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2010年9月3日金曜日

手記3:NGOとの協力

軍役の後貿易省に職が決まりエンジニアとして働きました。湾岸戦争が終わって数年たっていてもイラクの経済は疲弊したままで、インフレと物価高で公務員の月収10ドルではとても生活ができませんでした。そのころは医者や学校の先生でさえ月給だけでは生活ができず勤務後にタクシーの運転手などして生活を補うのがあたりまえでした。
月収10ドルでは輸入品のクスリからクルマの部品ひとつさえ買えません。わたしはやむなくタクシーのドライバーになりました。外国のNGOとの仕事をメインにするにはまだ不安定でした。
病院への定期的な訪問と支援で主に子どもたちの病気の増加など変化が目に付いたのが90年代なかばでした。劣化ウランという言葉を聞くようになりました。
イラク保健省、赤新月社との交渉などをとおしてアメリカやヨーロッパのNGOとも仕事をするようになりました。
湾岸戦争と前後して始まった経済制裁によるイラク人の苦しみはわたしも味わっていましたが、会の活動で訪問した小児病院での医薬品不足による悲惨な様子はイラク人であっても、身内に子どもや障害者がいなければ知る機会がなくわたしにとっても驚きでした。
劣化ウランによる被害は当初はサダム・フセインのプロパガンダと決めつけられ、なかなか認知されませんでした。
日本の支援NGOのイラクでの活動は1〜2年間ですでに去っておりその後も定期的に活動していたのは「アラブの子どもとなかよくする会」ぐらいだったはずです。
1997年イラク政権の方針が変わり海外NGOのイラクでの活動が制限されるようになりました。バグダッドがアメリカの制裁による空襲を受けた年でもあります。NGOはイラクでの活動をあきらめさらに撤退していきました。
諸説ありますが1990年の国連(アメリカ主導)の経済制裁によるイラク人の死者は120から170万人に及ぶと言われます。その大半は乳幼児でした。

日本では劣化ウランや経済制裁によるイラクの困難が知られるようになり、一部のジャーナリストがイラクに目を向けるようになり支援活動と並行して通訳・ガイドの仕事を引き受けるようになりました。イラク戦争が近づいて来ました。

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