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2011年2月26日土曜日

手記50:あと45日?

翌日の取調官はまだ若く、腕にはshell of bullet(意味不明)と硝煙の刺青をしていました。いくつかの質問のあとわたしにタバコをくれました。メンソールだったと覚えています。
「あなたの経験からしてわたしの釈放の見込みはありますか?」わたしは聞いてみました。
「自分はその担当ではないのではっきり言えないがもし釈放されるとしても最低45日はかかるだろう」そう答えた彼は親切な男でした。わたしは英語が話せましたし、事情を聞いてもらうことができました。
「ましな部屋を用意しよう。しかしこんな話をしたことは誰にも話さないほうがいい。ねたまれてレイプされる。悪ければ殺される」
さらに日本との関係があることも話さないようにと忠告されました。あの中には殺人者もテロリストもいると言うのす。

わたしは雑居房に戻ってから考えてみました。45日間はたいへんに長い。長すぎます。わたしが請け負っていた取材の仕事は始まっていて日本からの取材班はバグダッドに来ているはずです。この刑務所でいくら気をもんでも、いくら抗議してもまったく無駄だったでしょうけれど。

取り調べなどで房を出されるときは頭からすっぽり目隠しをされ手錠もかせられます。兵士が悪党な奴だとチェーンで引っ張り廻します。
「犬のクソのケツの穴のち○カス野郎のdoosh back(意味不明) ……etc」と耳元に口をつけて罵詈雑言を浴びせます。
そして脅し文句は「いつでもテイザー&ペッパーをお見舞いしてやるぞ」です。
ここで何が起きているか、何を言われているか誰が知るでしょう。わたしたちは5メートルもある高い塀に囲われています。外に出るには護衛が守る橋があります。誰も逃れることができません。ここでは黄色い囚人服を着せられました。このいまいましい世界がわたしの生きる現実になったのです。


*仮訳中です
*管理人の解釈ですが起訴になるか不起訴になるかの手続きまで45日かかる、ということなのではと思います。
*ワリードは日本のメディアがワリードの逮捕を知って何らかのアクションをするものと期待していたはずです。ワリードのアシスタント役のイラク人が、ワリードが約束の日になっても現れないために家族に連絡をとり、事情を把握し日本のメディアに知らせています。
日本はアメリカの友好国です。自分はそこらのイラク人とは違うと考えていたかもしれません。その期待ははずれて刑務所を転々としてさらに2年を過ごすのでした。

手記49:劣悪な雑居房

空港(クロッパー)刑務所では雑居房に入れられました。コンクリートの打ちっ放しでドアは頑丈な鉄製でした。広さは8×7メートル。さまざまな国籍の男たちであふれていました。エジプト、イエメン、サウジアラビア、シリア、イラン、アフガニスタン、nibal(意味不明)、インドなど、、。
考えられないほどのすし詰めでした。最も人数が増えたときには一部屋に80人にもなったのです。1メートル四方に1.5人の計算になるでしょうか。横になって眠ることなど出来ません。みなで考えて眠るひと以外は立ってスペースを作り交代で眠ることにしました。。
年をとった者は長く休めるように配慮されました。
よく停電がありました。ファンが止まると多すぎる人で息が苦しくなりました。
何度も逮捕されたというひとは珍しくありませんでした。米軍は手当たり次第逮捕していたのでしょう。逮捕の理由はばらばらでそれぞれ皆にストーリーがありました。
食事はパンにバターとジャムでした。たまにバターとオレンジでした。イラク人には受け入れがたいものです。わたしたちは空腹を抱えていました。
(ワリードと連絡が取れないので仮訳です)

2011年2月25日金曜日

手記48:電気ショック銃 taser and pepper

広場で2時間立たされました。ひとりの老人が疲れ果てて不満を口走りました。その時テイザーの意味を知ることになりました。テイザーはスタンガンの一種で引き金を引くとワイヤ付きの針が飛び出して電撃を浴びせます。それをくらわされた老人は悶絶して床でのたうちまわりました。老人の孫が助け起こそうとしました。ペッパーの意味がわかりました。兵士はまだ子どものような若者の目に向けてスプレーを発射したのです。その場の全員は彼らを助けることができず凍りつきました。
後になり話をできる兵士から教えられました。ペッパーとは唐辛子成分の催涙スプレーのことでした。
テイザー&ペッパーで基地から手荒く歓迎されました。可哀想な老人と孫は見せしめだったのでしょう。
すっかり従順になったわたしたちは順番に網膜と指紋を撮影登録されました。続いて最初の取り調べが始まりました。今までにない変わった質問がありました。
「自殺したいと思うか?」
あわれな男たちがイエスと答えました。そう答えれば同情され丁寧に扱われ、釈放も早まるだろうと考えたのです。
現実にはそう答えた連中は自殺防止のために裸にされ独房に放り込まれたのでした。

手記47:空港刑務所へ

翌朝になりました。わたしの番号が呼ばれ外に連れ出されました。そこには兄と弟も来ていました。会話をすることは禁じられていました。わたしたちはハンビーに乗せられ10分ほど離れた広場に着きました。石ころだらけで座ることもできず2時間そこで待たされました。吹きつける砂とエンジン音が聞こえるとヘリコプターが見えてきました。
わたしたちを乗せるとヘリは飛び立ちました。解放されるのではなく別の基地に連れていかれということがはっきりしました。
その大型のヘリコプターはブラックホークでした。兵士らは「まっくろくろすけ」と呼んでいました。目隠しをされているのでどこを飛んだのかわからないまましばらくして着陸しました。そこで数人の囚人を乗せふたたび飛び立ちました。一時間ほどの飛行だったでしょうか次に到着したところはバグダッド空港と言われました。
当時バグダッド国際空港は米軍により要塞化されていました。エリア内にある刑務所、キャンプクロッパーにバスで移動しました。日産の新しいバスでした。
広場に集められ目隠しと手錠を外されました。広場には大勢の兵士がいました。壁に向かって床に座らされました。口を開くことは禁じられました。
「この刑務所で言うことを聞かないやつは痛い目にあうことになるぞ。テイザーとペッパーだ。よく覚えておけ」下士官らしき兵士が怒鳴りました。
わたしたちの誰もテイザーペッパーなるものを知りませんでした。

手記更新について

*ワリードが釈放されて丸一年になります。釈放直後の精神状態に比べればかなり良くなったように思っていましたが、この数日、よく眠れない。悪夢を見て目が覚める。といったPTSDのような状態です。
つい数日前家族に悪いことが起きたこともワリードの精神状態に影響しているでしょう。
手記についてあれこれ聞き取る状況ではありません。和訳にはしばらく時間がかかりそうです。ご了承ください。
管理人

2011年2月24日木曜日

手記46:釈放の期待

バグダッドのアンラーワン基地で10日ほど過ぎました。
気紛れな拷問でわたしの尊厳をズタボロにし show my gentiles(意味不明)
乱暴に扱われました。
真夜中、取調に呼ばれました。以前、女性の取調官から予備尋問を受け、釈放される可能性があること、10日ほど待っていればいいと言われていたのでこの日を待ち望んでたのです。
手錠をされ取調室に引っ張り出されました。トイレに行かせてくれるように頼みましたが女性兵士は断りました。とにかく取調室の冷たいイスに腰掛けました。数分後取調官が入ってきました。彼女は質問を開始しましたがわたしは拒否しました。「トイレに行かせてくれ」
彼女は警備の兵士にトイレを許可しました。
「よい話しはありません」女性取調官が切り出しました。
「たぶんあなたは無実でしょう。わたしはそう信じます。できそうなことは全てやったのですが釈放はできません。上からの命令が来てしまいました。明日別の基地に送られることが決定しました」
「いったいどこの基地ですか」わたしは尋ねました。
「それは教えられません。あなたはイラクの裁判所に送られ罪が決まるでしょう」
「今のイラクを牛耳っているのは誰なのか知っているでしょう?」
宗派の対立でスンニは追い詰められています。シーア派からジャッジを受ければ私の運命は最悪なものになります。
「ごめんなさい。わたしには何もできることがないのです」彼女は言いました。
わたしは別の倉庫のようなテントに連れて行かれ逮捕された時に着ていた寝間着を出してきました。「おめでとう。これを受け取れば明日の朝には釈放だよ」と倉庫の兵士は言いました。
わたしはど派手な囚人服を脱ぐと汚れてみすぼらしいけれど私服である寝間着に着替え独房に戻されました。
向かいの独房の男と話しをしました。会話は禁じられていたのでこっそりと身振り手振りでです。彼はわたしが私服を着ているの見て、それは明日の釈放が決まったという意味だと喜んでくれました。ウムランという彼はわたしの村から遠くないところの出身でした。彼は自分の家族の電話番号を教えてきました。自分の無事を伝えてほしいと言うのでした。彼の娘の名前はマリアム。愛していると伝えてほしいと言いながら涙を流したのです。
わたしは混乱しました。別の刑務所に移されるという取調官、倉庫係の兵士、どちらの言葉が正しいのでしょうか。

2011年2月22日火曜日

手記**:家族との面会

原稿はあるのですがワリードと連絡がとれず訳文を完成できません。もう一週間になります。ログオンがありません。バグダッドの治安が悪く会社に来ないのかもしれません。

2011年2月19日土曜日

ニブラス

あともう少しで死ぬところだったニブラス
ニブラスがどんだけかわいいか
ワリードが送ってきたので

手記45:死にかけた娘ニブラス

生活にせい一杯でいつニブラスが病気になったのか誰も気がつきませんでした。高熱を出して痩せてしまいました。何も食べられなくなり意識がもうろうとなりました。
3才の女の子に死のサインが見えていても医者に診せるお金がありません。
妻は毎夜泣き続けました。ニブラスはそのうちトイレにも立てなくなり横になるともう起き上がれなくなりました。呼吸が早くなりました。
停電でエアコンが動きません。気温は50度に達します。農村なのでハエや蚊も飛び回っています。眠れるのは夜涼しくなってからで健康なひとでも体力を奪われます。
ニブラスの病気は水疱瘡でした。ふつうの医療体制なら死ぬような病気ではないでしょう。しかしイラクです。
わたしが10年以上日本のNGOと何十万本の注射器、何トンもの粉ミルク、高額な抗がん剤抗生剤を病院に運び込もうとも水ぼうそうの我が子を救えません。
偶然妻の姉の夫が家に来ました。それまで米軍に捕まっていて解放されたのでひさしぶりに会いに来たのです。
彼が見つけたときニブラスはもうほとんど死にかけていたといいます。彼がニブラスを病院に運んでくれました。彼がニブラスを救ってくれました。
わたしは子どもたちみなを愛しています。どう言っていいかわかりませんがこの子ニブラスはわたしの心の特別なところにいるのです。

2011年2月18日金曜日

手記44:家族の苦難

妻は子どもたちを連れて家にに引き返しました。息子に朝食を買ってこさせました。戸棚には朝食を買えるだけの少額なお金しかありませんでした。昨夜は暗くてわかりませんでした。家中の金目のものすべて無くなっていました。現金も妻の金の結婚指輪とネックレスも奪われました。
それだけではありません。食糧配給の登録カードと子どもたちの身分証明書(ID)までなくなっていたのです。それらは日常生活に絶対に必要なものでした。配給カードがなければ食糧を受け取れません。IDが無ければ学校に入れません。
妻と面会できるようになったのは逮捕から半年後でした。わたしは米軍に抗議交渉しました。米軍の責任者の女性の大佐は配給カードがイラク人の命綱であることを知らなかったと驚いたのでした。米軍がIDカードを家族に返すまで一年三ヶ月もかかりそれ間は配給を受けられなかったのです。

イラクでは黒い服は喪を意味します。妻は父親を亡くした後だったのですでに喪服を着ていました。夫を亡くしてもあらためて買う必要はありませんでした。
妻は言います。人生でいちばんたいへんだったのは夫がおらず5人の子どもを腕に抱えたときだった、と。
農場では小麦を植えていました。食用と飼料用でしたが米軍の車両が畑を踏み荒らしてしまいすっかりダメになりました。
アウースとハムーディは遠くまで牛の餌の草を求めて歩きました。
年長のアウスは家族を支える大人の役割になりました。ミルクと自分で育てたオクラを売り歩きました。村に来てからでもそんなことをしたことがありません。彼にとってつらいことだったようです。
アウースは4月からの進級が出来ませんでした。試験よりも生活が優先でした。ナウースはIDが無いためその年の小学校入学が認められず翌年に遅れました。
家族のため生き残るためにみながもがき、すこしづつ這い上がっていきました。
妻はそれまで表に出る仕事の経験もなく若くして結婚し家で子育てをしていました。子どもたちも都会で不自由なく育っていました。妻と子どもたちの話を聞いてわたしが知らなかった妻の強さと子どもたちの成長を知りました。

手記43:嘆きの朝

引き続き妻から聞いたことです。
子どもたちは深夜に見慣れぬ外国の兵に起こされたショックから泣き続け、父親はどこかとまた泣いたのです。
実家から妹が来て兄ヤヒヤ、弟アリ、そして妻の14才の弟も連れ去られたことを皆に告げて一緒に泣いたそうです。
2月下旬はまだ冬の寒さでした。ドアと窓が壊された家で寒さをしのぐために妻はなんとか応急処置をしなければいけませんでした。妻は一部屋だけ片付けると薪を燃やし子どもたちを暖かくして眠れるようにしたのです。ただニブラスだけがパニックが治まらず10分おきに目を覚まし大声で叫ぶのでした。
ニブラスは3才で言葉を覚え始めたころで可愛い盛りでした。今この原稿を書いていて隣にニブラスがいます。「毎日部屋に閉じこもってひとりで泣いてお父さんの帰ってくるのを待っていたの」とニブラスは言ってくれます。

わたしたち家族はすでに十分痛めつけられていました。宗派戦争でバグダッドから逃れて来てそれほどの時間はたっていません。弟はミリシアに殺され、妻の父親も誘拐後殺されました。わたしの両親も続けて死んだばかりです。そんな中で、ついにわたしまで行方不明となれば妻と子どもたちはわたしが殺されたのか逮捕されたのか、とにかく良い想像では出来なかったでしょう。
翌日、日が昇ると同時に妹と妻、子どもたちは農場と周辺を歩き回りました。子どもたちは学校に行かず米軍が何か手がかりを残していっていないか探したのです。ほとんど希望の持てない嘆きの朝でした。
米軍は何も言わずにわたしたちを連れ去っています。こうした米軍に襲われた場合恐ろしい話ですが連れ去られた男たちは翌朝たいてい近くで死体で見つかっているのです。
農場とその周辺には血の池など殺害を示すものはありませんでした。妻は子どもたちに希望を話して聞かせました。お父さんは生きていると。

2011年2月17日木曜日

手記42:兵隊が家に来た!

手記28に書きましたが家族の誰もわたしが逮捕連行されたことを知りませんでした。わたしが家を出た時みな眠っていたからです。
わたしも逮捕の直前家の方から銃声が聞こえたことしかわかりませんでした。その時家族になにが起きたのでしょうか。

5人の子どもがいます。
アウース 男 9才 小学5年生
ハムーディ 男 7才 小学2年
ナウラス 女 5才
ニブラス 女 3才
ゼナ 女 生後85日
(当時)

妻は真夜中突然ドアを叩く音で眠りから覚めました。玄関のほかに二つのドアがあったのでいったい家のどこのドアが叩かれたのかわかりませんでした。ドアは金属製で大きく響きそれだけでパニックになりました。
英語の叫ぶ声が聞こえたのでアメリカーがだろうということがわかりました。ドアを開けるしかありません。ドアを開けようとしたところいきなりドアの向こうから発砲されました。3発の銃弾がドアを打ち抜き破片が妻の手を傷つけました。殺されなかったのは幸運でした。金属片とガラスが部屋に飛び散りました。子どもたちは隣の部屋で眠っていました。
(わたしはこのようにドアを銃で撃ってその破片で失明した兵士を知っています)
妻は部屋の隅に逃れました。10人以上のアメリカーが押し入って来て身動きがとれなくなりました。その時のことを妻は言いました。「なぜ子どもたちを置いたままにしたのだろう!子どもたちを守ることが出来ないのに!」

兵士たちは家中をひととおり捜査し終えてようやく妻は子ども部屋に入ることができました。涙を流していた妻に「怖くないよママ、何も悪いことは起きないよママ」とニブラスは言うのでした。それは妻がいつも子どもたちに言っている言葉でした。その頃村では銃声や爆発音がしてそれに脅えて子どもたちが泣くと妻がそうしてなだめていたのでした。

生後85日の赤ん坊は無事でした。停電で真っ暗な部屋で兵士たちに踏みつぶされずにすみました。
たまたま泊まりに来ていた妻の弟(14才)は連れ去られました。その時一族にいた男はみな連れ去られたのです。
長男のアウースは兵士のリーダーに外に連れ出され聞かれました。「お前の父親はどこにいる?」アウースはわからないと答えました。兵士は彼に何か言ってつきとばしたそうです。アウースが覚えている言葉は「fuck you」でした。
兵士たちは家中を捜索し、バッグを見つけるとわたしの書類や写真、CDなどを詰め込みました。そのバッグはわたしが日本に来たとき、アウースの通学用に買ったものでした。
アウースは取り返そうと抗議しましたがまたも兵士に押しのけられたのでした。
兵士らは一時間ほど家にいて家具などを手当たり次第に壊しました。その間家族は外に出ることができず事態を伝えることができませんでした。

*アウースも大きくなりました。平和市民連絡会がバグダッドでアウースの幼稚園を訪問しカチャーシーを踊ってからもう8年です。 アウースはまだ「いやささ!」を覚えています。

2011年1月20日木曜日

手記41:尋問

拘置所に入れられると自由だけでなく名前も失います。番号を言い渡されこれからは自分の名前を忘れてしまうよう告げられるのです。
アンラーワン基地での3日目の夜、突然番号が呼ばれました。数字がわたしの新しい名前です。尋問は唐突にしかも夜に始まるのです。その日も寒い夜でした。名前を呼んだのは女性の兵士で冷たく光るステンレスの手錠と足かせを持っていました。女性兵に手かせ足かせをされチェーンに繋がれ取調室に引っ張られました。チェーンのたてる大きな音がして耳障りでした。通路を歩くとあちこちの蜂の巣部屋の収容者から声がかかりました。「しっかりしろ!」「あきらめるな!」「神がそばについてるぞ」そして大合唱となりわたしを励ましました。
「アッラーアクバル!アッラーアクバル!アッラーアクバル!アッラーアクバル!」
勇気を得て怖そうな女性兵士に頼みました。
トイレに行かせてくれ。
腹具合が悪く歩くのも大変でした。しかし答えはNOでした。
取調室に入るとイスが三つありまもなく通訳を連れた取調官が入ってきました。その二人もまた女性でした。わたしは苦痛のあまりしゃべることもできません。なんとかトイレに行けるように頼み今度は許可されました。せきほどの女性兵は不機嫌な顔つきです。トイレには見張についてきます。股間のイチモツは暗くて見られなかったはずでそれがせめてもの慰めでした。
わたしはようやく人心地ついて頭が働くようになりました。取り調べは再開されましたが質問はいつものどうしようもないものでした。

手記40:孤独と家族への思い

拘置所の奥の独房にいると耐え難い孤独を感じます。まるで世界から切り離されたようでした。夜は所内のあちこちからすすり泣く声が聞こえてきたものです。
なぜわたしはここにいるのでしょう。なぜアメリカの(頭文字Fな)兵隊らは容赦ない仕打ちをするのでしょう。
わたしは肉体的にはひとりぼっちでしたが胸の中は家族への思いがあふれつづけていました。三ヶ月前に生まれたばかりの赤ん坊はどうしているか、誰か殺されていなか、誰が生き残ったろうか。家族と過ごした時の鮮やかな思い出のフィルムが頭の中で回りいつまでも止まりませんでした。
わたしと同じように妻や子どもたちはどれほど心配しているでしょう。逮捕された夜わたしは家族に何も告げずに家を出て来ました。わたしが妹の電話を受けたとき家族はすでに寝入っていたからです。
妻と子どもが銃声で目を覚ましたときわたしは家におらず、「お父さんは殺されてしまった!」とみなが信じ込んだそうです。
夜が明けると妻と年長の子どもたちは農場を歩き回りわたしの死体を探し、血痕を探しました。米軍が来てそこに血溜まりが残されればそれは誰か殺されたのだと子どもでも知っています。そして家族らはわたしが拉致されたと判断したのです。
家族と面会が許されこの話を聞けるようになるにはこのあとまだ半年かかるのでした。

手記39:健康診断

困惑の最たるものは健康診断でした。検査には着衣を脱ぐことになります。これがアラブ人にはたいへん落ち着かない不愉快な気分になるのです。米軍は手を抜いてアラビア語通訳を用意しません。価値観(羞恥心の感覚)、コミュニケーションの欠如がときに悲劇を引き起こします。
若いアメリカ兵のスラング混じりのアクセントはわたしにも聞き取れないことがありました。何を要求しているのか一般的なイラク人には全く通じなかったでしょう。
中年の男性がいました。服を脱ぐように言われましたが彼には意味がわかりません。それどころか数人がかりでレイプされると思ってしまったのでした。アブグレイブ刑務所での虐待事件はイラク人の記憶に焼きついています。おじさんはパニックになり「犯られてたまるか!」と叫びながら激しく抵抗しますが兵士らは何を言っているのかわからず二人が力ずくで裸にしてしまいました。そこに現れたドクターはおじさんの抵抗を痔の疾患と解釈し彼をひざまずかせました。
おじさんは守りたかったところを無駄にグリグリされやはり尊厳を失いました。

2011年1月16日日曜日

手記38:SHAKEDOWN

一日に5、6回看守がやってきて「SAKEDOWN」と怒鳴ります。房内検査です。わたしは壁に向かって立ち上がり両腕はまっすぐに伸ばし、足は大きく肩幅に広げなければいけません。看守のひとりが房内を調べもうひとりは入り口で銃を構え逃亡や反抗に備えています。看守は全てを調べるのですがもとからたいしたものを所持していません。看守は泥だらけのブーツで毛布を踏んづけ、コーランを蹴飛ばしていきます。
支給された寝具はひどいものでした。毛布はよく言って犬小屋の犬なら使う程度でしょう。
枕はなかったためプラスチックのサンダルを枕にしていました。たった1センチの高さしかありません。これが新しいアメリカ民主主義が与えてくれたものでした。

米軍は1万回も繰り返し尋問しました。「なぜ英語を話すのか?」「なぜ日本のマスコミの書類を大量に持っているのか?」「なぜ結婚しているのか?」「なぜ子どもがいるのか?」「映画ヒバクシャはなんだ?いつ撮影された?」「タカシとは誰だ?」「キャシーとは誰だ?」「誰だっ?誰だ?誰だ?誰だっ・・・・?」
バカバカしい尋問でした。尻の穴の毛の本数さえ数えました。
取調官は何度も入れ替わり、なかには女性もいました。
精神が打ちのめされ一日が暮れていきます。

手記37:刑務所暮らし

当然ながらすべてが激変しました。広々とした生活は巣箱に押し込められました。幼児のように扱われ何をするにも許可がいります。米兵は気紛れで時に許可され時に拒否されます。
そのうえで米軍はわれわれに民主主義と自由を与えにきたと信じろと言うのです。

基地に着くとシャワー室に連れて行かれました。その前の三日間シャワーもトイレでの水も使えませんでした。わずか2分間のシャワーが許されただけでしたがこれまでの苦しみと疲れを癒す休憩になりました。不潔な生活が再スタートです。。
看守役の兵士は2、30分おきの見回りのたびに部屋のドアを力まかせに蹴飛ばしていきました。寝かさず休ませないためでしょう。それでも以前の基地よりは暖かいぶんだけましでした。夜間は二回トイレに行くことができました。しかしトイレにドアはなく常に見張られていました。時に女性兵士が看守でした。許される時間はわずか30秒。たいへんな屈辱でした。
わたしたちは起訴されたわけでもなくまして判決もなく、身分としては被疑者であって勾留場という名前の施設にいるのでしたが実質監獄であり囚人でした。

2011年1月15日土曜日

手記36:囚人として

アンラーワン基地の広い敷地の奥に拘留施設がありました。高い塀に囲まれていました。
頑丈なドアが背後で閉じるとわたしは囚人になったのでした。
囚人らはほとんどがバグダッド南部の出身者でした。
集められたわたしたちの前に刑務所の責任者が現れ警告をしました。
「この建物は隔離されておりいままで誰も脱走したことはない。番犬の代わりのオオカミが生きた兵器として脱走者をかみ殺すことになっている」
金属製の手錠に変えられました。支給された囚人服は派手な赤地にオレンジ色でした。
部屋は一人用で高さ幅、奥行きともに190センチの真四角で天井は金網です。そのため米兵は蜂の巣と呼んでいました。
基地に着くとシャワー室に連れて行かれました。その前の三日間シャワーもトイレでの水も使えなかったので大いに期待しましたがわずか2分間のシャワーが許されただけでした。それでもこれまでの苦しみと疲れを癒す休憩になりました。しかし新たな苦しみの始まりでもありました。

手記35:バグダッドの基地へ移送

アリの犠牲にも関わらずわたしとヤヒヤは解放されません。それどころかバグダッドの別の基地に移動すると言ってきました。約束が違うではないかと言っても聞き入れません。それどころか凶悪犯としてキューバのあの悪名高きグァンタナモ刑務所に移すとまで言われたのです。
夕暮れを待ってわたしたちはバグダッド北東のアンラーワン基地に移送されました。核施設基地には三日間の拘留でした。あっという間の転落でどこまで落ちていくのでしょう。

アンラーワン基地はサダム時代は陸軍の新兵訓練施設でした。わたしは16才のとき体験兵士としてここに来たことを思い出しました。今基地には星条旗がはためき、わたしは囚人です。

2011年1月14日金曜日

手記34:弟の決断

武器と家族の女性らの写真は米軍が撮影したものに違いありません。わたしたち罪を被せるためにです。
わずか10分で結論など出せません。
弟アリが志願しました。
わずか10分のことでもこの時のわれわれ兄弟の心情を語るのは苦しいです。
アリは家族の女性と子どもたちを守るために自分の役割を果たすのだと言ったのでした。
アリはまだ17才でした。兄を殺され両親を一度に失ったばかりでした。
翌年10年の判決を受けることになります。