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2011年2月18日金曜日

手記44:家族の苦難

妻は子どもたちを連れて家にに引き返しました。息子に朝食を買ってこさせました。戸棚には朝食を買えるだけの少額なお金しかありませんでした。昨夜は暗くてわかりませんでした。家中の金目のものすべて無くなっていました。現金も妻の金の結婚指輪とネックレスも奪われました。
それだけではありません。食糧配給の登録カードと子どもたちの身分証明書(ID)までなくなっていたのです。それらは日常生活に絶対に必要なものでした。配給カードがなければ食糧を受け取れません。IDが無ければ学校に入れません。
妻と面会できるようになったのは逮捕から半年後でした。わたしは米軍に抗議交渉しました。米軍の責任者の女性の大佐は配給カードがイラク人の命綱であることを知らなかったと驚いたのでした。米軍がIDカードを家族に返すまで一年三ヶ月もかかりそれ間は配給を受けられなかったのです。

イラクでは黒い服は喪を意味します。妻は父親を亡くした後だったのですでに喪服を着ていました。夫を亡くしてもあらためて買う必要はありませんでした。
妻は言います。人生でいちばんたいへんだったのは夫がおらず5人の子どもを腕に抱えたときだった、と。
農場では小麦を植えていました。食用と飼料用でしたが米軍の車両が畑を踏み荒らしてしまいすっかりダメになりました。
アウースとハムーディは遠くまで牛の餌の草を求めて歩きました。
年長のアウスは家族を支える大人の役割になりました。ミルクと自分で育てたオクラを売り歩きました。村に来てからでもそんなことをしたことがありません。彼にとってつらいことだったようです。
アウースは4月からの進級が出来ませんでした。試験よりも生活が優先でした。ナウースはIDが無いためその年の小学校入学が認められず翌年に遅れました。
家族のため生き残るためにみながもがき、すこしづつ這い上がっていきました。
妻はそれまで表に出る仕事の経験もなく若くして結婚し家で子育てをしていました。子どもたちも都会で不自由なく育っていました。妻と子どもたちの話を聞いてわたしが知らなかった妻の強さと子どもたちの成長を知りました。

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