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2010年9月10日金曜日

手記20:村で生きる

父の死後すぐに現実の問題に直面しました。
わたしが国外などに出かけ長い留守をする時は父が家族の面倒を見てくれていました。厳格な父でしたが子どもたちはたいへんなついていました。とくに次男は父の死を深く悲しみ、涙とともに眠りにつき朝、目を覚ましては喪失の寂しさに声をあげるのでした。
母の糖尿病は重くなるばかりでした。妻と幼児を含む四人の子どもの面倒をまかせて長期の留守をすることなどできませんでした。
胸にはぽっかりと穴があいています。あらためて父の存在の大きさを痛感しました。

わたしは国外脱出の計画をあきらめました。たとえば移民のために国外で準備に一年も費やせばそれはその間に家族の誰かを失うということでした。家族のそばで現実と運命に向き合うことになりました。
すでに自衛隊はイラクから撤退し日本テレビはサマワの拠点を閉鎖しました。同僚をひとり失いました。イラクにはメディアの関心をひくものはなくなったようです。仮にあったとしてもロイターなどの大手通信社からの配信記事でもう間に合うのでしょう。数年におよんだジャーナリズムの仕事はなくなりました。

村で一ヶ月が過ぎても仕事が見つかりません。唯一の仕事は英語を活かして米軍の通訳になることでした。それだけはなんとしても避けたい仕事でした。この村ではあっという間に目をつけられ処刑されるでしょう。

1 件のコメント:

  1. 村に閉じ込められたワリードはネットも出来なくなりました。町にでかけてネットカフェでメールをするのも目立つことになり危険でした。なので連絡を欲しいとも言えず、彼のこのような心情を知ることもなく月に一度か二度ただ安否を確認する程度でした。

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