村が襲撃されている。彼らはサドル派マフディ軍の兵士だ。詳しくは書くことができない。インターネットカフェが秘密警察により監視されているから。

この村に来てから自警団に参加し、毎夜2時間武器を持ち戦いの前線に出ている。これまで幸運にもリアルな戦闘には出くわしていない、実際の戦闘まっただなかでは後ろに下がっていろと友人ら言われたことがあったが。
ほんとうのところ役に立つような戦争経験がない。
毎晩、眠りにつくのが難しい。殺された弟が胸に去来する。ようやく眠りに落ちても犬が何かささいなことで吠えただけで目を覚まし、最後の時が来たのではと考える。

*ワリードの村は首都バグダッドの郊外とはいえ砂漠にぽつんとあるオアシスのようなのどかな村でした。ワリードはこれまで自由人的に外国人とつきあい、田舎の保守とは遠いところにいたのですが最後に血族を頼りローカルなコミュニティに戻りセキュリティを得たのでしょう。
当時ワリードの苦境を知りごく近い数名で支援をしました。広く呼びかけることはしませんでした。今回の逮捕での対応は連絡会を発足させ広く呼びかけをしました。兄弟3人であること、相手が米軍であること、そして情報収集が困難で広く協力が必要と判断したためです。

2010年9月20日月曜日

手記26:逮捕前

基地で働くことは不快かつ危険なことでしたがそれでも米軍の実態を知ることは大きな意味があったように思います。
イラク人とアメリカ兵らはこれ以上血を流してはならないのです。わたしたちはお互い人間なのです。もちろん解決はたやすいことではありません。それでもここでの経験を無駄にせず相互の理解の役に立ちたいと強く思います。

アメリカが武器を手にしながらがルールを押しつけてくるとき、どこの国の民でも寛大に受けいれられるでしょうか。


イラク占領に反対するアメリカの友人が何人もいます。残念ながらアメリカ人は多くの国から歓迎されません。それはアラブへの強硬政策がもたらしたものです。


*この先の原稿はまだ届いていません。多忙ということで次の原稿には時間がかかるかもしれません。この後、ワリードは米軍に逮捕されることになります。手記を書くのは精神的に厳しことかもしれません。催促はせず本人に任せたいと思います。

2010年9月19日日曜日

手記6をアップしました

これまで空白だった手記6の和訳をアップしました。最終的な内容についてはワリードと確認中です。

2010年9月17日金曜日

ワリードの告白と悩み

ワリードが2008年の2ヶ月間、米軍基地で働いたことは今回の手記で始めて知りました。村ではネットができず、このころのメールのやりとりは月に一回か二回でただ安否を知る程度でした。
ワリードは自ら書いていますが米軍で働くことを恥じています。それでわたしにも「どう思うか?」と聞いてきました。どう思うもこうも、生きていてくれればそれで十分でした。
非暴力は大事ですが、武器については正当防衛なのだし、あの状況で非暴力と言うことは本人と家族に死ねと言うことです。
ワリードを知っている方、ぜひ本人に連絡してはげましてください。(管理人:かつお)

2010年9月15日水曜日

IDとミリシア

IDカード(身分証明証)についてワリードが手記17で偽造ID所持について書いています。そのIDには氏名・住所以外に宗教、宗派、部族が明記され、時にひとびとの生死を分かつことになるのです。イラクは9割がイスラム教です。そのイスラム教徒がスンニ、シーアと別れて宗派間で対立しているのです。日本では宗派間対立とか紛争とか言われていますがワリードはthe sectarian war=宗派間戦争と書いています。その死者数がイラク戦争での民間人の被害を超えているからでしょう。
IDの携行は義務です。ミリシアは町はずれなどに勝手にチェックポイント(検問所)を作って通行人を調べ、対立する宗派の人間を拒否します。エスカレートすれば拉致殺害に至りたいへん危険です。ひとびとは別の宗派のIDを持つことになります。名前も宗派の偉人にちなんだりした本名だとばれてしまうので偽名にします。
2004年ころから登場してきたのがミリシアです。
ミリシアを訳すと単に民兵ですがイラクの場合宗教的背景が強く宗教私兵集団といった意味になります。ワリードの手記には何度もミリシアの名前が出ますがそのときの状況に応じて政治的なこともあります。身代金を要求するミリシアは宗教的とはいえずたんなる強盗でしょう。地域性が強い場合は自警団と呼べるかもしれません。ミリシアについてはその文中に応じて意味を読み取っていただきたいと思います。

ワリードの場合、ある日実家に脅迫文が投げこまれ小さな子どもが玄関先で見つけます。
一家は地域で50年近く暮らし家族はみなムスリムでいたって普通のイラク人です。ただしワリードは戦争取材景気でいっきに小金持ちになっています。クルマも買い換えました。たぶん近所では目立ったかもしれません。もっとも問題だったのはワリードが外国人に協力していたことでしょう。
脅迫文には近所では知られているはずのない日本のテレビの名前があります。自衛隊の活動さえバグダッドでは知られていないのに誰が知るでしょう。親しい友人の誰かか親戚なのか密告者がいるようで不安になります。家族を連れて避難しますが妻にさえ行き先を告げられません。知らなければ守る秘密がありません。
隣近所のやはりスンニの住人は家長を殺されすでに一家で町を出て行きました。
小さな子どもがいるので恐怖におののきます。脅迫に対応しなければなりません。見えない犯人を刺激することになるのでワリードを家に入れられないわけです。
ワリードは監視の目を恐れることになります。都市の生活ではどこからそして誰から監視されているかわかりません。気がつくと尾行がつき、クルマはすでにマークされているので家から離れたところに停めてバスで町に入ります。さらに暗くなるまで町の中は歩けません。

ワリードのように外国メディアの協力者はもちろん米軍、外国企業に関わっていて身元がばれるなどすればいつ処刑されるかわかりません。スンニ派にとって警察は信用できません。警察の内部にはシーア派ミリシアメンバーがいるのです。ミリシアが制服を着て警察になったともいいます(全員ではありません)。ワリードの義理の弟は警察官でしたがスンニなのであっさり殺されるわけです。
戦後の選挙で人口で多数のシーア派が政権を取りました。とくに警察と内務省はシーア派が実権をとっています。サダム時代はシーアは圧政を受けていました。体制が変わって今度は多くのスンニが報復されました。スンニも復讐にかられ爆弾を抱いてシーア派モスクに飛び込みます。
スンニ派にもミリシアはいます。ミリシアは自派の住民を殺し敵対するミリシアのせいと工作し復讐心をあおったともいいます。憎悪と恐怖の連鎖は収まりません。

ワリードが家を出たにもかかわらず脅迫は続き一家までも殺害予告を受けます。四男(ワリードの下の弟)はモスクに行った帰りに警察に捕まりました。警察は裏で弟をミリシアに引き渡し弟は惨殺され道ばたに捨てられます。

ワリード一家は一族の出身地に避難できただけましでしょう。行き先のないひとびとは国内、国外難民になりその数は200万人余といいます。
一家の去ったバグダッドの家はすぐにミリシアに奪われます。スンニエリアから同じように逃れてきたシーアファミリーが斡旋されそこに住むことになります。もう彼らを追い出すことはできません。ワリードが住んでいたバグダッドの一画はそれまではスンニもシーアも入り交じって住んでいましたがもうスンニが住めない町になりました。
ワリードは蓄えを投じて国外脱出の計画をたてます。しかしその半ばで妻の父が身代金目当てに誘拐されます。要求された25,000ドルを支払いすっかり資金を失います。不幸のスパイラルはつづきます。ワリードは生活のために、脅迫されながらもメディアの仕事をやめることができません。
身代金を払って取り戻した義父は数ヶ月後またも掠われ今度は生きて帰って来れませんでした。

ワリードは避難先の村に閉じ込められました。村は一族の出身地で安全なはずでしたがそこもミリシアに目をつけられ毎夜の襲撃を受けます。父と母を続けて喪います。高校生の末の弟さえ誘拐されてしまいます(その2年後ワリードとともに米軍に逮捕されます。10年の刑でまだ服役中です)。
家族を守るために自警団に入り銃をとることになるワリードは武器所持の理由などで米軍により逮捕されます。米軍からすると自衛のために戦っているこの村人らもミリシアと見なされるでしょう。

ワリードは過酷な刑務所に耐えて生還しました。

ワリードがまだ生きていてほんとによかったと思います。
(管理人)

手記25:米兵とiPod

兵隊たちがイラクで手にする現金は月に200ドルでそれ以外の給料は本国の銀行振り込みです。そのため兵隊たちは略奪に走るのでした。彼らが現金以外で狙ったのはiPodでした。検問所でクルマを止めるとドライバーを外に立たせ車内のiPodを盗むのだといいます。
復興事業の担当者は大金持ちになれます。イラク人業者は熱心に癒着します。そのせいで事業のコストは本来の見積もりの10倍にもなるのです。これはアメリカ人の税金の無駄遣いにしかならないのです*。

基地で働きながら米軍の実態を見ました。それではというと米軍への見方に変化はなくショックも受けませんでした。
彼らのスローガン「イラクへ自由を!」=悪い冗談です。

*実際にはイラクの石油を売った金が使われているはずです(管理人感想)

2010年9月14日火曜日

きょうのワリード

ようやくスカイプが通じましたが停電のため長くは話せませんでした。

ワリードはラマダンの休暇中、北部アルビルの刑務所へ行き、末弟のアリに面会したそうです。アリは日本のみなさんによろしくと言っていましたとのこと。刑期について新しい情報はありません。
3日前村で11才の少女が身代金目的で誘拐され殺害されたという、あのような田舎の村で悪い話を聞きました。。
バグダッドではラマダン明け後、治安はまたも悪化する気配とのことです。

ワリードは数ヶ月前から友人の兄が経営する建設関係の会社にパートタイムで働いています。建設業界は過当競争で厳しい状況だそうです。さらに政府関係者、米軍上層部への交渉などかなりの部分袖の下の世界らしいです。
ワリードがこの業界で仕事をするのにはCAD(建築用ソフト)の習得・操作が必要ですがワリードには長年のブランクがあって厳しいと言っています。

アムネスティ

いまNHKのニュースでアムネスティインターナショナルの活動が報道されました。イラクでの三万人もの不当な逮捕や虐待などの問題です。
ワリードも米兵から暴行暴言を受けたと聞いています。ワリードの場合途中からイラク管轄の刑務所に移されました。
ワリードの手記はまだ逮捕服役まで書かれていません。
(かつお)

2010年9月13日月曜日

2010年9月12日日曜日

イード

ラマダン明けの連休でワリードと連絡が取れません。明日には事務所に出てくるはずです。

手記24:米軍基地で見たこと。米兵の実態

基地で勤務してあらため実感しました。

米軍はイラクに民主化をもたらすために来たわけではありません。

たいていの兵隊は最低なFで始まる英単語な連中でした。

朝、基地に戻ってきた兵隊がショップにやってきます。イラクの金をドルに両替するためです。兵隊の給料はドルなので連中がイラキディナールを持っている理由がありません。彼らは夜の間にイラクの貧しいひとを襲い奪ってきたのです。イラクでは彼らを取り締まる法はありませんでした。米兵は法の外にいていつでも好きなようにイラク人を殺すことができたのです。

なぜイラク人から、しかも貧しいイラク人から略奪してきたかわかるのか?イラク人なら誰でもわかります。そのイラクの札束は緑色の小さな布で包まれていました。緑はある宗派のひとびとが信じているつつましい縁起の色だったのです。金持ちのイラク人ならそんなことはしません。

兵隊らは焦っていて、証拠となるような札束を手放すためにどんな低い交換レートでも文句を言いませんでした。そんな時の彼らはだいたい泥だらけのブーツに汚れた軍服姿でした。これが作戦行動なら現金を持ってこられるわけがありません。


買い物の支払いに彼らは金の塊を持ってくることがありました。やはり略奪したものでしょう。わたしは受け取りを拒むのですがマネージャーは有利なレートで受け取ってしまうのでした。

手記23:基地勤務。1月から2月まで

ショップではコンピュータやその部品とソフト、DVDビデオなどを扱っていました。
ひと殺しの米軍に協力することを恥じ身を隠したいと思いました。
家を出るのは日没前、帰宅するのは日が暮れてから。それは目をつけられてしまわないよう、追跡されないようにでした。家族は理由を知らなかったと思います。
米軍の基地で顔見知りに会いました。彼もかつて日本のメディアで通訳として働いていました。そして米軍には猛反対していたのでした。その彼は今では米軍の軍服を着て米軍のために働いているのです。
わたしは驚きました。彼のほうは気恥ずかしげな顔をして言い訳してきました。
「まんずとにがく暮らしていがねーばなんねーんだげっとも、
さっぱ食えねんだでば。おめもわがっぺ。なんだもねんだでば」
「おらだづみんなおんなじだでば。気にすんすな。んだげっともな、
この国わげわがんねぐしたのは米軍だっつごどは忘れんすなよ」

*この年(2008年)1月8日、バグダッドに100年ぶりの雪が降りました。
 2月27日、ワリードは米軍部隊により逮捕されます。

2010年9月11日土曜日

手記22:苦しい決断

眠れない夜が一週間つづきました。米軍で働くことが親族に知られでもしたらたいへんな恥でした。しかしクルマを売って工面したカネもほどなく使い果たすでしょう。自分自身に言い聞かせました。「せめて侵略されたイラク人家族のために働こう、米兵がほんとうにイラク人を助けに来たのかどうか見てやろう」
米軍で働けば自衛のための武装も許され二年間働けばアメリカへの移民も可能かもしれません。しかし暗殺集団につかまればヒツジのように首を切られ処刑されるでしょう。やはり自殺行為か、、。
わたしは答えを先延ばしにしていました。
クルマは不調で故障しがちでした。バッテリがあがっていましたが買うカネがありませんでした。子どもたちの誰かが熱を出しても、クスリもないような村の病院ではなくキチンとした私立病院に連れて行くことはできないでしょう。事実はあきらかできれい事では生きていけません。覚悟を決めました。生き延びるためにカネが必要でした。

2008年1月から基地内で電気製品ショップの店員として働きはじめました。兵隊の手先となって外の作戦に同行する通訳よりはましな仕事でした。

手記21:次々と失われる家族

村には定期的に米軍が来ました。彼らはわたしに通訳として働かないかと勧誘してきましたが毎回のように断りました。米軍と働くなど敵を作るようなもので家族を危険にさらしたくなかったからです。同じころわが家の財政は危険水準になってきました。
わたしは米軍の通訳になって評価を落とすより農民になることに決めました。治安が回復するまでなんとか生き延びねばなりません。
GMC(アメリカ製大型SUV)を売り払い古い20年落ちのトラクタを購入しました。近所の畑を請負で耕し日銭を稼ぐ目論見でした。

そのころ妹の夫が拉致殺害されました。警察官だったためです。もうひとりの妹の夫はアメリカ軍の間違いで背中を撃たれ障害者になりました。3人の子どもがいます。
数週間後妻の父親が誘拐されました。二度目の誘拐で今度は生きて帰れませんでした。日ごと悪いことばかりが続きました。
わたしの母は息子(四男)を奪われ、夫まで亡くし後を追うように40日後に亡くなりました。

わたしの肩には一族の生活がかかってきました。
三人の妹(一人は未亡人、一人は夫が拘留中、一人は夫が障害者)とそれぞれの子どもたち、私の妻と四人の子ども、そして妻の実家の家族ら(妻の父が殺害された後わたしたちの村に移ってきました)でした。家族は18人に達しました。わたしはあっという間に貧しくなりました。これからどうやって大家族を食わせていけばよいのでしょう。先行きは見えないまま日々を生きぬいていけるのか。
国外移住などもう完全に無理です。その可能性さえなくなりました。
期待した農業は生活の基盤にはなりませんでした。失敗の連続で都会育ちのド素人ではやるだけ無駄なことでした。

2010年9月10日金曜日

手記20:村で生きる

父の死後すぐに現実の問題に直面しました。
わたしが国外などに出かけ長い留守をする時は父が家族の面倒を見てくれていました。厳格な父でしたが子どもたちはたいへんなついていました。とくに次男は父の死を深く悲しみ、涙とともに眠りにつき朝、目を覚ましては喪失の寂しさに声をあげるのでした。
母の糖尿病は重くなるばかりでした。妻と幼児を含む四人の子どもの面倒をまかせて長期の留守をすることなどできませんでした。
胸にはぽっかりと穴があいています。あらためて父の存在の大きさを痛感しました。

わたしは国外脱出の計画をあきらめました。たとえば移民のために国外で準備に一年も費やせばそれはその間に家族の誰かを失うということでした。家族のそばで現実と運命に向き合うことになりました。
すでに自衛隊はイラクから撤退し日本テレビはサマワの拠点を閉鎖しました。同僚をひとり失いました。イラクにはメディアの関心をひくものはなくなったようです。仮にあったとしてもロイターなどの大手通信社からの配信記事でもう間に合うのでしょう。数年におよんだジャーナリズムの仕事はなくなりました。

村で一ヶ月が過ぎても仕事が見つかりません。唯一の仕事は英語を活かして米軍の通訳になることでした。それだけはなんとしても避けたい仕事でした。この村ではあっという間に目をつけられ処刑されるでしょう。

手記19:突然の父の死

2007年1月14日、イラクにいったん戻ることにしました。長期の留守に備えるためにやることはたくさんありました。その年の冬はとくに寒く暖房用の灯油の買いだめが必要でした。世界有数の産油国なのに品不足で手にはいらずあちこちを探し回りました。もし十分に買えなかった場合は木を切り倒し燃料の薪にするつもりでした。どうしても男手が必要な仕事でした。
厳格で気丈だった父が弟の死に嘆き毎日ただ涙を流すだけでした。そしてわたしには国を出て生き延びるように強く促すのでした。
村に戻って12日目、父が死にました。
突然すぎる死でした。強い男で病気の気配はどこにもなかったのです。

手記18:国外脱出への希望

移民ないしは難民として国外脱出するアイディアは日に日に強くなりました。
9月にアンマンに出ました。そこでの職探しと国外脱出の交渉でした。
しかし当時200万人ともいわれる大量のイラク人が国から逃れ隣国ヨルダンやシリアに押し寄せていました。それまで自由に行き来できたヨルダン入国も制限されるようになり、ましてイラク人が仕事をえることなどは不可能でした。やはり移民としてヨーロッパに行くことに気持ちが傾いていきました。
ヨーロッパのいくつかの国は難民を受け入れていました。まずわたしがヨーロッパに渡りそこで一年を過ごすと家族を呼び寄せることができる仕組みのようです。
大きな挑戦でした。これまでそのように長く家族と離れたことはありません。しかし徒にイラクにいたのでは家族をひとりまたひとりと失うことになります。

手記17:自衛隊の撤退と村での新しい暮らし

「2006年7月17日。自衛隊サマワ撤退」
自衛隊撤退の取材に日本からジャーナリストが来ました。
無事に取材は終わり取材チームは帰国しました。
自衛隊が去り、サマワの事務所も閉鎖しわたしは職を失いました。
バグダッドに戻ることもできず、村で人生をやりなおすことになりました。

宗派間戦争では、とくにひとつの国の中での戦争ではたいへんに困ったことがありました。それは宗派が支配するエリアの通行でした。ミリシアは町外れに勝手に検問所を作り銃を構えてクルマを止めてID(身分証明書)を提示させます。スンニのわたしがシーアのエリアを通行することは危険で出来ませんでした。逆も同じです。そのため多くのイラク人は偽のIDを持って検問を通っていたのです。

やがてバグダッドに残っていた両親と下の妹が村に逃れて来ました。バグダッドの実家はマフディ軍に奪われ彼らが斡旋するシーア派が住むことになるでしょう。
一家は両親に兄弟姉妹、その家族を入れて20名以上にふくれあがりました。誰もが仕事がありません。時に食糧が底をつき雑草を食べたこともあります。

*管理人より:偽ID使用はワリード逮捕の理由のひとつと聞いています。いずれワリードが米軍による逮捕の真相を書くと思います。

手記16:夜のミリシア

葬儀を済ませたその夜、わたしたちは農村で過ごしました。農村は父の生まれ故郷で一族の農場がありました。安全な暮らしのためバグダッドから生活を移す予定でした。
しかしその農村さえも夜になると銃声が聞こえてきました。農村から隣町まで夜はミリシアが支配していたのです。
農場の向こうに黒ずくめに武器を携行した7、8人の男たちの姿が見えました。わたしたちはこの村では新参者です。彼らがなにものかはわかりません。
わたしは兄ヤヒヤを呼びました。連中を農場へ入れてはならない。家族への危害を防がねばなりませんでした。
こんな状況の出会い頭で撃ち合いになり死人が出るのです。
私は大声で彼らに呼びかけました。
彼らは無言です。
威嚇のために銃を撃ちました。
撃つな!お前たちの仲間だ。彼らが叫びました。
しかし距離を保ったままです。
彼らの狙いは何でしょう。わたしは少し近づきました。
そこにいろ!彼らが警戒の声を発しました。
その時爆発音が聞こえました。ロケット弾の着弾でした。闇の先のミリシア側からの攻撃でした。
男たちは私に背を向け応戦し始めました。
どちらの宗派にもミリシアはいました。いまでも彼らがこちら側の自警団だったのかわかりません。

2010年9月9日木曜日

手記15:死体置き場

日曜日に葬儀でした。
バグダッドの治安は日に日に悪化していました。みながモルグ(死体置き場)に行くことを恐れていました。
わたしは父、妹の夫とバグダッドに一カ所あるモルグへ弟を引きとりに行くことになりました。
人間はいつか自身の宿命、運命に向き合うべきときがあります。
死はいたるところにあふれ私たちを取り巻いていました。
いつしか死への恐怖は消えました。
恐怖の世界で生き続けるより死んだほうがましだと思うようになっていました。

わたしはモルグに入りました。
人生でこれほどひどい状況を知りません。この場所とこの悲惨さを説明できる言葉が見つかりません。
死体は100体ほどあり地面に横たえられていました。首のない処刑された死体も並べられていました。
冷房設備も冷蔵設備もなくすさまじい悪臭でした。あたり一面、肉と流れ出た体液に覆われていました。野良猫数匹がうろついていました。
人間でいることがいやになりました。
たくさんの遺体の中から弟を判別するのは困難でした。死体の顔は大きく腫れ目は飛び出しほとんどが同じように見えるのです。弟が殺された日の写真を見せられていましたが、酷暑のバグダッドで3日もさらされて、激しく損壊した死体を弟と一致させることは不可能でした。イラクにはDNA検査などないのです。
その日、惜別の日が過ぎました。

手記14:拉致殺害された弟

約二ヶ月日本に滞在し7月6日にバグダッド空港に到着しました。サマワでの仕事が待っており急ぎの旅でした。
空港に迎えに来てくれた兄は浮かぬ顔していました。留守のあいだに何かあったのでしょうか。
兄は家族を預けた村への途中に重い口を開きました。弟が一昨日前モスクに礼拝に行ったきり行方不明になっていたのです。今、父親と親戚が病院を回り担ぎ込まれているのではないかと探しているのだそうです。
そして当時のイラクでは当たり前になっていることでしたがモルグ(死体置き場)にも行かなければなりませんでした。発見される可能性がもっとも高かったのです。
まもなく家族に会えるであろうという喜びも吹っ飛びました。村まであと数キロというところで兄は電話を受けました。見る間に暗い表情になりました。電話を切ると涙を流しました。
弟はモルグで見つかりました。変わり果てた姿で路上に投げすてられていたそうです。弟はまだ32才でした。
シーア派ミリシア(宗教私兵集団)支配地域ではスンニの家族がモルグに立入ることは非常に危険でしたが警察官の親戚らと武器を持って押し通ったそうです。


わたしたち一族には最悪の日でした。
家で待機していた母たちは家族の一員を掠われ一様に悲しげでした。しかし殺されたことはまだ知らないのでした。ひさしぶりの再会で喜ぶべき場に悲しみを伝える使者になってしまいました。

バグダッドで長く続けられていた一族の生活は激変していました。そしてバグダッドから家族の半分が郊外の一族の出身地の村に移ったところでした。一部の家族は治安の急激な悪化で町に閉じ込められ、母は糖尿と高血圧の治療・通院のためにも残っていました。

その日は弟の亡骸を受け取ることはできませんでした。翌日埋葬のために引き取ることになりましたが週末にあたる木曜日でモルグは半日しか開かず、遺体の引き渡しは出来ないと言ってきました。わたしたちは翌々日の土曜まで待たざるをえませんでした。死者への尊厳などありませんでした。生きている人間にさえ価値がありませんでした。
わたしたちはイスラム教徒です。いまはただイスラム教徒を装っているだけです。社会は正気をなくしています。まったくもってイスラム教では許されないことばかりです。

疑問と不安

管理人の感想です。
ここまでの手記を読んであらためて当時の記憶がよみがえりました。ワリードが当時わたしに伝えなかったことも書いてあります。しかし当時の疑問が解消したともいえません。読んでおられるかたは納得されているでしょうか?
・なぜ家族から反対されかつ脅迫されてまでテレビの仕事を続けたのでしょう?
・サマワの責任者が拉致殺害されているのになぜサマワに家族で避難したのでしょう?
上記二点(家族の反対とサマワでの殺害)は今回初めて知りました。常識的にはガイドの仕事は外国人といるだけでターゲットと見なされ危険でした。
ワリードは長い日本人とのつきあいで身につけた、日本人にはかゆいところに手が届くガイド能力に自負があったことでしょう。さらにふつうには稼げないギャラも手にしていました。単純には比較できませんが戦前、NGOが払っていた給料の50倍をマスコミはポンと出していました。
不安に思っており「十分稼いでいたのだからもう商売でも始めて、外国人と手を切るべきだ!」と言ったところで聞くわけがありませんでした。
サマワでの業務も問題でした。サマワはシーア派エリアでサダム時代に相当の迫害を受けていました。サダム時代は表向きは宗派対立はありませんでしたが裏では当然差別がありました。サマワは当時もっとも国外に逃れる住人の割合が高かったと聞いたことがあります。すさまじい迫害があったからです。戦後は米軍に抵抗するよりサダム=スンニへの反感で「敵の敵は味方だ」という論理で米軍に協力すべしというファタワが出たともいいます。それゆえ自衛隊活動の候補地としては住民から協力が得やすかったのです。ワリードの問題はおのずと発生しています。彼はスンニだったのです。しかもバグダッド育ちの都会っ子でした。
シーア派地域ではシーアのガイド、スンニ派エリアではスンニのガイドが適切でかつ本人のためでもあったと思っています。管理人は南部シーア派エリアで活動するときはシーアの友人に協力を得ていました。
それでもワリードが避難先としてサマワを選んだのは長く住んでしがらみが多く、人間関係が硬直してしまったバグダッドよりスンニがごく少数で、かえって猟師の懐の「窮鳥」たりえたサマワのほうが、比較として安全だったのではということです。
覆水盆に返らず。ワリードは稼いだ全てを失った、それ以上かもしれませんが失ったようです。

2010年9月8日水曜日

ラマダン明け

ラマダンが明けてこれからお祝いだそうです。早めに帰宅すると言っていました。日本で言えば盆と正月が一度にやってきたような感じでしょうか。

2010年9月7日火曜日

手記13:日本訪問

2006年4月上旬、私のサマワでの業務が終了しました。そのころ自衛隊は何度も攻撃を受け陣地に閉じこもり活動は中断していました。次の仕事と将来を考えて日本に行くことにしました。

5月22日から7月4日まで日本に滞在しました。
日本は夢の国でした。なんとか新しい仕事と生活を日本で見つけたいと思いましたが移民・難民としては歓迎されるわけではないとわかりました。難民を多く受け入れているヨーロッパ諸国とは違っていました。
6月の下旬、自衛隊がイラクから撤退の時期が近づき、日本テレビから再度サマワに行くよう要望がありました。目先の仕事が鼻先にぶらさがりました。むろん断れるはずがありません。
夢の国でのわたしの「夢」は途中であきらめることになりました。日本は新しい人生を見いだすには難しい国でした。
イラクに戻ればまたも宗派戦争に向き合うことになります。
日本には45日滞在し結局大きな失望とともに帰国しました。


*彼の手記にもありますが脅迫を受けており「家族、友人、自分を知るイラク人、またはそれにつながる可能性のあるアラブ人に日本とつながっていることを知られたら殺される」という状況で、来日後東京でのアラブ人社会には近づかないようにしていました。
個人的にいろいろ思うところがあって和訳が遅れました。(かつお)

手記12:悪化する治安、サマワ

詳しくはリンクのサマワリポートをご覧ください。

2010年9月6日月曜日

メモ:陸自への自爆攻撃警告

参考資料として当時の報道を貼ります。オリジナルリンクはもう切れていますのでご了承ください。当時ワリードと数週間連絡が取れず、この報道もあり焦ったことを思い出しました。

2005年11月21日、共同通信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051021-00000272-kyodo-int
陸自への自爆攻撃警告 サマワでサドル師派
 【サマワ21日共同】陸上自衛隊が駐留するイラク南部サマワでイスラム教シーア派の反米指導者サドル師派の代表を務めるムハンナド・ガラウィ師は21日の金曜礼拝で、「友好と称してイラク人と関係を持とうとする日本人にはわたし自身が自爆攻撃する」と警告した。
 サドル師派は、以前から陸自を「占領軍」とみなし撤退を訴えていたが、これまでにない強い表現で敵意をあらわにし陸自撤退を要求、イラク人が日本人と友好関係を持つことも禁じた。
(共同通信) - 10月21日22時21分更新
陸自への自爆攻撃警告サマワでサドル師派
 【サマワ21日共同】陸上自衛隊が駐留するイラク南部サマワでイスラム教シーア派の反米指導者サドル師派の代表を務めるムハンナド・ガラウィ師は21日の金曜礼拝で、「友好と称してイラク人と関係を持とうとする日本人にはわたし自身が自爆攻撃する」と警告した。
 サドル師派は、以前から陸自を「占領軍」とみなし撤退を訴えていたが、これまでにない強い表現で敵意をあらわにし陸自撤退を要求、イラク人が日本人と友好関係を持つことも禁じた。
 ガラウィ師は集まった数百人の支持者に対し、「日本人の友達がいるといって、自宅に招こうとすることは禁止する」と訓示。「占領軍のメンバーと取引し、友達だといって彼らを自宅に招くやつを数え上げろ」と呼び掛けた。
 サマワでは7月、日本友好協会会長だったアンマル・ヒデル氏が、多数のサドル師派を含むデモ隊の一部に「日本人との付き合いをやめなければ店を爆破し、おまえを殺す」と脅迫を受けた後、経営する宝飾店が爆破されていた。事件を受け、協会も解散した。

*管理人補足:
アンマル・ヒデル氏が自分の店のあるアーケードに「ようこそ」という横断幕を掲げたのは2003年12月のことでした。宝飾店主で協会の会長というとあるイメージが喚起されますが実際の店は3人も入ると動くスペースもない狭い極小の店で、彼自身は単純な善意で横断幕を作ったのではと思います。

手記11:バグダッド脱出

荷物をSUVに積み込み最後に子どもたちをのせるとすぐに床に寝そべらせました。そして冬の早朝のバグダッドの街へクルマを走らせました。両親の家はすぐ近くで父だけがわたしたちの出発を見つめていました。
幸いにもその日は朝靄で薄暗く、監視がいてもわたしのクルマを見分けるのは難しかったでしょう。
わたしは銃を用意していました。当時のイラクでは誰もが武装していましたが、ミリシア(民兵)を動員しての本格的な宗派間戦争にちっぽけなピストルが役に立つとは思えませんでした。それでも家族を守るために弾丸をこめました。
目的地まではふつうなら3時間で行けましたがこの日は満載した荷物に悪天候のため最大限の安全運転で6時間かかりました。
妻はシリアの国境と検問が見えてくるのを予想していました。数時間後に出むかえたのは「サマワ市」の案内標識でした。その時に至るまでわたしは妻にサマワ行きを知らせていませんでした。
妻はようやくわたしの計画に気がつきました。もし妻に話していたら妻の口から妻の親族に伝わったことでしょう。その先どこまで話がもれるかわかりません。どうしても秘密にしておかなければならなかったのです。


管理人補足:イラクは戦争前は銃の所持は許可されていました。戦後は政府が崩壊、無法な世界を生きるため市民は自衛のため武装しました。軍の武器庫からの大量流出もあったといいます。2003年に道ばたで自動小銃が100ドル、ピストルが150ドル程度で売っていました。ワリードの家、彼の部屋でピストルを見せられたことがあります。持ち歩いたりしないのか?と聞いたところ「持っていると使おうとする。かえってそのほうが危険だから自分は持ち出さない」と話していました。ワリードを含めほとんどのイラク成年男性は軍での武器操作の経験があります。武器の怖さをよく知っているのだと思います。

2010年9月5日日曜日

手記10:両親との別離

シリアへの脱出を決め準備を始めました。
その頃すでに多くの家族がバグダッドから脱出を試みていましたが、かなりの人数が市内を抜け出すところで殺害されていたのです。脱出には幸運も必要でした。
ところが両親までも脅迫を受けてしまったのです。
これは一族にとっても戦争でした。わたしたちは戦争をやり過ごし戦争から生き延びねばならないと決意しました。
病弱な母にはわたしたちのプランを告げずに夕食に招きました。わたしたちが家族から離れることを知った場合母はおそらく悲しみにくれるでしょう。そして親戚や隣人に黙っていることは出来ないはずでした。計画は誰にも知られてはならなかったのです。
わたしは家族のそろって写る何枚もの写真を撮りました。

わたしと妻は両親が帰るのを待ち脱出の準備を進めました。当時バグダッドでは夜間の戒厳令で、外出が許される朝の5時まで6時間しかありませんでした。それまでにで全ての荷造りを済ませました。父は同行したいと行ってきましたがわたしは断りました。二人同時に失うよりは一人だけのほうがまだましでしょう。
かわりに父に頼みました。「わたしが殺されたら子どもたちを頼みます」
わたしは死を覚悟していました。しかしせめて家族のいる家では殺されたくはなかったのです。

手記9:殺されないために。シリア脱出計画

翌朝、サマワでカメラマンとして働いたことのある友人に相談しました。
サマワのわれわれの事務所の責任者も誘拐された。これからの仕事も続けられるかわからない。自分も脅迫され家族も一人ずつ殺すという。
イラクからすでに多くの市民がシリアに逃れているが誰も仕事をみつけられずカネばかりかかっているという。しかしもうイラクは無理だ。すぐにでも家族をバグダッドから離したい。
検討の結果、家族をいったんサマワの信頼できるエリアに移し単身シリアに渡り移住の準備をすることになりました。
バグダッドでは住人の誰が敵対しているかわからず、計画は注意深く秘密のうちに進めました。

*管理人補足:ワリードの住んでいた町はスンニ派シーア派混在エリアでしたがシーア派武装組織が勢力を伸ばしスンニのワリード一家は圧迫を受けるようになります。
数年後ワリード夫婦の家はワリードが服役中に妻が生活費のために売り払いました。ワリードの実家はスンニが住むには治安が悪すぎて家族はいまだ戻ることができません。

手記8:家族に届いた脅迫状(続き)

母が現れ叫びました。「ワリードを入れてはダメ」
わたしはなんとか安心してもらおうと早口で説明しました。「クルマは遠くに止めてある。ここまではバスで来た。暗くなってから来たから誰にも見られていない」
「おお、神がワリードとともににおわすだろう。ドアを開けよう」父はわたしの強い願いを拒めず家に招き入れてくれました。

わたしは家に入りました。家族のみなから抱きしめられました。そして誰もが涙を流しました。
父はこれまでもわたしの仕事に不満を持っていました。日本人との仕事がわたしの身に危険を及ぼすからと非常に心配していました。そのことで父は常にわたしを責めていましたが、あらためてわたしを責め始めました。
「わかっているのか?今の危機はおまえ自身が招いたのだぞ。家族まで危険に巻き込んでいるではないか」


一番小さな息子が玄関前に投げこまれた封書を見つけました。それが脅迫状でした。
偉大なるアッラーの神の名のもとに背信者かつスパイであるワリードに告げる。と文は始まっていました。
われわれはお前が異教徒の軍の占領に協力する日本のメディアで働きプロパガンダを行っていることを知っている。
自衛隊はアメリカ支配の協力者だ。
我々はお前とお前のスタッフらに警告する。すぐに日本メディアへの協力をやめること。さもなくばアッラーの名において殺害を宣告する。

わたしはアタマが真っ白になりました。

父は国外に出てはどうかと言ってきました。どこの国に行けばよいのか当時イラク人を受け入れる国はシリアだけでした。

手記7:家族に届いた脅迫状

2006年、引き続きサマワに駐在し自衛隊の活動を追っていました。家に帰るのはほぼ2週間おきでした。四番目の子どもが生まれたばかりで家族に会うのは楽しみでした。
1月の中ごろでした。父から連絡がありました。
「たいへんなことが起きたが家には帰ってはいけない」
いったいどういうことでしょう?父が言うには家族は無事だといいます。「バグダッドに戻っても家には近づいてはいけない」それ以上のことは電話では聞き出せませんでした。
サマワからバグダッドまではおよそ300キロ離れています。たいへん気をもみながらクルマを走らせ日没の2時間前にバグダッドに着きました。来るなと言われても行かないわけにいきません。子どもたちに妻に会わないではいられませんでした。
わたしは家族と会うための計画をたてました。
父や兄弟とは別に隣町に家を借りて住んでいましたが自分の家には立ち寄りませんでした。父との電話では子どもたちはすでにわたしの家から両親の家に連れて行かれ安全だということでした。同時にその受話器ごしに聞こえてきたのは「ワリードを家に入れないで!」という家族たちのおびえた声でした。
その頃すでにイラク中で多くの人々が理由もなく殺されていました。自分個人の関係でも善良な友人らが40人以上も殺されていました。
あたりが暗くなるまで時を過ごしました。そして家の近くまでしのび寄り父に電話を掛け到着を告げました。驚いた父は家に入ってはいけない、お前が殺されると言いました。その時、危険にさらされているのは家族ではなく自分がターゲットなのだとわかったのでした。
私は神に祈りながら家の前の街灯に姿をさらしました。父が現れ即座に門扉を開けてくれました。
(写真:銃弾が貼られた脅迫状)

2010年9月4日土曜日

手記6:サマワ。脅迫と誘拐

自衛隊のサマワ派遣と時を同じくしてシーア派有力グループのサドル師派がサマワでの活動を強化しました。
日本テレビはサマワに事務所を開き常駐スタッフを置くようになります。責任者は有能な男で日本語とアラビア語を流ちょうに話しました。
2004年暮れから翌年にかけサマワ事務所は脅迫を受けます。日本テレビはスタッフをバグダッドに移動させることにします。
2005年1月中旬、サマワの責任者は拉致されました。彼はまだ見つかっていません。
彼の母親はバグダッドに住んでいて息子を探し続けています。
わたしは彼の後任としてサマワで常勤スタッフになります。自衛隊の取材はたいへん厳しい仕事になりました。
そしてわたしも同じように殺害予告を受けることになります。

その年2005年、宗派間の対立が激化しました。一説ではアメリカが自らが攻撃対象ににならないために宗派間の対立に火を付け加速させたとあります。

手記5:サマワ、劣化ウラン弾発見

2003年12月9日、フォトジャーナリストと沖縄平和市民連絡会をガイドしたサマワで、劣化ウラン弾の使用を裏付ける破壊されたキャノン砲を発見しました。彼らが持参してきたガイガーカウンターで確認をしました。ユーフラテス河沿いの道の脇の広場で見つかりました。対岸はすぐサマワの街でした。戦争時サマワは戦闘を否定しバグダッドに向けて進軍するアメリカ軍を素通りさせた、よって組織だった戦闘はサマワでは起きず劣化ウラン弾も使用されていないと言われていました。
わたしは2004年の始めから不定期にサマワに入るようになりそして2005年から常駐するようになりました。
自衛隊の派遣と前後するようにサドル師派はその活動を始めました。外国企業や外国軍隊への抵抗活動でたいへん危険な状況になりつつありました。過激な行動で知られるのがサドル師派であり数々の暴力事件をおこした直属のミリシア(宗教私兵集団)、マフディー軍です。
はじめ自衛隊が来た頃のサマワは静かとも言えました。
しかし自衛隊は復興の約束を守れませんでした。時間がたっても何も変わりませんでした。
サドル師派は抵抗活動を始め 住民らの不満をもとに組織行動し自衛隊にサマワから出て行くように警告を発しました。
わたしは仕事と同時に生き延びるため二倍の努力が必要でした。
治安は目に見えて悪化してきました。
どんな小さなミスも死に直結するやもしれませんでした。自分だけでなく取材チームにも危険は及んでいました。実際にサマワ事務所の責任者は命を落としたのでした。
日本テレビは2005年から取材拠点として市内に借りていた事務所を、ミリシアに目をつけられることを警戒して何度か場所をかわりました。多くの武装ガードマンを雇っていました。
日本人スタッフはミリシアから脅迫を受けると現地スタッフには黙って素早く逃げ出しました。残ったイラク人らはなぜ急に日本人がいなくなったかわからないのでした。
続き・・・

手記4:マスコミへの協力。そしてサマワへ。

イラク政府は2002年に一部外国人旅行を解禁しました。
生活のためパートタイムで旅行ガイドとして働き始めました。
しかしその年の終わり頃からアメリカがイラクに難癖をつけてきました。その頃のことはみなさんもご存じと思います。
もちろん半年以上に及ぶ国連の査察でも大量破壊兵器は見つかりませんでした。しかしアメリカはイラクの周辺国に部隊を配備しイラクは包囲されるようになっていました。観光の仕事などはなくなりガイドとしての仕事は2003年1月まででした。
一方で戦争取材のマスコミは押し寄せるようになりました。わたしは通訳として日本テレビに雇われました。
わたしがあの戦争から生き延びられたのは奇跡のようなことだと思いました。4月8日昼取材班が滞在し拠点となっていたバグダッド市内の高級ホテルが米軍により攻撃されたのです。まさに隣の部屋が砲撃されジャーナリストらの死傷者が出ました。すぐさま駆けつけたのですが室内はむごたらしい状況でした。
4月20日、バグダッドは静かになりました。米軍はイラクを占領し続けました。
その年の暮れ、自衛隊がイラクに派遣されることが決定し、日本のテレビ局からはサマワに行くようにとの電話がはいりました。

2010年9月3日金曜日

手記3:NGOとの協力

軍役の後貿易省に職が決まりエンジニアとして働きました。湾岸戦争が終わって数年たっていてもイラクの経済は疲弊したままで、インフレと物価高で公務員の月収10ドルではとても生活ができませんでした。そのころは医者や学校の先生でさえ月給だけでは生活ができず勤務後にタクシーの運転手などして生活を補うのがあたりまえでした。
月収10ドルでは輸入品のクスリからクルマの部品ひとつさえ買えません。わたしはやむなくタクシーのドライバーになりました。外国のNGOとの仕事をメインにするにはまだ不安定でした。
病院への定期的な訪問と支援で主に子どもたちの病気の増加など変化が目に付いたのが90年代なかばでした。劣化ウランという言葉を聞くようになりました。
イラク保健省、赤新月社との交渉などをとおしてアメリカやヨーロッパのNGOとも仕事をするようになりました。
湾岸戦争と前後して始まった経済制裁によるイラク人の苦しみはわたしも味わっていましたが、会の活動で訪問した小児病院での医薬品不足による悲惨な様子はイラク人であっても、身内に子どもや障害者がいなければ知る機会がなくわたしにとっても驚きでした。
劣化ウランによる被害は当初はサダム・フセインのプロパガンダと決めつけられ、なかなか認知されませんでした。
日本の支援NGOのイラクでの活動は1〜2年間ですでに去っておりその後も定期的に活動していたのは「アラブの子どもとなかよくする会」ぐらいだったはずです。
1997年イラク政権の方針が変わり海外NGOのイラクでの活動が制限されるようになりました。バグダッドがアメリカの制裁による空襲を受けた年でもあります。NGOはイラクでの活動をあきらめさらに撤退していきました。
諸説ありますが1990年の国連(アメリカ主導)の経済制裁によるイラク人の死者は120から170万人に及ぶと言われます。その大半は乳幼児でした。

日本では劣化ウランや経済制裁によるイラクの困難が知られるようになり、一部のジャーナリストがイラクに目を向けるようになり支援活動と並行して通訳・ガイドの仕事を引き受けるようになりました。イラク戦争が近づいて来ました。

手記2:日本人との出会い

1993年のことでした。当時まだ兵役中で勤務の合間、小都市ヒッラでの商店街で買い物をしていました。おおくの人だかりの中になにやらアジア人らしき女性の姿が見えました。その女性は何かを訴えているのですがアラビア語をしゃべれない様子でした。周囲の人々も彼女の言葉を理解できません。当時のイラクは湾岸戦争の直後で世界中からつまはじきされており外国人がたいへん珍しかったのです。しかもアジア人であり女性でした。わたしも好奇心にかられ英語で話しかけていました。彼女は英語で呼びかけられたことで安心した表情を浮かべたように見えました。
バスでバグダッドに戻りたいとのこと、そして日本から来たということがわかりました。なんということでしょう。首都バグダッドでさえもめったに会ったことのない外国人なのに地方のヒッラでしかも日本人に会うとは!
その頃のイラクは貧しいけれど安全でした。バグダッド行きのバスを待つまでにその日本女性はわたしに名刺をくれました。それまで名刺などもらったことがありません。自分でも名刺を持っておらず彼女のノートに自分の名前と連絡先を書きました。
アラブのこどもとなかよくする会という東京のNGOに所属する伊藤さんは91年からイラクの子どもたちへの医療支援や文化交流をしていました。
わたしはちょうどそのころ軍役が終わりかけていたころであり、機会があれば活動の協力もできそうでした。まずはパートタイムのドライバーとして、そしてアラビア語通訳として会の活動を手伝うことから始まりました。

ヤヒヤとスカイプ

さきほどヤヒヤと話が出来ました。ふだんワリードはバグダッドの友人の事務所のパソコンから連絡してきます。金曜は休日で連絡がとれません。これまでヤヒヤとの会話を望んでいたのですが今回は実家からのスカイプでした。ノートパソコンを借りることができ、固定回線はないもののWi-Fiがカバーされたそうです。おかげでヤヒヤの動画を見ることができました。
ヤヒヤは現在家族とドーラに住んでいます。なぜワリードやほかの兄弟姉妹と離れて住むようになったのかわわかりません。まだ体に変調があるそうです。
 家に来客があり「英語の会話を聞かれてはまずい」となり会話は突然終了になりました。

2010年9月1日水曜日

手記1:日本との出会い

わたしにとって日本は特別な国でした。10歳のころ見たテレビアニメ「サスケ」そしてシロクロでしたがサクラの花と日本女性の美しさをグラビアで見ることがありました。高校生になった1980年代後半には親戚が日本のイラク大使館に勤務したこともありさらに文化だけではなく日本の生活やすぐれた自動車や電気製品についても知ることになりました。いつのまにか日本に強い関心を持つようになっていました。
わたしはイラクの貧しい村で育ちました。父は電気技術者でした。貧しく生まれた父は十分な教育を受けることができず、独学で学んだぶんわたしたちにはできるかぎりの教育を与えてくれました。
1980年から隣国イランとの戦争が始まりました。青年たちにとって、前線に送られないためには大学などに進学することでした。わたしは91年に大学工学部を卒業しましたが兵役を逃れることはできませんでした。貧しかったため兵役逃れの罰金を払うこともできませんでした。
大卒のイラク人技術者としては兵役を終えないと社会から認められたポジションにつくことができませんでした。選択の余地はありませんでした。一年早く卒業していたら湾岸戦争に送られるところだったので幸運だったかもしれません。
わたしはイラク共和国軍に入隊し戦車の操縦士になりました。1年8ヶ月の兵役でした。成績がよかったためか士官として軍隊に残るように勧誘されましたが父は軍を好まず除隊することになりました。

ワリードが手記を書いています

ワリードが日本人と出会ってから17年になります。湾岸戦争直後からイラク入りし活動していたNGOの貴重な協力者でした。その頃のイラクでは日本以外でもかぎられたごく少数のNGOしか関心を持たず活動をしていませんでした。ワリードほど湾岸戦争後からイラク戦争、そして今にいたるまで日本の市民レベルと関わってきたイラク人はいないと思われます。湾岸戦争からの激動の時代のイラクを日本人との関わりを通してワリードが語ります。

ワリードは母国語ではない英語で原稿を書いています。和訳も素人のブログ管理人によるものです。これまで米兵からの暴行など口頭での話は聞いていましたが、そのまま書くことは躊躇していました。