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2010年9月9日木曜日

手記14:拉致殺害された弟

約二ヶ月日本に滞在し7月6日にバグダッド空港に到着しました。サマワでの仕事が待っており急ぎの旅でした。
空港に迎えに来てくれた兄は浮かぬ顔していました。留守のあいだに何かあったのでしょうか。
兄は家族を預けた村への途中に重い口を開きました。弟が一昨日前モスクに礼拝に行ったきり行方不明になっていたのです。今、父親と親戚が病院を回り担ぎ込まれているのではないかと探しているのだそうです。
そして当時のイラクでは当たり前になっていることでしたがモルグ(死体置き場)にも行かなければなりませんでした。発見される可能性がもっとも高かったのです。
まもなく家族に会えるであろうという喜びも吹っ飛びました。村まであと数キロというところで兄は電話を受けました。見る間に暗い表情になりました。電話を切ると涙を流しました。
弟はモルグで見つかりました。変わり果てた姿で路上に投げすてられていたそうです。弟はまだ32才でした。
シーア派ミリシア(宗教私兵集団)支配地域ではスンニの家族がモルグに立入ることは非常に危険でしたが警察官の親戚らと武器を持って押し通ったそうです。


わたしたち一族には最悪の日でした。
家で待機していた母たちは家族の一員を掠われ一様に悲しげでした。しかし殺されたことはまだ知らないのでした。ひさしぶりの再会で喜ぶべき場に悲しみを伝える使者になってしまいました。

バグダッドで長く続けられていた一族の生活は激変していました。そしてバグダッドから家族の半分が郊外の一族の出身地の村に移ったところでした。一部の家族は治安の急激な悪化で町に閉じ込められ、母は糖尿と高血圧の治療・通院のためにも残っていました。

その日は弟の亡骸を受け取ることはできませんでした。翌日埋葬のために引き取ることになりましたが週末にあたる木曜日でモルグは半日しか開かず、遺体の引き渡しは出来ないと言ってきました。わたしたちは翌々日の土曜まで待たざるをえませんでした。死者への尊厳などありませんでした。生きている人間にさえ価値がありませんでした。
わたしたちはイスラム教徒です。いまはただイスラム教徒を装っているだけです。社会は正気をなくしています。まったくもってイスラム教では許されないことばかりです。

1 件のコメント:

  1. イスラム教では死後24時間以内に埋葬されなければアッラーのもとにいけないとされています。

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