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2010年9月11日土曜日

手記21:次々と失われる家族

村には定期的に米軍が来ました。彼らはわたしに通訳として働かないかと勧誘してきましたが毎回のように断りました。米軍と働くなど敵を作るようなもので家族を危険にさらしたくなかったからです。同じころわが家の財政は危険水準になってきました。
わたしは米軍の通訳になって評価を落とすより農民になることに決めました。治安が回復するまでなんとか生き延びねばなりません。
GMC(アメリカ製大型SUV)を売り払い古い20年落ちのトラクタを購入しました。近所の畑を請負で耕し日銭を稼ぐ目論見でした。

そのころ妹の夫が拉致殺害されました。警察官だったためです。もうひとりの妹の夫はアメリカ軍の間違いで背中を撃たれ障害者になりました。3人の子どもがいます。
数週間後妻の父親が誘拐されました。二度目の誘拐で今度は生きて帰れませんでした。日ごと悪いことばかりが続きました。
わたしの母は息子(四男)を奪われ、夫まで亡くし後を追うように40日後に亡くなりました。

わたしの肩には一族の生活がかかってきました。
三人の妹(一人は未亡人、一人は夫が拘留中、一人は夫が障害者)とそれぞれの子どもたち、私の妻と四人の子ども、そして妻の実家の家族ら(妻の父が殺害された後わたしたちの村に移ってきました)でした。家族は18人に達しました。わたしはあっという間に貧しくなりました。これからどうやって大家族を食わせていけばよいのでしょう。先行きは見えないまま日々を生きぬいていけるのか。
国外移住などもう完全に無理です。その可能性さえなくなりました。
期待した農業は生活の基盤にはなりませんでした。失敗の連続で都会育ちのド素人ではやるだけ無駄なことでした。

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