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2011年2月6日日曜日

メモ:タラルが遭遇した邦人拉致事件

タラルが送ってきたメールです。2004年4月14日
この次に来たメールには見かけたら殺すと脅されたと書いてありました。
today big disaster happened Mr. watanabe and Mr. yasuda janbe were kidnapped in front of my eye ,2.pm, I almost dieing confused what to do .
I try to tell them its dangerous to go Abo-Krib but they insist to go they and the taxi driver and my disaided to return with them but they sad just ask them some

行方不明者を探すには

ワリードもタラルを知っています。しかしタラルの家族や彼のイラク人の友人を知っているほどの関係ではありません。
「誰か友人を知らないのか?」と聞かれました。
バスラでタラルの従兄弟を紹介されたことがあります。サウス・オイルカンパニーに勤めていました。翌年行方不明になったと聞きました。
バグダッドではおじさんの家に連れて行かれました。ジェントルマンなおじさんは警察官(IFP)でしたが後に殺害されました。
イラクではタラルだけの災難ではありません。
タラルは単に面倒で連絡しないのかもしれません。後で笑い話なり管理人の大恥なら大いにけっこうです。しかし心配になるのは過剰な反応ではないと思います。彼はかくまわれていた友人宅に爆弾を仕掛けられたことさえあります(2006年。ターゲットはタラルではなく友人だったかもしれません)。

2011年2月5日土曜日

行方不明者の家族

戦後のイラクで犠牲者を出さなかった家族は少ないでしょう。宗派の対立によるものや金品目的の強殺など戦前には考えられなかった理由で多くのひとが殺されました。
ある日突然家族の誰かが帰ってきません。犯行声明か身代金の要求があれば行方不明の理由がわかります。遺体が見つかることもあるでしょう。モルグで家族を探し出したひともいます。しかし突然姿を消したきりいつまでも帰ってこないこともあります。家族はどうしたらいいのでしょう。いつまで無事を信じて待つのでしょうか。
交通事故かもしれません病死かもしれません。しかし身分証明書の携行が義務のイラクで身元の所持品なしの不明死体というのも考えにくいでしょう。
ある日本人の母親は帰らぬ息子をひとりバグダッドで6年間待ち続けています。特別な息子だから秘密の刑務所に入れられているのだと生存に希望を持っています。

2011年2月4日金曜日

タラルとワリード

タラルはワリードを知っています。日本人らが常宿としているホテルにさっそうと現れるワリードを見て、「いつかあんな風になってみたいものだ」と話していました。今は無念赤貧のワリードです。
当時のワリードは大手テレビからフリーランスのカメラマンにまで引く手あまたの忙しさで猛烈に稼いでいました。それに見合うだけの下積みの苦労がありました。
タラルはまだ見習い中のようなもので格段にギャラの安いNGOのお手伝いとか戦争見物に来た学生のガイドとかいう感じでした。
翌年日本人誘拐に巻き込まれることになります。

タラルのケータイ

タラルは数年前までかなり危ない状況でした。バスラ出身のタラルはシーア派ですが同じくシーアのサドル派マフディ軍から処刑宣告を受け逃げ回っていました。
その頃のタラルはケータイも持たず居候暮らしでメールでの連絡も不定期でした。
昨夜タラルのケータイに繋がりました。Out of service というメッセージが聞こえました。解約という意味でしょうか。ブロードバンド回線を解約することがあってもケータイを止めるとは考えられません。

2011年2月3日木曜日

タラル朝日新聞記事

タラルの近況がわからないものかとわずかな期待で検索してみました。古い2004年の記事があったので貼り付けます。

(2004/18 19:17)
http://www2.asahi.com/special/jieitai/houjin/TKY200404180148.html

2邦人拘束をメールしたイラク人通訳、朗報に喜び語る
「3日間、食べ物がのどを通らなかった」——事件発生時に通訳として2人とともにいたイラク人通訳タラル・アブドルリダさん(28)は17日、朝日新聞記者にこの間の恐怖と、朗報への喜びを語った。
アブドルリダさんが事件後、日本のジャーナリストに電子メールを送り、2人の拘束が初めて明らかになった。
「武装グループから、何も話すなと命じられた。2人には『危ない』と言ったが、途中で引き留めなかったことを後悔した。話せば殺されると思ったが、知らせることが自分の責任だと思って、夢中でメールを送った」

引き続きタラル

タラルへのメールとスカイプに反応がないのでオールドファッションに戻って電話を掛けています。ところがバスラへの電話はめったに繋がりません。呼び出し音も聞こえません。たぶん着信以前の問題です。なもんでワリードに電話を掛けてもらっています。

バスラのタラル

タラルと連絡が取れません。タラルは2003年、日本の学生グループから招待されて来日し各地を講演で廻ったことがあります。彼にバスラを案内された平和・支援メンバーやジャーナリストも多くいると思います。タラルは時にシリアスでもだいたいアバウトなやつなのでこれまでも連絡が途絶えたことがありました。今回は限度を超えています。スカイプがまったくログオンされていません。電話も通じません。たんに個人的に愛想を尽かされていたということであればいいのですが。(管理人)

2011年1月31日月曜日

あの白血病の少女サファー


絵はがきや写真集で知られた白血病のサファーですがワリードに連絡がありました。病気はよくなり今は病院で看護師として働いています。写真の当時は10才くらいでしょうか?今はもう二十歳です。

2011年1月30日日曜日

襲撃された教会


さきほど話をしてたら受話器越しにサイレンの音が聞こえました。
「爆弾だ」とワリードが言いました。
ワリードの事務所がバグダッドのどこにあるのかそういえば知らなかったので聞いてみました。
カラダ地区でした。2ヶ月前にアルカイダ系グループに襲撃された教会が近いそうです。その教会には2003年5月沖縄の教会をワリードが案内しています。近くには日本人になじみのあるバグダディーヤとアンダルスパレスがあります。

覚醒委員会

手記を読んでの感想です。
米軍は当初ワリード逮捕の意図はなかった。たまたま銃声がしてパニックでワリードたちを逮捕してしまった。その後に絡んだ覚醒委員会が企みを起こしてワリードは罪を被ることになったように思います。ワリードが捕まれば彼の農場を手にできるという意図です。
覚醒委員会(評議会)とはどんな組織なのでしょう。
米軍が治安維持のために利用している民間組織で、米軍の支援を受けて(あるいは米軍を支援するために)シーアエリアではマフディ軍と戦いスンニエリアではアルカイダと戦っているとのことです。いずれも米軍にとっての利にかなっています(米軍がコントロールできる範囲であれば)。

2011年1月28日金曜日

ワリード職探し奮闘記

ワリードが釈放されてからもうじき1年です。戦後激しく変わっていくイラクで2年のブランクは大きいうえ精神にも肉体にもダメージを受けて娑婆に帰ってきたワリードにはきびしい職探しです。家族6人さらに一族のために休養の余裕もなく走り始めます。

2011年1月27日木曜日

食糧配給制

湾岸戦争から20年、イラク戦争から7年以上もたっているのにまだ配給制度が続いています。イラクでは最低以下の生活をするひとが700万人以上いるともいいます。
ワリードが刑務所にいた2年間、妻と5人の子どもはどうやって生きていただろうかと思っていました。生後3ヶ月の赤ちゃんがいて奥さんが働きに出られません。最低限の暮らしは配給食糧でなんとかなると思うしかありませんでした。
たまたまワリードの地域は昨日が配給日でした。明細を聞いてみました。
米、小麦粉、砂糖、豆、粉ミルク、石けん、洗濯石けんなどが配給されていました。昨年春から米、小麦粉、砂糖、油だけに減らされたそうです。今月は一人あたり米1キロ、食用油0.5リットルだけだったそうです。なお先月は配給がなかったそうです。
配給は貿易省(ministry of trade )の管轄で行われています。ワリードは横流しなどで市民に廻ってこないのだと言っています。

なぜワリードなのか?

なぜワリードのことばかりなのか?というご指摘を頂きました。
3年前ワリードが音信不通になりイラク関係のNGOに消息を聞いてまわりワリードへの支援も依頼しました。ワリードは支援関係者にも知られた男です。
その際にも言われたのは「公私混同になるため組織としては紹介できない」
他のNGOでは「子どもたちを救うための活動をしているためワリードには関われない」
などでした。
イラクのため動いておられる方にそれ以上の何かを頼みはしません。どうぞ子どもたちを救ってあげていただければと思います。
当方らワリードに関して個人として友人としてできることがあるはずだし、まずは出会ってしまったワリードを救いたいというスタンスをご理解いただきたいと思います。
(管理人ひろし)

メモ:拒否された医薬品

石油食糧交換プログラムが97年から始まりました。
しかしこのプログラムはイラク人のためではなかったようです。それまで産油国イラクの石油は原則輸出できませんでした。このプログラムにより部分的に解除されイラクは7年間で640億ドルという現金を手にします。人道支援物資として使われるという名目でしたがそれだけの巨額な金額ともなると腐敗はおきるもので国連幹部へのワイロ、そして結果的にフセイン一族に環流します。当時そんなことを知る由もなく上記情報は数年前に放送されたNHKのBSドキュメンタリーで知ったわけです。

15年前の記憶はあいまいですが配給は月に一回、公民館というか集会場のようなところで配られていました。小麦粉や米などの主食、塩、砂糖、食用油に石けんなどで肉・魚はなかったように思います。
ガソリンだけは戦前同様安くイラク人は死なない程度には生きていけるようになりました。
しかし医薬品は以前禁輸品に含まれイラクの患者には届かない状況でした。にも関わらずイラク保健省は97年、外国NGOからの医薬品の受け取りを禁止してしまうのです。
いまだにその理由がわかりません。
アメリカCIAが支援団体を偽装してイラク入りした。
期限切れの粉ミルクが大量に届いた。
HIVに感染した血液製剤がフランスから(誤って)届いた。
などとも聞いたことがあります。

メモ:救援活動で刑務所行き

管理人です。経済制裁が風化しつつあるようではあるしワリードの次の原稿が届くまでの場つなぎに書いてみます。

湾岸戦争後の経済制裁は主に乳児幼児を犠牲にする戦争に匹敵、それ以上にむごたらしいものでした。
反対のキャンペーンを張ったキャシー・ケリーと荒野の声でしたが1998年アメリカ政府から罰金刑が下りました。経済制裁という国策に反し医薬品や粉ミルクなどを不正に輸出したという罪で財務省から訴えられました。団体には16万3千ドルの罰金、個人には1万ドル。30日以内に支払え、そうしない場合は12年間の禁固刑

2011年1月26日水曜日

手記続き

現在管理人に届いたワリードの手記は全てアップしてあります。続きがいつ届くかわかりません。ワリードは現在の不安定な仕事からなんとか脱却したいとあがいています。その苦闘ぶりはイラクのひとつの状況を表しているかもしれません。

ワリードはバグダッドの基地内に収容されたあとバスラにある本格的な刑務所に移されます。目隠し後ろ手錠での数十時間の輸送だと聞いています。
この手記にはワリードの裁判費用を支援していただいた方々への報告という意味もあります。
弟アリはまだ釈放されていません。

2011年1月25日火曜日

メモ:イラク戦争と荒野の声

ワリードがキャシーについて手記に書いたので荒野の声のホームページを見てみました。すでに消えていました。2年前にキャシーらとワリード救出の電話会議をしたときにはまだ残っていました。残念です。
イラク戦争中の緊迫したリポートも読めなくなってしまいました。オリジナルドメインだったので経費がかかっていたのでしょうか。貴重な記録だったはずです。どこかにミラーサイトがあるといいのですが。

日本語で「荒野の声」と検索しても出てくるのはキリスト教に関連したものが多いです。
むろんキャシーはクリスチャンで団体名もキリスト教にちなんだものです。
キャシー・ケリーKathy Kellyは英文でならウィキペディアにページがあります。
当方が知っている範囲ですが荒野の声は複数の団体により構成されアメリカシカゴに本部を置き1996年から2003年まで活動しました。当初は医薬品や粉ミルクなど支援物資をイラクに送っていたように覚えています。経済制裁の不当性を訴えていました。2002年、アメリカがイラクを攻撃するという情勢になり、反戦を強く訴えるようになりました。その年の秋からイラクに常駐メンバーを置くようになりました。
2003年4月戦争終了後荒野の声は解散し構成団体はそれぞれ活動を始めました。
その年のノーベル平和賞にキャシーと荒野の声の活動がノミネートされました。キャシーは3度目の平和賞ノミネートでした。
荒野の声の有力な構成団体だったCPT(Christian Peace Maker Teams)は米軍による人権問題に取り組みアブグレイブ刑務所を告発しました。
CPTは戦後もイラクに留まり活動を続けましたが2005年11月イギリス人やカナダ人のメンバー4名が誘拐され、うち2名が殺害されました(正義の剣旅団が犯行声明)。
CPTは一時的に撤退しましたがまたイラクに戻りました。
キャシーは新しい団体Voices Creative non Violence を立ち上げ現在も活動中です。

2011年1月24日月曜日

最悪な年

いまワリードから電話があったので聞いてみました。湾岸戦争後の経済制裁中でもっとも悪かった年はいつか?
1994、95、96年かなと言ったあと、やはり96年だと答えました。
「食べるものがなかった!」
石油食糧交換プログラムは96年末に合意してその後生活は持ち直しました。しかし国連のその計画によって汚職が政府に、残念ながら国連にもはびこったということがあります。
参考映像
ワリードの息子が映像に出てくる学校に通っています。一教室に70人の児童だと嘆いていました。教室と先生が足りないそうです。

メモ:湾岸戦争と市民運動

18年前にワリードは日本の市民運動と出会い湾岸戦争の被害者救援活動を手伝うことになりました。
救援活動のきっかけは20年前の湾岸戦争(1991年1月17日ー3月3日)でした。当時クウェートに侵攻したイラクへの風当たりは相当強くおそらく一部の市民だけが立ち上がり行動を起こしたように見えました。それがPAN(ペルシャ湾のいのちを守る地球市民行動ネットワーク)というグループでした。
PANは湾岸戦争に反対し被災者を救援するという目的で91年1月30日に結成されました。影響を与えたのはGPT(ガルフピースチーム)、日本山妙法寺の寺沢上人らでした。ワリードの友人でもあるアメリカ人キャシー・ケリーはGPTのメンバーでもありその後はクリスチャン中心の平和団体「荒野の声voices in the wilderness」を設立しイラク戦争中も現地に留まりました。その活動が評価されキャシーと荒野の声はその年のノーベル平和賞にノミネートされました。キャシーは3度目の平和賞ノミネートでした。

2011年1月22日土曜日

ラーメン大ブーム

ワリードによると今、イラクでインスタントラーメンが大人気だそうです。子どもたちが大好きだと言っています。6個で1ドル以下(2,000ディナール)と安いです。
イラクで麺類を見た記憶はありませんでした。アンマンでも高級スーパーでなら見つかるかどうかって感じでしたが今やワリードの住む田舎でも買えるそうです。サウジアラビア産だそうです。

2011年1月20日木曜日

手記41:尋問

拘置所に入れられると自由だけでなく名前も失います。番号を言い渡されこれからは自分の名前を忘れてしまうよう告げられるのです。
アンラーワン基地での3日目の夜、突然番号が呼ばれました。数字がわたしの新しい名前です。尋問は唐突にしかも夜に始まるのです。その日も寒い夜でした。名前を呼んだのは女性の兵士で冷たく光るステンレスの手錠と足かせを持っていました。女性兵に手かせ足かせをされチェーンに繋がれ取調室に引っ張られました。チェーンのたてる大きな音がして耳障りでした。通路を歩くとあちこちの蜂の巣部屋の収容者から声がかかりました。「しっかりしろ!」「あきらめるな!」「神がそばについてるぞ」そして大合唱となりわたしを励ましました。
「アッラーアクバル!アッラーアクバル!アッラーアクバル!アッラーアクバル!」
勇気を得て怖そうな女性兵士に頼みました。
トイレに行かせてくれ。
腹具合が悪く歩くのも大変でした。しかし答えはNOでした。
取調室に入るとイスが三つありまもなく通訳を連れた取調官が入ってきました。その二人もまた女性でした。わたしは苦痛のあまりしゃべることもできません。なんとかトイレに行けるように頼み今度は許可されました。せきほどの女性兵は不機嫌な顔つきです。トイレには見張についてきます。股間のイチモツは暗くて見られなかったはずでそれがせめてもの慰めでした。
わたしはようやく人心地ついて頭が働くようになりました。取り調べは再開されましたが質問はいつものどうしようもないものでした。

メモ:バグダッドの日本女性

バグダッド(マンスール地区)に一人で住んでいる日本女性がいます。
ワリードから聞かされただけで当方管理人は面識ありません。ワリードも二年の刑務所暮らしで連絡が絶えていました。安否を気にかけていて昨年秋から何度も訪問をするとは言っていたのですが「セキュリティエリアで自分のIDでは入れない」「郊外に帰宅するのに夜遅くなったら危ない」といろいろ理由があって時間がかかっていました。
すでに帰国しているかもしれませんでした。治安は多少良くなったとはいえ外国人それもかなり目立つ女性でイラク暮らしができるとは思いませんでした。
で、ようやくワリードが会いに行ってきました。元気で暮らしているそうです。買い物などたいへんらしいですが近隣住民との関係は良好でまずはだいじょうぶそうだということです。

彼女もこの戦争の犠牲者です。イラクでひとりになってこの一月末でまる六年になります。

手記40:孤独と家族への思い

拘置所の奥の独房にいると耐え難い孤独を感じます。まるで世界から切り離されたようでした。夜は所内のあちこちからすすり泣く声が聞こえてきたものです。
なぜわたしはここにいるのでしょう。なぜアメリカの(頭文字Fな)兵隊らは容赦ない仕打ちをするのでしょう。
わたしは肉体的にはひとりぼっちでしたが胸の中は家族への思いがあふれつづけていました。三ヶ月前に生まれたばかりの赤ん坊はどうしているか、誰か殺されていなか、誰が生き残ったろうか。家族と過ごした時の鮮やかな思い出のフィルムが頭の中で回りいつまでも止まりませんでした。
わたしと同じように妻や子どもたちはどれほど心配しているでしょう。逮捕された夜わたしは家族に何も告げずに家を出て来ました。わたしが妹の電話を受けたとき家族はすでに寝入っていたからです。
妻と子どもが銃声で目を覚ましたときわたしは家におらず、「お父さんは殺されてしまった!」とみなが信じ込んだそうです。
夜が明けると妻と年長の子どもたちは農場を歩き回りわたしの死体を探し、血痕を探しました。米軍が来てそこに血溜まりが残されればそれは誰か殺されたのだと子どもでも知っています。そして家族らはわたしが拉致されたと判断したのです。
家族と面会が許されこの話を聞けるようになるにはこのあとまだ半年かかるのでした。

手記39:健康診断

困惑の最たるものは健康診断でした。検査には着衣を脱ぐことになります。これがアラブ人にはたいへん落ち着かない不愉快な気分になるのです。米軍は手を抜いてアラビア語通訳を用意しません。価値観(羞恥心の感覚)、コミュニケーションの欠如がときに悲劇を引き起こします。
若いアメリカ兵のスラング混じりのアクセントはわたしにも聞き取れないことがありました。何を要求しているのか一般的なイラク人には全く通じなかったでしょう。
中年の男性がいました。服を脱ぐように言われましたが彼には意味がわかりません。それどころか数人がかりでレイプされると思ってしまったのでした。アブグレイブ刑務所での虐待事件はイラク人の記憶に焼きついています。おじさんはパニックになり「犯られてたまるか!」と叫びながら激しく抵抗しますが兵士らは何を言っているのかわからず二人が力ずくで裸にしてしまいました。そこに現れたドクターはおじさんの抵抗を痔の疾患と解釈し彼をひざまずかせました。
おじさんは守りたかったところを無駄にグリグリされやはり尊厳を失いました。

2011年1月17日月曜日

湾岸戦争から20年

経済制裁はその数年前からなのでもう20年以上イラク人は苦しんでいるわけです。
アメリカ中心の国連が下した経済制裁により1991年からの12年で120万人から170万人と言われるイラク国民が死にました。多くは新生児や乳児でした。(イラク戦争前にイラク赤新月社で160万人という数字を聞きました)。左サイドのイラクボディカウントの数字を見てください。当時は一年で10万人以上です。
国連の石油食糧交換計画(オイルフォーフード)が始まる96年(実質97年?)までは文字通りバタバタと死んでいたように思いました。

2011年1月16日日曜日

手記38:SHAKEDOWN

一日に5、6回看守がやってきて「SAKEDOWN」と怒鳴ります。房内検査です。わたしは壁に向かって立ち上がり両腕はまっすぐに伸ばし、足は大きく肩幅に広げなければいけません。看守のひとりが房内を調べもうひとりは入り口で銃を構え逃亡や反抗に備えています。看守は全てを調べるのですがもとからたいしたものを所持していません。看守は泥だらけのブーツで毛布を踏んづけ、コーランを蹴飛ばしていきます。
支給された寝具はひどいものでした。毛布はよく言って犬小屋の犬なら使う程度でしょう。
枕はなかったためプラスチックのサンダルを枕にしていました。たった1センチの高さしかありません。これが新しいアメリカ民主主義が与えてくれたものでした。

米軍は1万回も繰り返し尋問しました。「なぜ英語を話すのか?」「なぜ日本のマスコミの書類を大量に持っているのか?」「なぜ結婚しているのか?」「なぜ子どもがいるのか?」「映画ヒバクシャはなんだ?いつ撮影された?」「タカシとは誰だ?」「キャシーとは誰だ?」「誰だっ?誰だ?誰だ?誰だっ・・・・?」
バカバカしい尋問でした。尻の穴の毛の本数さえ数えました。
取調官は何度も入れ替わり、なかには女性もいました。
精神が打ちのめされ一日が暮れていきます。

手記37:刑務所暮らし

当然ながらすべてが激変しました。広々とした生活は巣箱に押し込められました。幼児のように扱われ何をするにも許可がいります。米兵は気紛れで時に許可され時に拒否されます。
そのうえで米軍はわれわれに民主主義と自由を与えにきたと信じろと言うのです。

基地に着くとシャワー室に連れて行かれました。その前の三日間シャワーもトイレでの水も使えませんでした。わずか2分間のシャワーが許されただけでしたがこれまでの苦しみと疲れを癒す休憩になりました。不潔な生活が再スタートです。。
看守役の兵士は2、30分おきの見回りのたびに部屋のドアを力まかせに蹴飛ばしていきました。寝かさず休ませないためでしょう。それでも以前の基地よりは暖かいぶんだけましでした。夜間は二回トイレに行くことができました。しかしトイレにドアはなく常に見張られていました。時に女性兵士が看守でした。許される時間はわずか30秒。たいへんな屈辱でした。
わたしたちは起訴されたわけでもなくまして判決もなく、身分としては被疑者であって勾留場という名前の施設にいるのでしたが実質監獄であり囚人でした。

〜休憩タイム〜


残ったウサちゃん。

2011年1月15日土曜日

手記36:囚人として

アンラーワン基地の広い敷地の奥に拘留施設がありました。高い塀に囲まれていました。
頑丈なドアが背後で閉じるとわたしは囚人になったのでした。
囚人らはほとんどがバグダッド南部の出身者でした。
集められたわたしたちの前に刑務所の責任者が現れ警告をしました。
「この建物は隔離されておりいままで誰も脱走したことはない。番犬の代わりのオオカミが生きた兵器として脱走者をかみ殺すことになっている」
金属製の手錠に変えられました。支給された囚人服は派手な赤地にオレンジ色でした。
部屋は一人用で高さ幅、奥行きともに190センチの真四角で天井は金網です。そのため米兵は蜂の巣と呼んでいました。
基地に着くとシャワー室に連れて行かれました。その前の三日間シャワーもトイレでの水も使えなかったので大いに期待しましたがわずか2分間のシャワーが許されただけでした。それでもこれまでの苦しみと疲れを癒す休憩になりました。しかし新たな苦しみの始まりでもありました。

手記35:バグダッドの基地へ移送

アリの犠牲にも関わらずわたしとヤヒヤは解放されません。それどころかバグダッドの別の基地に移動すると言ってきました。約束が違うではないかと言っても聞き入れません。それどころか凶悪犯としてキューバのあの悪名高きグァンタナモ刑務所に移すとまで言われたのです。
夕暮れを待ってわたしたちはバグダッド北東のアンラーワン基地に移送されました。核施設基地には三日間の拘留でした。あっという間の転落でどこまで落ちていくのでしょう。

アンラーワン基地はサダム時代は陸軍の新兵訓練施設でした。わたしは16才のとき体験兵士としてここに来たことを思い出しました。今基地には星条旗がはためき、わたしは囚人です。

2011年1月14日金曜日

イラクの未成年

アリは17才でしたが成年と同じ扱いをされました。イラクでは日本のような少年法がないようです。ワリードは刑務所で12才の囚人を見たそうです。毎夜泣き明かしていたそうです。

手記34:弟の決断

武器と家族の女性らの写真は米軍が撮影したものに違いありません。わたしたち罪を被せるためにです。
わずか10分で結論など出せません。
弟アリが志願しました。
わずか10分のことでもこの時のわれわれ兄弟の心情を語るのは苦しいです。
アリは家族の女性と子どもたちを守るために自分の役割を果たすのだと言ったのでした。
アリはまだ17才でした。兄を殺され両親を一度に失ったばかりでした。
翌年10年の判決を受けることになります。

手記33:米軍の脅迫と取引

武器所持についての主張は認められませんでした。そして彼らは提案を持ちかけてきました。わたしたち兄弟3人のうちひとりが罪を認め刑に服せよと言うのです。しかしこれは提案というより脅しでした。拒否すれば家にいる妹らを逮捕するというのです。
アラブでは女性の位置は微妙で繊細です。アラブの男なら身内の女性の品位を守るためにすすんで犠牲を払うものです。米側の提案はこのわたしたちのウイークポイントをついたものでした。この提案を拒否すれば米軍と結託している地域のサフワにつけこまれ先祖の土地を奪われることになるでしょう。
決定的だったのは米軍が見せたもう一枚の写真でした。そこには姉と妹、わたしと兄弟の妻たちそして子どもたちが銃を前にして並んで写っているものでした。
取調官は冷酷に言ってのけました。
「お前らの言うことを聞く人間はどこにもいない。10分やるから一人を選べ」
テントの外に連れ出され兄弟三人になりました。兵士ひとりが後ろで見張っています。
わたしたちは愚かしい人種だと思われているに違いありません。

手記32:暴行

弟の取り調べには脅しと暴力がありました。弟は何も知らないと言い続けたそうです。殴られ顔から血を流していました。アリはまだ17才です。わたしは頭に来ました。がまんできません。この気持ちをなんと書き綴ればよいでしょう。
寒い夜でした。義理の弟は取り調べに連れ出されたきり戻ってきませんでした。彼はまだ14才で連れてこられて以来泣き通しでした。父親を最近亡くしたばかりでした。そのため釈放されたとのことでした。
しかしわたしたち兄弟は自由だと言われながらいっこうに釈放されません。

取り調べはわたしに廻ってきました。取調官は険しい顔で現れました。彼は言いました。
「農場で武器を見つけた」
「いったいどこで?」とわたしは聞き返しました。
一枚の写真を見せられました。地中から掘り起こされたような武器でした。その武器をなんと説明すればよいのでしょう。わたしたちは二年前にバグダッドから移り住んできました。そのしばらく前に米軍と覚醒評議会サフアによる武装解除で地域の武器が集められ廃棄処分として埋められたのがわたしたちの農場でした。そのことなら地域の住民はみな知っています。
埋め立て処理の日付の記録、武器についた指紋などの照合を要求しましたが米軍ははわたしたちのものだと決めつけるのでした。

手記31:米軍の尋問

翌朝から尋問が始まりました。アラビア語の通訳はシリア人でしたが彼の訳はおおむね間違っている、あるいは適切な訳語を使っていないようでした。彼はアメリカ兵以上に短気でわたしたちの回答に満足せずに時に殴ることがありました。
米軍が聞き出したいことは「誰が米軍を攻撃しているか?」そして何人かの写真の人間を見せ人物を特定できるか、そしてレジスタンスに供給される武器弾薬の在処についての情報を聞きだそうとしました。

わたしは翌々日の3月3日までにイラク北部に行く約束がありました。日本から取材に来るマスコミとの仕事でした。米軍に事情を話し出発しなければならないと訴えましたが当然のように拒否されました。
彼らアメリカ人は最優等の人間でわれわれイラク人には配慮される価値がゼロなのです。
わたしは米軍に協力することをやめました。なぜに拘束されているのか?理由もわからずに何も協力はできません。米軍とネゴシエーションを続けようやく、わたしには追求されるような落ち度はなくいくつかの質問があるだけでまもなく解放される。という言葉を引き出しました。取調官によるとわたしに対するネガティブな報告があったがこれまでのところ証拠はないことがわかった。ということでした。夜の8時までかかり調書をまとめわたしと兄は翌朝には解放されるということになりました。弟の解放は遅れることになりました。

わたしは即座の解放を要求しました。しかしすでに夜になっており危険なので解放できないと扉を開きません。
おかしな話でした。米軍は必要とあればどんな時間でもイラク人を引っ張り出しています。現に基地内にいて夜の8時で解放できないとは。
このとき何かが企てられていたようです。米軍はわたしたちをじらし、一方で脅しいつのまにか操られ知らずにイラク側に引き渡されることになったのです。それはわたしたちがレイプされ殺されることを意味しています。後になって米軍士官から聞いたことです。

2011年1月13日木曜日

手記30:米軍基地一夜め

基地に着いたのは午前2時を廻った頃でした。わたしたちはそれぞれ個別に聴取を受け、ひとつのテントに容れられました。目隠しをされ後ろ手に手かせされ簡易ベッドに寝かせられました。毛布など寝具も暖房もありませんでした。たったひとつの電気ヒーターは見張りの兵士が使っていました。
夜の冷え込みが厳しくなっていました。尿意が強くなり見張りにトイレに行かせるよう交渉しました。ようやく訴えがとおりトイレ用のテントに連れて行かれました。兵士は入り口の布を取り払いました。手かせは後ろから前にされました。
テントのトイレはかつてこれほどのものを見たことがないくらいの凄まじさでした。プラスティック製のポータブル洋式便器は汚れ放題。水もトイレットペーパーもありません。腹がくだっているときこの半壊したトイレでどのように用を足せというのでしょう。兵士たちは誰もわたちたちの不満に耳を貸しませんでした。わたしたちは敵と見なされた囚人なのだとこれらの扱いではっきりわかりました。

手記29:米軍基地へ連行

上官はわたしの家はどこかと聞いてきました。場所を示すと部下らに捜査するよう指示を出しました。家には3ヶ月前に生まれた赤ん坊がいます。イラクの田舎ではベッドではなく床に寝ています。停電で何も見えずアメリカ兵の軍靴に踏まれてはたいへんです。上官に注意するよう頼みこんだ矢先、大きな爆発が起きました。同時に兵士が銃を7、8発続けざまに撃ちました。爆発はなんとわが家のほうからではないですか。叫び声も聞こえます。子どもと女性の声でした。何が起きたのか確認のしようなくわたしと父の家にいた兄弟はその場で逮捕されてしまったのです。わたしたちは4人で兄ヤヒヤと弟アリ、そして14才の義理の弟でした。


わたしは猛然と抗議しました。わたしたちのどこがテロリストなのか!わずかな時間の議論で非協力的とみなされ連行されることになりました。すでに犯罪人扱いでした。まず地域の覚醒委員会(Sahwa)に連行され身元の照合をうけ釈放か拘束か判断されました。どうやら釈放されなさそうな気配でした。
そして連行されたのは米軍の基地でした。村から西に4キロ足らずでサダム時代にツワイサ原子力研究所として知られたところでした。

手記28:2008年2月29日深夜逮捕

いつものように基地の仕事から帰宅し就寝しました。人目を避けて通勤しているため朝がたいへん早いのです。妻や子どもたちは10時くらいまで起きておりわたしは別の客用の部屋で寝ることにしていました。ちょうどその日は義理の弟がわたしたちと同居している彼の妹に会いに来ていました。
携帯電話が鳴り深い眠りから目がさめました。11時、寒い夜でした。近所の父の家に住む妹から急を告げる連絡でした。米軍が来ておりわたしの家はどこかと探し回っているとのことでした。通常ならすぐに逃げ出すべき事態です。わたしにはテロリストとの関係は全くなく、基地で仕事をし英語も話せます。米軍を避ける理由がありません。米軍が来ているという父の家に行き問題を解決するべき判断をしました。
父の家はすでに米軍の車両(ハンヴィー)が数台取り囲んでいました。停電のためあたりは真っ暗です。ハンヴィーのルーフには射撃手が配置され警戒しています。ここで姿を現すのはまずいのではないか?暗闇から現れたら敵と間違われ撃たれるかもしれない。引き返すべきと判断しました。しかし今ここで背中を見せれば米兵は私が逃げ出したと思うかもしれません。難しいとっさの判断でしたがわたしはゆっくりと近づきアメリカ兵に声を掛けることにしました。それが撃たれないための最善の方法と思えたのです。
わたしの「ハロー」という言葉に兵士らは驚きいっせいに銃口をわたしに向けてきました。「落ち着いてください、わたしはこの家の者です」
兵士が上官らしき将校を連れてきました。階級はわかりませんでしたが彼はわたしの顔に銃をつきつけ質問をしてきました。まるで犯罪者に対する尋問のようでした。
米軍は何人かのイラク人を探しているようでその顔写真のリストを見せてきましたがわたしには名前も顔もわかりませんでした。

2011年1月12日水曜日

手記27:逮捕直前

前回原稿の最後にイラクにいる米兵との架け橋となり暴力を止めたいと書きました。現実には米軍基地ないでのショップ店員として危険にさらされる日々でした。毎朝の出勤時に基地の入り口でひとりづつチェックを受けます。そんなときに地元のミリシアなど反米組織に見つかれば命を奪われることになります。一方で基地で働かなければ家族と生きていくことができません。
バグダッドから逃れ郊外の村に移り住むことになったのですが不運にも良い選択ではなかったようです。ひとたび村を出るとミリシアの戦闘に巻き込まれかねないのです。サドル派マフディ軍と地域のスンニ派ミリシアとの戦闘でした。家を出ることはいわばギャンブルのようなものでした。うまくいけば無事に帰られるかもしれません。
米軍は治安の維持も回復もできずイラク政府も同様でした。市民は自分らで身を護るしかありませんでした。とくに夜に村人が襲われることあり村では自警団を組織しわたしも参加しました。時に警察と戦闘になることもありました。ミリシアは時に警察車両を乗りつけてくるので本物か偽物かがわからないのです。

2011年1月11日火曜日

ワリード手記再開

秋以来途絶えていたワリードの手記が届きました。米軍に捕らえられる直前までがこれまでの手記に書かれていました。数回に分けて和訳する予定です。

ワリードからーーーーーーーーまず原稿の続きが遅くなったことをお詫びします。イラクでの生活が苦しく原稿に向き合うことができませんでした。ーーーーーーーーーーー

2011年1月2日日曜日

ワリードの息子、ウサギを埋葬する

ワリードの息子が知人からウサギ2匹をもらいました。翌日に1匹が逃げ出しました。イヌが追いかけたところ突然死んでしまったそうです。牧場犬として飼っている利口イヌなので噛んだりはしていないとワリードは言っています。

2010年11月27日土曜日

郵便事情

デジタルで送れない何かを日本からイラクに送ろうかと郵便事情を聞いたみたのですが未だ復旧されていません。国際郵便はDHLを使うそうです。国内郵便でさえ崩壊したままだといいます。すでに7年もたって信じられません。
ネットや固定電話は比較的早く復旧しました。戦前は無かったケータイ電話は戦後半年ほどしてからあっという間に普及しインターネットも一般的になりました。そのネット契約は費用がかさむためワリードは近いうちに解約するそうです。メールは事務所でできるので経費削減のためには仕方ないようです。

2010年11月16日火曜日

新しい家族

昨夜ワリードに6番目の子どもが生まれました。男の子で名前はマフムードです。

2010年11月10日水曜日

脅迫状


2006年実家に投げ入れられた脅迫状です。
手記7
一部修正してあります

2010年10月20日水曜日

2010年10月13日水曜日

冬への準備

米軍により壊されたドアの修理のためガラスを買うのだと、冬に備えやることがたくさんあると連絡がありました。米軍が侵入したのはもう2年半も前のことですが男手がなくてこれまで治せなかったのでしょう。
家からネットができるようになって一週間ですが逆にスカイプがオンラインにならなくなって会話が減りました。

2010年10月6日水曜日

村でもネット

昨夜から村の自宅でもネットができるようになりました。時差があるためチャットやスカイプは深夜になりますがぜひ連絡してみてください。

2010年10月2日土曜日

ワリードの同僚

サマワでワリードの同僚が拉致殺害されたことは今回初めて知りました。
日本では報道されたのでしょうか?
ワリードも外国メディアの協力者として脅迫を受け家族と家を失いました。
同僚のように処刑されてもおかしくなかったわけです。
2年半前、ワリードと連絡が取れなくなったとき、実際に米軍に逮捕されたことを知るまで数ヶ月かかりました。相手が米軍とはっきりしていたので、まだましだったかもしれません。
たとえば路上で拉致され犯行声明も出なければ相手はわかりません。今回の同僚氏のように誰も知ることはありません。ワリードがは有能であってもしょせん使い捨てできる命の安いイラク人でしょう。(管理人)

2010年9月23日木曜日

2006年11月のメール

2006年の村での様子を書いたワリードからのメールをご紹介します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この15日間バグダッド郊外の村にいてメールが出来なかった。バグダッドの地獄から避難している。不幸なことに毎日大勢の武装集団に村が襲撃されている。彼らはサドル派マフディ軍の兵士だ。詳しくは書くことができない。インターネットカフェが秘密警察により監視されているから。

この村に来てから自警団に参加し、毎夜2時間武器を持ち戦いの前線に出ている。これまで幸運にもリアルな戦闘には出くわしていない、実際の戦闘まっただなかでは後ろに下がっていろと友人ら言われたことがあったが。
ほんとうのところ役に立つような戦争経験がない。
毎晩、眠りにつくのが難しい。殺された弟が胸に去来する。ようやく眠りに落ちても犬が何かささいなことで吠えただけで目を覚まし、最後の時が来たのではと考える。

*ワリードの村は首都バグダッドの郊外とはいえ砂漠にぽつんとあるオアシスのようなのどかな村でした。ワリードはこれまで自由人的に外国人とつきあい、田舎の保守とは遠いところにいたのですが最後に血族を頼りローカルなコミュニティに戻りセキュリティを得たのでしょう。
当時ワリードの苦境を知りごく近い数名で支援をしました。広く呼びかけることはしませんでした。今回の逮捕での対応は連絡会を発足させ広く呼びかけをしました。兄弟3人であること、相手が米軍であること、そして情報収集が困難で広く協力が必要と判断したためです。

2010年9月20日月曜日

手記26:逮捕前

基地で働くことは不快かつ危険なことでしたがそれでも米軍の実態を知ることは大きな意味があったように思います。
イラク人とアメリカ兵らはこれ以上血を流してはならないのです。わたしたちはお互い人間なのです。もちろん解決はたやすいことではありません。それでもここでの経験を無駄にせず相互の理解の役に立ちたいと強く思います。

アメリカが武器を手にしながらがルールを押しつけてくるとき、どこの国の民でも寛大に受けいれられるでしょうか。


イラク占領に反対するアメリカの友人が何人もいます。残念ながらアメリカ人は多くの国から歓迎されません。それはアラブへの強硬政策がもたらしたものです。


*この先の原稿はまだ届いていません。多忙ということで次の原稿には時間がかかるかもしれません。この後、ワリードは米軍に逮捕されることになります。手記を書くのは精神的に厳しことかもしれません。催促はせず本人に任せたいと思います。

2010年9月19日日曜日

手記6をアップしました

これまで空白だった手記6の和訳をアップしました。最終的な内容についてはワリードと確認中です。

2010年9月17日金曜日

ワリードの告白と悩み

ワリードが2008年の2ヶ月間、米軍基地で働いたことは今回の手記で始めて知りました。村ではネットができず、このころのメールのやりとりは月に一回か二回でただ安否を知る程度でした。
ワリードは自ら書いていますが米軍で働くことを恥じています。それでわたしにも「どう思うか?」と聞いてきました。どう思うもこうも、生きていてくれればそれで十分でした。
非暴力は大事ですが、武器については正当防衛なのだし、あの状況で非暴力と言うことは本人と家族に死ねと言うことです。
ワリードを知っている方、ぜひ本人に連絡してはげましてください。(管理人:かつお)

2010年9月15日水曜日

IDとミリシア

IDカード(身分証明証)についてワリードが手記17で偽造ID所持について書いています。そのIDには氏名・住所以外に宗教、宗派、部族が明記され、時にひとびとの生死を分かつことになるのです。イラクは9割がイスラム教です。そのイスラム教徒がスンニ、シーアと別れて宗派間で対立しているのです。日本では宗派間対立とか紛争とか言われていますがワリードはthe sectarian war=宗派間戦争と書いています。その死者数がイラク戦争での民間人の被害を超えているからでしょう。
IDの携行は義務です。ミリシアは町はずれなどに勝手にチェックポイント(検問所)を作って通行人を調べ、対立する宗派の人間を拒否します。エスカレートすれば拉致殺害に至りたいへん危険です。ひとびとは別の宗派のIDを持つことになります。名前も宗派の偉人にちなんだりした本名だとばれてしまうので偽名にします。
2004年ころから登場してきたのがミリシアです。
ミリシアを訳すと単に民兵ですがイラクの場合宗教的背景が強く宗教私兵集団といった意味になります。ワリードの手記には何度もミリシアの名前が出ますがそのときの状況に応じて政治的なこともあります。身代金を要求するミリシアは宗教的とはいえずたんなる強盗でしょう。地域性が強い場合は自警団と呼べるかもしれません。ミリシアについてはその文中に応じて意味を読み取っていただきたいと思います。

ワリードの場合、ある日実家に脅迫文が投げこまれ小さな子どもが玄関先で見つけます。
一家は地域で50年近く暮らし家族はみなムスリムでいたって普通のイラク人です。ただしワリードは戦争取材景気でいっきに小金持ちになっています。クルマも買い換えました。たぶん近所では目立ったかもしれません。もっとも問題だったのはワリードが外国人に協力していたことでしょう。
脅迫文には近所では知られているはずのない日本のテレビの名前があります。自衛隊の活動さえバグダッドでは知られていないのに誰が知るでしょう。親しい友人の誰かか親戚なのか密告者がいるようで不安になります。家族を連れて避難しますが妻にさえ行き先を告げられません。知らなければ守る秘密がありません。
隣近所のやはりスンニの住人は家長を殺されすでに一家で町を出て行きました。
小さな子どもがいるので恐怖におののきます。脅迫に対応しなければなりません。見えない犯人を刺激することになるのでワリードを家に入れられないわけです。
ワリードは監視の目を恐れることになります。都市の生活ではどこからそして誰から監視されているかわかりません。気がつくと尾行がつき、クルマはすでにマークされているので家から離れたところに停めてバスで町に入ります。さらに暗くなるまで町の中は歩けません。

ワリードのように外国メディアの協力者はもちろん米軍、外国企業に関わっていて身元がばれるなどすればいつ処刑されるかわかりません。スンニ派にとって警察は信用できません。警察の内部にはシーア派ミリシアメンバーがいるのです。ミリシアが制服を着て警察になったともいいます(全員ではありません)。ワリードの義理の弟は警察官でしたがスンニなのであっさり殺されるわけです。
戦後の選挙で人口で多数のシーア派が政権を取りました。とくに警察と内務省はシーア派が実権をとっています。サダム時代はシーアは圧政を受けていました。体制が変わって今度は多くのスンニが報復されました。スンニも復讐にかられ爆弾を抱いてシーア派モスクに飛び込みます。
スンニ派にもミリシアはいます。ミリシアは自派の住民を殺し敵対するミリシアのせいと工作し復讐心をあおったともいいます。憎悪と恐怖の連鎖は収まりません。

ワリードが家を出たにもかかわらず脅迫は続き一家までも殺害予告を受けます。四男(ワリードの下の弟)はモスクに行った帰りに警察に捕まりました。警察は裏で弟をミリシアに引き渡し弟は惨殺され道ばたに捨てられます。

ワリード一家は一族の出身地に避難できただけましでしょう。行き先のないひとびとは国内、国外難民になりその数は200万人余といいます。
一家の去ったバグダッドの家はすぐにミリシアに奪われます。スンニエリアから同じように逃れてきたシーアファミリーが斡旋されそこに住むことになります。もう彼らを追い出すことはできません。ワリードが住んでいたバグダッドの一画はそれまではスンニもシーアも入り交じって住んでいましたがもうスンニが住めない町になりました。
ワリードは蓄えを投じて国外脱出の計画をたてます。しかしその半ばで妻の父が身代金目当てに誘拐されます。要求された25,000ドルを支払いすっかり資金を失います。不幸のスパイラルはつづきます。ワリードは生活のために、脅迫されながらもメディアの仕事をやめることができません。
身代金を払って取り戻した義父は数ヶ月後またも掠われ今度は生きて帰って来れませんでした。

ワリードは避難先の村に閉じ込められました。村は一族の出身地で安全なはずでしたがそこもミリシアに目をつけられ毎夜の襲撃を受けます。父と母を続けて喪います。高校生の末の弟さえ誘拐されてしまいます(その2年後ワリードとともに米軍に逮捕されます。10年の刑でまだ服役中です)。
家族を守るために自警団に入り銃をとることになるワリードは武器所持の理由などで米軍により逮捕されます。米軍からすると自衛のために戦っているこの村人らもミリシアと見なされるでしょう。

ワリードは過酷な刑務所に耐えて生還しました。

ワリードがまだ生きていてほんとによかったと思います。
(管理人)

手記25:米兵とiPod

兵隊たちがイラクで手にする現金は月に200ドルでそれ以外の給料は本国の銀行振り込みです。そのため兵隊たちは略奪に走るのでした。彼らが現金以外で狙ったのはiPodでした。検問所でクルマを止めるとドライバーを外に立たせ車内のiPodを盗むのだといいます。
復興事業の担当者は大金持ちになれます。イラク人業者は熱心に癒着します。そのせいで事業のコストは本来の見積もりの10倍にもなるのです。これはアメリカ人の税金の無駄遣いにしかならないのです*。

基地で働きながら米軍の実態を見ました。それではというと米軍への見方に変化はなくショックも受けませんでした。
彼らのスローガン「イラクへ自由を!」=悪い冗談です。

*実際にはイラクの石油を売った金が使われているはずです(管理人感想)

2010年9月14日火曜日

きょうのワリード

ようやくスカイプが通じましたが停電のため長くは話せませんでした。

ワリードはラマダンの休暇中、北部アルビルの刑務所へ行き、末弟のアリに面会したそうです。アリは日本のみなさんによろしくと言っていましたとのこと。刑期について新しい情報はありません。
3日前村で11才の少女が身代金目的で誘拐され殺害されたという、あのような田舎の村で悪い話を聞きました。。
バグダッドではラマダン明け後、治安はまたも悪化する気配とのことです。

ワリードは数ヶ月前から友人の兄が経営する建設関係の会社にパートタイムで働いています。建設業界は過当競争で厳しい状況だそうです。さらに政府関係者、米軍上層部への交渉などかなりの部分袖の下の世界らしいです。
ワリードがこの業界で仕事をするのにはCAD(建築用ソフト)の習得・操作が必要ですがワリードには長年のブランクがあって厳しいと言っています。

アムネスティ

いまNHKのニュースでアムネスティインターナショナルの活動が報道されました。イラクでの三万人もの不当な逮捕や虐待などの問題です。
ワリードも米兵から暴行暴言を受けたと聞いています。ワリードの場合途中からイラク管轄の刑務所に移されました。
ワリードの手記はまだ逮捕服役まで書かれていません。
(かつお)

2010年9月13日月曜日

毎夜の恐怖/動画2分



2006年。撮影、コメントはワリード本人です。

2010年9月12日日曜日

イード

ラマダン明けの連休でワリードと連絡が取れません。明日には事務所に出てくるはずです。

手記24:米軍基地で見たこと。米兵の実態

基地で勤務してあらため実感しました。

米軍はイラクに民主化をもたらすために来たわけではありません。

たいていの兵隊は最低なFで始まる英単語な連中でした。

朝、基地に戻ってきた兵隊がショップにやってきます。イラクの金をドルに両替するためです。兵隊の給料はドルなので連中がイラキディナールを持っている理由がありません。彼らは夜の間にイラクの貧しいひとを襲い奪ってきたのです。イラクでは彼らを取り締まる法はありませんでした。米兵は法の外にいていつでも好きなようにイラク人を殺すことができたのです。

なぜイラク人から、しかも貧しいイラク人から略奪してきたかわかるのか?イラク人なら誰でもわかります。そのイラクの札束は緑色の小さな布で包まれていました。緑はある宗派のひとびとが信じているつつましい縁起の色だったのです。金持ちのイラク人ならそんなことはしません。

兵隊らは焦っていて、証拠となるような札束を手放すためにどんな低い交換レートでも文句を言いませんでした。そんな時の彼らはだいたい泥だらけのブーツに汚れた軍服姿でした。これが作戦行動なら現金を持ってこられるわけがありません。


買い物の支払いに彼らは金の塊を持ってくることがありました。やはり略奪したものでしょう。わたしは受け取りを拒むのですがマネージャーは有利なレートで受け取ってしまうのでした。

手記23:基地勤務。1月から2月まで

ショップではコンピュータやその部品とソフト、DVDビデオなどを扱っていました。
ひと殺しの米軍に協力することを恥じ身を隠したいと思いました。
家を出るのは日没前、帰宅するのは日が暮れてから。それは目をつけられてしまわないよう、追跡されないようにでした。家族は理由を知らなかったと思います。
米軍の基地で顔見知りに会いました。彼もかつて日本のメディアで通訳として働いていました。そして米軍には猛反対していたのでした。その彼は今では米軍の軍服を着て米軍のために働いているのです。
わたしは驚きました。彼のほうは気恥ずかしげな顔をして言い訳してきました。
「まんずとにがく暮らしていがねーばなんねーんだげっとも、
さっぱ食えねんだでば。おめもわがっぺ。なんだもねんだでば」
「おらだづみんなおんなじだでば。気にすんすな。んだげっともな、
この国わげわがんねぐしたのは米軍だっつごどは忘れんすなよ」

*この年(2008年)1月8日、バグダッドに100年ぶりの雪が降りました。
 2月27日、ワリードは米軍部隊により逮捕されます。

2010年9月11日土曜日

手記22:苦しい決断

眠れない夜が一週間つづきました。米軍で働くことが親族に知られでもしたらたいへんな恥でした。しかしクルマを売って工面したカネもほどなく使い果たすでしょう。自分自身に言い聞かせました。「せめて侵略されたイラク人家族のために働こう、米兵がほんとうにイラク人を助けに来たのかどうか見てやろう」
米軍で働けば自衛のための武装も許され二年間働けばアメリカへの移民も可能かもしれません。しかし暗殺集団につかまればヒツジのように首を切られ処刑されるでしょう。やはり自殺行為か、、。
わたしは答えを先延ばしにしていました。
クルマは不調で故障しがちでした。バッテリがあがっていましたが買うカネがありませんでした。子どもたちの誰かが熱を出しても、クスリもないような村の病院ではなくキチンとした私立病院に連れて行くことはできないでしょう。事実はあきらかできれい事では生きていけません。覚悟を決めました。生き延びるためにカネが必要でした。

2008年1月から基地内で電気製品ショップの店員として働きはじめました。兵隊の手先となって外の作戦に同行する通訳よりはましな仕事でした。

手記21:次々と失われる家族

村には定期的に米軍が来ました。彼らはわたしに通訳として働かないかと勧誘してきましたが毎回のように断りました。米軍と働くなど敵を作るようなもので家族を危険にさらしたくなかったからです。同じころわが家の財政は危険水準になってきました。
わたしは米軍の通訳になって評価を落とすより農民になることに決めました。治安が回復するまでなんとか生き延びねばなりません。
GMC(アメリカ製大型SUV)を売り払い古い20年落ちのトラクタを購入しました。近所の畑を請負で耕し日銭を稼ぐ目論見でした。

そのころ妹の夫が拉致殺害されました。警察官だったためです。もうひとりの妹の夫はアメリカ軍の間違いで背中を撃たれ障害者になりました。3人の子どもがいます。
数週間後妻の父親が誘拐されました。二度目の誘拐で今度は生きて帰れませんでした。日ごと悪いことばかりが続きました。
わたしの母は息子(四男)を奪われ、夫まで亡くし後を追うように40日後に亡くなりました。

わたしの肩には一族の生活がかかってきました。
三人の妹(一人は未亡人、一人は夫が拘留中、一人は夫が障害者)とそれぞれの子どもたち、私の妻と四人の子ども、そして妻の実家の家族ら(妻の父が殺害された後わたしたちの村に移ってきました)でした。家族は18人に達しました。わたしはあっという間に貧しくなりました。これからどうやって大家族を食わせていけばよいのでしょう。先行きは見えないまま日々を生きぬいていけるのか。
国外移住などもう完全に無理です。その可能性さえなくなりました。
期待した農業は生活の基盤にはなりませんでした。失敗の連続で都会育ちのド素人ではやるだけ無駄なことでした。

2010年9月10日金曜日

手記20:村で生きる

父の死後すぐに現実の問題に直面しました。
わたしが国外などに出かけ長い留守をする時は父が家族の面倒を見てくれていました。厳格な父でしたが子どもたちはたいへんなついていました。とくに次男は父の死を深く悲しみ、涙とともに眠りにつき朝、目を覚ましては喪失の寂しさに声をあげるのでした。
母の糖尿病は重くなるばかりでした。妻と幼児を含む四人の子どもの面倒をまかせて長期の留守をすることなどできませんでした。
胸にはぽっかりと穴があいています。あらためて父の存在の大きさを痛感しました。

わたしは国外脱出の計画をあきらめました。たとえば移民のために国外で準備に一年も費やせばそれはその間に家族の誰かを失うということでした。家族のそばで現実と運命に向き合うことになりました。
すでに自衛隊はイラクから撤退し日本テレビはサマワの拠点を閉鎖しました。同僚をひとり失いました。イラクにはメディアの関心をひくものはなくなったようです。仮にあったとしてもロイターなどの大手通信社からの配信記事でもう間に合うのでしょう。数年におよんだジャーナリズムの仕事はなくなりました。

村で一ヶ月が過ぎても仕事が見つかりません。唯一の仕事は英語を活かして米軍の通訳になることでした。それだけはなんとしても避けたい仕事でした。この村ではあっという間に目をつけられ処刑されるでしょう。

手記19:突然の父の死

2007年1月14日、イラクにいったん戻ることにしました。長期の留守に備えるためにやることはたくさんありました。その年の冬はとくに寒く暖房用の灯油の買いだめが必要でした。世界有数の産油国なのに品不足で手にはいらずあちこちを探し回りました。もし十分に買えなかった場合は木を切り倒し燃料の薪にするつもりでした。どうしても男手が必要な仕事でした。
厳格で気丈だった父が弟の死に嘆き毎日ただ涙を流すだけでした。そしてわたしには国を出て生き延びるように強く促すのでした。
村に戻って12日目、父が死にました。
突然すぎる死でした。強い男で病気の気配はどこにもなかったのです。

手記18:国外脱出への希望

移民ないしは難民として国外脱出するアイディアは日に日に強くなりました。
9月にアンマンに出ました。そこでの職探しと国外脱出の交渉でした。
しかし当時200万人ともいわれる大量のイラク人が国から逃れ隣国ヨルダンやシリアに押し寄せていました。それまで自由に行き来できたヨルダン入国も制限されるようになり、ましてイラク人が仕事をえることなどは不可能でした。やはり移民としてヨーロッパに行くことに気持ちが傾いていきました。
ヨーロッパのいくつかの国は難民を受け入れていました。まずわたしがヨーロッパに渡りそこで一年を過ごすと家族を呼び寄せることができる仕組みのようです。
大きな挑戦でした。これまでそのように長く家族と離れたことはありません。しかし徒にイラクにいたのでは家族をひとりまたひとりと失うことになります。

手記17:自衛隊の撤退と村での新しい暮らし

「2006年7月17日。自衛隊サマワ撤退」
自衛隊撤退の取材に日本からジャーナリストが来ました。
無事に取材は終わり取材チームは帰国しました。
自衛隊が去り、サマワの事務所も閉鎖しわたしは職を失いました。
バグダッドに戻ることもできず、村で人生をやりなおすことになりました。

宗派間戦争では、とくにひとつの国の中での戦争ではたいへんに困ったことがありました。それは宗派が支配するエリアの通行でした。ミリシアは町外れに勝手に検問所を作り銃を構えてクルマを止めてID(身分証明書)を提示させます。スンニのわたしがシーアのエリアを通行することは危険で出来ませんでした。逆も同じです。そのため多くのイラク人は偽のIDを持って検問を通っていたのです。

やがてバグダッドに残っていた両親と下の妹が村に逃れて来ました。バグダッドの実家はマフディ軍に奪われ彼らが斡旋するシーア派が住むことになるでしょう。
一家は両親に兄弟姉妹、その家族を入れて20名以上にふくれあがりました。誰もが仕事がありません。時に食糧が底をつき雑草を食べたこともあります。

*管理人より:偽ID使用はワリード逮捕の理由のひとつと聞いています。いずれワリードが米軍による逮捕の真相を書くと思います。

手記16:夜のミリシア

葬儀を済ませたその夜、わたしたちは農村で過ごしました。農村は父の生まれ故郷で一族の農場がありました。安全な暮らしのためバグダッドから生活を移す予定でした。
しかしその農村さえも夜になると銃声が聞こえてきました。農村から隣町まで夜はミリシアが支配していたのです。
農場の向こうに黒ずくめに武器を携行した7、8人の男たちの姿が見えました。わたしたちはこの村では新参者です。彼らがなにものかはわかりません。
わたしは兄ヤヒヤを呼びました。連中を農場へ入れてはならない。家族への危害を防がねばなりませんでした。
こんな状況の出会い頭で撃ち合いになり死人が出るのです。
私は大声で彼らに呼びかけました。
彼らは無言です。
威嚇のために銃を撃ちました。
撃つな!お前たちの仲間だ。彼らが叫びました。
しかし距離を保ったままです。
彼らの狙いは何でしょう。わたしは少し近づきました。
そこにいろ!彼らが警戒の声を発しました。
その時爆発音が聞こえました。ロケット弾の着弾でした。闇の先のミリシア側からの攻撃でした。
男たちは私に背を向け応戦し始めました。
どちらの宗派にもミリシアはいました。いまでも彼らがこちら側の自警団だったのかわかりません。

2010年9月9日木曜日

手記15:死体置き場

日曜日に葬儀でした。
バグダッドの治安は日に日に悪化していました。みながモルグ(死体置き場)に行くことを恐れていました。
わたしは父、妹の夫とバグダッドに一カ所あるモルグへ弟を引きとりに行くことになりました。
人間はいつか自身の宿命、運命に向き合うべきときがあります。
死はいたるところにあふれ私たちを取り巻いていました。
いつしか死への恐怖は消えました。
恐怖の世界で生き続けるより死んだほうがましだと思うようになっていました。

わたしはモルグに入りました。
人生でこれほどひどい状況を知りません。この場所とこの悲惨さを説明できる言葉が見つかりません。
死体は100体ほどあり地面に横たえられていました。首のない処刑された死体も並べられていました。
冷房設備も冷蔵設備もなくすさまじい悪臭でした。あたり一面、肉と流れ出た体液に覆われていました。野良猫数匹がうろついていました。
人間でいることがいやになりました。
たくさんの遺体の中から弟を判別するのは困難でした。死体の顔は大きく腫れ目は飛び出しほとんどが同じように見えるのです。弟が殺された日の写真を見せられていましたが、酷暑のバグダッドで3日もさらされて、激しく損壊した死体を弟と一致させることは不可能でした。イラクにはDNA検査などないのです。
その日、惜別の日が過ぎました。

手記14:拉致殺害された弟

約二ヶ月日本に滞在し7月6日にバグダッド空港に到着しました。サマワでの仕事が待っており急ぎの旅でした。
空港に迎えに来てくれた兄は浮かぬ顔していました。留守のあいだに何かあったのでしょうか。
兄は家族を預けた村への途中に重い口を開きました。弟が一昨日前モスクに礼拝に行ったきり行方不明になっていたのです。今、父親と親戚が病院を回り担ぎ込まれているのではないかと探しているのだそうです。
そして当時のイラクでは当たり前になっていることでしたがモルグ(死体置き場)にも行かなければなりませんでした。発見される可能性がもっとも高かったのです。
まもなく家族に会えるであろうという喜びも吹っ飛びました。村まであと数キロというところで兄は電話を受けました。見る間に暗い表情になりました。電話を切ると涙を流しました。
弟はモルグで見つかりました。変わり果てた姿で路上に投げすてられていたそうです。弟はまだ32才でした。
シーア派ミリシア(宗教私兵集団)支配地域ではスンニの家族がモルグに立入ることは非常に危険でしたが警察官の親戚らと武器を持って押し通ったそうです。


わたしたち一族には最悪の日でした。
家で待機していた母たちは家族の一員を掠われ一様に悲しげでした。しかし殺されたことはまだ知らないのでした。ひさしぶりの再会で喜ぶべき場に悲しみを伝える使者になってしまいました。

バグダッドで長く続けられていた一族の生活は激変していました。そしてバグダッドから家族の半分が郊外の一族の出身地の村に移ったところでした。一部の家族は治安の急激な悪化で町に閉じ込められ、母は糖尿と高血圧の治療・通院のためにも残っていました。

その日は弟の亡骸を受け取ることはできませんでした。翌日埋葬のために引き取ることになりましたが週末にあたる木曜日でモルグは半日しか開かず、遺体の引き渡しは出来ないと言ってきました。わたしたちは翌々日の土曜まで待たざるをえませんでした。死者への尊厳などありませんでした。生きている人間にさえ価値がありませんでした。
わたしたちはイスラム教徒です。いまはただイスラム教徒を装っているだけです。社会は正気をなくしています。まったくもってイスラム教では許されないことばかりです。

疑問と不安

管理人の感想です。
ここまでの手記を読んであらためて当時の記憶がよみがえりました。ワリードが当時わたしに伝えなかったことも書いてあります。しかし当時の疑問が解消したともいえません。読んでおられるかたは納得されているでしょうか?
・なぜ家族から反対されかつ脅迫されてまでテレビの仕事を続けたのでしょう?
・サマワの責任者が拉致殺害されているのになぜサマワに家族で避難したのでしょう?
上記二点(家族の反対とサマワでの殺害)は今回初めて知りました。常識的にはガイドの仕事は外国人といるだけでターゲットと見なされ危険でした。
ワリードは長い日本人とのつきあいで身につけた、日本人にはかゆいところに手が届くガイド能力に自負があったことでしょう。さらにふつうには稼げないギャラも手にしていました。単純には比較できませんが戦前、NGOが払っていた給料の50倍をマスコミはポンと出していました。
不安に思っており「十分稼いでいたのだからもう商売でも始めて、外国人と手を切るべきだ!」と言ったところで聞くわけがありませんでした。
サマワでの業務も問題でした。サマワはシーア派エリアでサダム時代に相当の迫害を受けていました。サダム時代は表向きは宗派対立はありませんでしたが裏では当然差別がありました。サマワは当時もっとも国外に逃れる住人の割合が高かったと聞いたことがあります。すさまじい迫害があったからです。戦後は米軍に抵抗するよりサダム=スンニへの反感で「敵の敵は味方だ」という論理で米軍に協力すべしというファタワが出たともいいます。それゆえ自衛隊活動の候補地としては住民から協力が得やすかったのです。ワリードの問題はおのずと発生しています。彼はスンニだったのです。しかもバグダッド育ちの都会っ子でした。
シーア派地域ではシーアのガイド、スンニ派エリアではスンニのガイドが適切でかつ本人のためでもあったと思っています。管理人は南部シーア派エリアで活動するときはシーアの友人に協力を得ていました。
それでもワリードが避難先としてサマワを選んだのは長く住んでしがらみが多く、人間関係が硬直してしまったバグダッドよりスンニがごく少数で、かえって猟師の懐の「窮鳥」たりえたサマワのほうが、比較として安全だったのではということです。
覆水盆に返らず。ワリードは稼いだ全てを失った、それ以上かもしれませんが失ったようです。

2010年9月8日水曜日

ラマダン明け

ラマダンが明けてこれからお祝いだそうです。早めに帰宅すると言っていました。日本で言えば盆と正月が一度にやってきたような感じでしょうか。

2010年9月7日火曜日

手記13:日本訪問

2006年4月上旬、私のサマワでの業務が終了しました。そのころ自衛隊は何度も攻撃を受け陣地に閉じこもり活動は中断していました。次の仕事と将来を考えて日本に行くことにしました。

5月22日から7月4日まで日本に滞在しました。
日本は夢の国でした。なんとか新しい仕事と生活を日本で見つけたいと思いましたが移民・難民としては歓迎されるわけではないとわかりました。難民を多く受け入れているヨーロッパ諸国とは違っていました。
6月の下旬、自衛隊がイラクから撤退の時期が近づき、日本テレビから再度サマワに行くよう要望がありました。目先の仕事が鼻先にぶらさがりました。むろん断れるはずがありません。
夢の国でのわたしの「夢」は途中であきらめることになりました。日本は新しい人生を見いだすには難しい国でした。
イラクに戻ればまたも宗派戦争に向き合うことになります。
日本には45日滞在し結局大きな失望とともに帰国しました。


*彼の手記にもありますが脅迫を受けており「家族、友人、自分を知るイラク人、またはそれにつながる可能性のあるアラブ人に日本とつながっていることを知られたら殺される」という状況で、来日後東京でのアラブ人社会には近づかないようにしていました。
個人的にいろいろ思うところがあって和訳が遅れました。(かつお)

手記12:悪化する治安、サマワ

詳しくはリンクのサマワリポートをご覧ください。

2010年9月6日月曜日

メモ:陸自への自爆攻撃警告

参考資料として当時の報道を貼ります。オリジナルリンクはもう切れていますのでご了承ください。当時ワリードと数週間連絡が取れず、この報道もあり焦ったことを思い出しました。

2005年11月21日、共同通信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051021-00000272-kyodo-int
陸自への自爆攻撃警告 サマワでサドル師派
 【サマワ21日共同】陸上自衛隊が駐留するイラク南部サマワでイスラム教シーア派の反米指導者サドル師派の代表を務めるムハンナド・ガラウィ師は21日の金曜礼拝で、「友好と称してイラク人と関係を持とうとする日本人にはわたし自身が自爆攻撃する」と警告した。
 サドル師派は、以前から陸自を「占領軍」とみなし撤退を訴えていたが、これまでにない強い表現で敵意をあらわにし陸自撤退を要求、イラク人が日本人と友好関係を持つことも禁じた。
(共同通信) - 10月21日22時21分更新
陸自への自爆攻撃警告サマワでサドル師派
 【サマワ21日共同】陸上自衛隊が駐留するイラク南部サマワでイスラム教シーア派の反米指導者サドル師派の代表を務めるムハンナド・ガラウィ師は21日の金曜礼拝で、「友好と称してイラク人と関係を持とうとする日本人にはわたし自身が自爆攻撃する」と警告した。
 サドル師派は、以前から陸自を「占領軍」とみなし撤退を訴えていたが、これまでにない強い表現で敵意をあらわにし陸自撤退を要求、イラク人が日本人と友好関係を持つことも禁じた。
 ガラウィ師は集まった数百人の支持者に対し、「日本人の友達がいるといって、自宅に招こうとすることは禁止する」と訓示。「占領軍のメンバーと取引し、友達だといって彼らを自宅に招くやつを数え上げろ」と呼び掛けた。
 サマワでは7月、日本友好協会会長だったアンマル・ヒデル氏が、多数のサドル師派を含むデモ隊の一部に「日本人との付き合いをやめなければ店を爆破し、おまえを殺す」と脅迫を受けた後、経営する宝飾店が爆破されていた。事件を受け、協会も解散した。

*管理人補足:
アンマル・ヒデル氏が自分の店のあるアーケードに「ようこそ」という横断幕を掲げたのは2003年12月のことでした。宝飾店主で協会の会長というとあるイメージが喚起されますが実際の店は3人も入ると動くスペースもない狭い極小の店で、彼自身は単純な善意で横断幕を作ったのではと思います。

手記11:バグダッド脱出

荷物をSUVに積み込み最後に子どもたちをのせるとすぐに床に寝そべらせました。そして冬の早朝のバグダッドの街へクルマを走らせました。両親の家はすぐ近くで父だけがわたしたちの出発を見つめていました。
幸いにもその日は朝靄で薄暗く、監視がいてもわたしのクルマを見分けるのは難しかったでしょう。
わたしは銃を用意していました。当時のイラクでは誰もが武装していましたが、ミリシア(民兵)を動員しての本格的な宗派間戦争にちっぽけなピストルが役に立つとは思えませんでした。それでも家族を守るために弾丸をこめました。
目的地まではふつうなら3時間で行けましたがこの日は満載した荷物に悪天候のため最大限の安全運転で6時間かかりました。
妻はシリアの国境と検問が見えてくるのを予想していました。数時間後に出むかえたのは「サマワ市」の案内標識でした。その時に至るまでわたしは妻にサマワ行きを知らせていませんでした。
妻はようやくわたしの計画に気がつきました。もし妻に話していたら妻の口から妻の親族に伝わったことでしょう。その先どこまで話がもれるかわかりません。どうしても秘密にしておかなければならなかったのです。


管理人補足:イラクは戦争前は銃の所持は許可されていました。戦後は政府が崩壊、無法な世界を生きるため市民は自衛のため武装しました。軍の武器庫からの大量流出もあったといいます。2003年に道ばたで自動小銃が100ドル、ピストルが150ドル程度で売っていました。ワリードの家、彼の部屋でピストルを見せられたことがあります。持ち歩いたりしないのか?と聞いたところ「持っていると使おうとする。かえってそのほうが危険だから自分は持ち出さない」と話していました。ワリードを含めほとんどのイラク成年男性は軍での武器操作の経験があります。武器の怖さをよく知っているのだと思います。

2010年9月5日日曜日

手記10:両親との別離

シリアへの脱出を決め準備を始めました。
その頃すでに多くの家族がバグダッドから脱出を試みていましたが、かなりの人数が市内を抜け出すところで殺害されていたのです。脱出には幸運も必要でした。
ところが両親までも脅迫を受けてしまったのです。
これは一族にとっても戦争でした。わたしたちは戦争をやり過ごし戦争から生き延びねばならないと決意しました。
病弱な母にはわたしたちのプランを告げずに夕食に招きました。わたしたちが家族から離れることを知った場合母はおそらく悲しみにくれるでしょう。そして親戚や隣人に黙っていることは出来ないはずでした。計画は誰にも知られてはならなかったのです。
わたしは家族のそろって写る何枚もの写真を撮りました。

わたしと妻は両親が帰るのを待ち脱出の準備を進めました。当時バグダッドでは夜間の戒厳令で、外出が許される朝の5時まで6時間しかありませんでした。それまでにで全ての荷造りを済ませました。父は同行したいと行ってきましたがわたしは断りました。二人同時に失うよりは一人だけのほうがまだましでしょう。
かわりに父に頼みました。「わたしが殺されたら子どもたちを頼みます」
わたしは死を覚悟していました。しかしせめて家族のいる家では殺されたくはなかったのです。

手記9:殺されないために。シリア脱出計画

翌朝、サマワでカメラマンとして働いたことのある友人に相談しました。
サマワのわれわれの事務所の責任者も誘拐された。これからの仕事も続けられるかわからない。自分も脅迫され家族も一人ずつ殺すという。
イラクからすでに多くの市民がシリアに逃れているが誰も仕事をみつけられずカネばかりかかっているという。しかしもうイラクは無理だ。すぐにでも家族をバグダッドから離したい。
検討の結果、家族をいったんサマワの信頼できるエリアに移し単身シリアに渡り移住の準備をすることになりました。
バグダッドでは住人の誰が敵対しているかわからず、計画は注意深く秘密のうちに進めました。

*管理人補足:ワリードの住んでいた町はスンニ派シーア派混在エリアでしたがシーア派武装組織が勢力を伸ばしスンニのワリード一家は圧迫を受けるようになります。
数年後ワリード夫婦の家はワリードが服役中に妻が生活費のために売り払いました。ワリードの実家はスンニが住むには治安が悪すぎて家族はいまだ戻ることができません。

手記8:家族に届いた脅迫状(続き)

母が現れ叫びました。「ワリードを入れてはダメ」
わたしはなんとか安心してもらおうと早口で説明しました。「クルマは遠くに止めてある。ここまではバスで来た。暗くなってから来たから誰にも見られていない」
「おお、神がワリードとともににおわすだろう。ドアを開けよう」父はわたしの強い願いを拒めず家に招き入れてくれました。

わたしは家に入りました。家族のみなから抱きしめられました。そして誰もが涙を流しました。
父はこれまでもわたしの仕事に不満を持っていました。日本人との仕事がわたしの身に危険を及ぼすからと非常に心配していました。そのことで父は常にわたしを責めていましたが、あらためてわたしを責め始めました。
「わかっているのか?今の危機はおまえ自身が招いたのだぞ。家族まで危険に巻き込んでいるではないか」


一番小さな息子が玄関前に投げこまれた封書を見つけました。それが脅迫状でした。
偉大なるアッラーの神の名のもとに背信者かつスパイであるワリードに告げる。と文は始まっていました。
われわれはお前が異教徒の軍の占領に協力する日本のメディアで働きプロパガンダを行っていることを知っている。
自衛隊はアメリカ支配の協力者だ。
我々はお前とお前のスタッフらに警告する。すぐに日本メディアへの協力をやめること。さもなくばアッラーの名において殺害を宣告する。

わたしはアタマが真っ白になりました。

父は国外に出てはどうかと言ってきました。どこの国に行けばよいのか当時イラク人を受け入れる国はシリアだけでした。

手記7:家族に届いた脅迫状

2006年、引き続きサマワに駐在し自衛隊の活動を追っていました。家に帰るのはほぼ2週間おきでした。四番目の子どもが生まれたばかりで家族に会うのは楽しみでした。
1月の中ごろでした。父から連絡がありました。
「たいへんなことが起きたが家には帰ってはいけない」
いったいどういうことでしょう?父が言うには家族は無事だといいます。「バグダッドに戻っても家には近づいてはいけない」それ以上のことは電話では聞き出せませんでした。
サマワからバグダッドまではおよそ300キロ離れています。たいへん気をもみながらクルマを走らせ日没の2時間前にバグダッドに着きました。来るなと言われても行かないわけにいきません。子どもたちに妻に会わないではいられませんでした。
わたしは家族と会うための計画をたてました。
父や兄弟とは別に隣町に家を借りて住んでいましたが自分の家には立ち寄りませんでした。父との電話では子どもたちはすでにわたしの家から両親の家に連れて行かれ安全だということでした。同時にその受話器ごしに聞こえてきたのは「ワリードを家に入れないで!」という家族たちのおびえた声でした。
その頃すでにイラク中で多くの人々が理由もなく殺されていました。自分個人の関係でも善良な友人らが40人以上も殺されていました。
あたりが暗くなるまで時を過ごしました。そして家の近くまでしのび寄り父に電話を掛け到着を告げました。驚いた父は家に入ってはいけない、お前が殺されると言いました。その時、危険にさらされているのは家族ではなく自分がターゲットなのだとわかったのでした。
私は神に祈りながら家の前の街灯に姿をさらしました。父が現れ即座に門扉を開けてくれました。
(写真:銃弾が貼られた脅迫状)

2010年9月4日土曜日

手記6:サマワ。脅迫と誘拐

自衛隊のサマワ派遣と時を同じくしてシーア派有力グループのサドル師派がサマワでの活動を強化しました。
日本テレビはサマワに事務所を開き常駐スタッフを置くようになります。責任者は有能な男で日本語とアラビア語を流ちょうに話しました。
2004年暮れから翌年にかけサマワ事務所は脅迫を受けます。日本テレビはスタッフをバグダッドに移動させることにします。
2005年1月中旬、サマワの責任者は拉致されました。彼はまだ見つかっていません。
彼の母親はバグダッドに住んでいて息子を探し続けています。
わたしは彼の後任としてサマワで常勤スタッフになります。自衛隊の取材はたいへん厳しい仕事になりました。
そしてわたしも同じように殺害予告を受けることになります。

その年2005年、宗派間の対立が激化しました。一説ではアメリカが自らが攻撃対象ににならないために宗派間の対立に火を付け加速させたとあります。

手記5:サマワ、劣化ウラン弾発見

2003年12月9日、フォトジャーナリストと沖縄平和市民連絡会をガイドしたサマワで、劣化ウラン弾の使用を裏付ける破壊されたキャノン砲を発見しました。彼らが持参してきたガイガーカウンターで確認をしました。ユーフラテス河沿いの道の脇の広場で見つかりました。対岸はすぐサマワの街でした。戦争時サマワは戦闘を否定しバグダッドに向けて進軍するアメリカ軍を素通りさせた、よって組織だった戦闘はサマワでは起きず劣化ウラン弾も使用されていないと言われていました。
わたしは2004年の始めから不定期にサマワに入るようになりそして2005年から常駐するようになりました。
自衛隊の派遣と前後するようにサドル師派はその活動を始めました。外国企業や外国軍隊への抵抗活動でたいへん危険な状況になりつつありました。過激な行動で知られるのがサドル師派であり数々の暴力事件をおこした直属のミリシア(宗教私兵集団)、マフディー軍です。
はじめ自衛隊が来た頃のサマワは静かとも言えました。
しかし自衛隊は復興の約束を守れませんでした。時間がたっても何も変わりませんでした。
サドル師派は抵抗活動を始め 住民らの不満をもとに組織行動し自衛隊にサマワから出て行くように警告を発しました。
わたしは仕事と同時に生き延びるため二倍の努力が必要でした。
治安は目に見えて悪化してきました。
どんな小さなミスも死に直結するやもしれませんでした。自分だけでなく取材チームにも危険は及んでいました。実際にサマワ事務所の責任者は命を落としたのでした。
日本テレビは2005年から取材拠点として市内に借りていた事務所を、ミリシアに目をつけられることを警戒して何度か場所をかわりました。多くの武装ガードマンを雇っていました。
日本人スタッフはミリシアから脅迫を受けると現地スタッフには黙って素早く逃げ出しました。残ったイラク人らはなぜ急に日本人がいなくなったかわからないのでした。
続き・・・

手記4:マスコミへの協力。そしてサマワへ。

イラク政府は2002年に一部外国人旅行を解禁しました。
生活のためパートタイムで旅行ガイドとして働き始めました。
しかしその年の終わり頃からアメリカがイラクに難癖をつけてきました。その頃のことはみなさんもご存じと思います。
もちろん半年以上に及ぶ国連の査察でも大量破壊兵器は見つかりませんでした。しかしアメリカはイラクの周辺国に部隊を配備しイラクは包囲されるようになっていました。観光の仕事などはなくなりガイドとしての仕事は2003年1月まででした。
一方で戦争取材のマスコミは押し寄せるようになりました。わたしは通訳として日本テレビに雇われました。
わたしがあの戦争から生き延びられたのは奇跡のようなことだと思いました。4月8日昼取材班が滞在し拠点となっていたバグダッド市内の高級ホテルが米軍により攻撃されたのです。まさに隣の部屋が砲撃されジャーナリストらの死傷者が出ました。すぐさま駆けつけたのですが室内はむごたらしい状況でした。
4月20日、バグダッドは静かになりました。米軍はイラクを占領し続けました。
その年の暮れ、自衛隊がイラクに派遣されることが決定し、日本のテレビ局からはサマワに行くようにとの電話がはいりました。

2010年9月3日金曜日

手記3:NGOとの協力

軍役の後貿易省に職が決まりエンジニアとして働きました。湾岸戦争が終わって数年たっていてもイラクの経済は疲弊したままで、インフレと物価高で公務員の月収10ドルではとても生活ができませんでした。そのころは医者や学校の先生でさえ月給だけでは生活ができず勤務後にタクシーの運転手などして生活を補うのがあたりまえでした。
月収10ドルでは輸入品のクスリからクルマの部品ひとつさえ買えません。わたしはやむなくタクシーのドライバーになりました。外国のNGOとの仕事をメインにするにはまだ不安定でした。
病院への定期的な訪問と支援で主に子どもたちの病気の増加など変化が目に付いたのが90年代なかばでした。劣化ウランという言葉を聞くようになりました。
イラク保健省、赤新月社との交渉などをとおしてアメリカやヨーロッパのNGOとも仕事をするようになりました。
湾岸戦争と前後して始まった経済制裁によるイラク人の苦しみはわたしも味わっていましたが、会の活動で訪問した小児病院での医薬品不足による悲惨な様子はイラク人であっても、身内に子どもや障害者がいなければ知る機会がなくわたしにとっても驚きでした。
劣化ウランによる被害は当初はサダム・フセインのプロパガンダと決めつけられ、なかなか認知されませんでした。
日本の支援NGOのイラクでの活動は1〜2年間ですでに去っておりその後も定期的に活動していたのは「アラブの子どもとなかよくする会」ぐらいだったはずです。
1997年イラク政権の方針が変わり海外NGOのイラクでの活動が制限されるようになりました。バグダッドがアメリカの制裁による空襲を受けた年でもあります。NGOはイラクでの活動をあきらめさらに撤退していきました。
諸説ありますが1990年の国連(アメリカ主導)の経済制裁によるイラク人の死者は120から170万人に及ぶと言われます。その大半は乳幼児でした。

日本では劣化ウランや経済制裁によるイラクの困難が知られるようになり、一部のジャーナリストがイラクに目を向けるようになり支援活動と並行して通訳・ガイドの仕事を引き受けるようになりました。イラク戦争が近づいて来ました。

手記2:日本人との出会い

1993年のことでした。当時まだ兵役中で勤務の合間、小都市ヒッラでの商店街で買い物をしていました。おおくの人だかりの中になにやらアジア人らしき女性の姿が見えました。その女性は何かを訴えているのですがアラビア語をしゃべれない様子でした。周囲の人々も彼女の言葉を理解できません。当時のイラクは湾岸戦争の直後で世界中からつまはじきされており外国人がたいへん珍しかったのです。しかもアジア人であり女性でした。わたしも好奇心にかられ英語で話しかけていました。彼女は英語で呼びかけられたことで安心した表情を浮かべたように見えました。
バスでバグダッドに戻りたいとのこと、そして日本から来たということがわかりました。なんということでしょう。首都バグダッドでさえもめったに会ったことのない外国人なのに地方のヒッラでしかも日本人に会うとは!
その頃のイラクは貧しいけれど安全でした。バグダッド行きのバスを待つまでにその日本女性はわたしに名刺をくれました。それまで名刺などもらったことがありません。自分でも名刺を持っておらず彼女のノートに自分の名前と連絡先を書きました。
アラブのこどもとなかよくする会という東京のNGOに所属する伊藤さんは91年からイラクの子どもたちへの医療支援や文化交流をしていました。
わたしはちょうどそのころ軍役が終わりかけていたころであり、機会があれば活動の協力もできそうでした。まずはパートタイムのドライバーとして、そしてアラビア語通訳として会の活動を手伝うことから始まりました。

ヤヒヤとスカイプ

さきほどヤヒヤと話が出来ました。ふだんワリードはバグダッドの友人の事務所のパソコンから連絡してきます。金曜は休日で連絡がとれません。これまでヤヒヤとの会話を望んでいたのですが今回は実家からのスカイプでした。ノートパソコンを借りることができ、固定回線はないもののWi-Fiがカバーされたそうです。おかげでヤヒヤの動画を見ることができました。
ヤヒヤは現在家族とドーラに住んでいます。なぜワリードやほかの兄弟姉妹と離れて住むようになったのかわわかりません。まだ体に変調があるそうです。
 家に来客があり「英語の会話を聞かれてはまずい」となり会話は突然終了になりました。

2010年9月1日水曜日

手記1:日本との出会い

わたしにとって日本は特別な国でした。10歳のころ見たテレビアニメ「サスケ」そしてシロクロでしたがサクラの花と日本女性の美しさをグラビアで見ることがありました。高校生になった1980年代後半には親戚が日本のイラク大使館に勤務したこともありさらに文化だけではなく日本の生活やすぐれた自動車や電気製品についても知ることになりました。いつのまにか日本に強い関心を持つようになっていました。
わたしはイラクの貧しい村で育ちました。父は電気技術者でした。貧しく生まれた父は十分な教育を受けることができず、独学で学んだぶんわたしたちにはできるかぎりの教育を与えてくれました。
1980年から隣国イランとの戦争が始まりました。青年たちにとって、前線に送られないためには大学などに進学することでした。わたしは91年に大学工学部を卒業しましたが兵役を逃れることはできませんでした。貧しかったため兵役逃れの罰金を払うこともできませんでした。
大卒のイラク人技術者としては兵役を終えないと社会から認められたポジションにつくことができませんでした。選択の余地はありませんでした。一年早く卒業していたら湾岸戦争に送られるところだったので幸運だったかもしれません。
わたしはイラク共和国軍に入隊し戦車の操縦士になりました。1年8ヶ月の兵役でした。成績がよかったためか士官として軍隊に残るように勧誘されましたが父は軍を好まず除隊することになりました。

ワリードが手記を書いています

ワリードが日本人と出会ってから17年になります。湾岸戦争直後からイラク入りし活動していたNGOの貴重な協力者でした。その頃のイラクでは日本以外でもかぎられたごく少数のNGOしか関心を持たず活動をしていませんでした。ワリードほど湾岸戦争後からイラク戦争、そして今にいたるまで日本の市民レベルと関わってきたイラク人はいないと思われます。湾岸戦争からの激動の時代のイラクを日本人との関わりを通してワリードが語ります。

ワリードは母国語ではない英語で原稿を書いています。和訳も素人のブログ管理人によるものです。これまで米兵からの暴行など口頭での話は聞いていましたが、そのまま書くことは躊躇していました。

2010年8月30日月曜日

イラク医療事情(ガン治療)

ワリードの親友でもあるイラク人からメールが来ました。兄弟3人がつづけざまにガンになったそうです。部位は肺、胃など異なっています。インドで治療を受けています。イラクでの医療は不十分なのはわかるのですがなぜ隣国ヨルダンではないのでしょうか。ワリードによるとインドは近年急激に医療レベルが上がっており医療費をふくめメリットがあり多くのイラク人がインドに向かうそうです。
 なおイラクの友人は技術者ですが、ガンの原因は戦争と結びつけてはいないとあえて書き添えてありました。イラクは長い間工場などからの廃棄物の制限が不十分で国土が汚染されているせいだとありました。

2010年8月28日土曜日

ガソリン事情

スカイプで話していたところ、きょうは早くに家に帰るとのこと。奥さんから電話があり発電機が不調で井戸の水が出ないので修理しなければならないと。ひどい暑さで子どもたちには水が必要(大人はラマダンで日中は水をがまんです)。「家まで一時間?」と軽く尋ねたところ「3時間かかる」。たしかワリードの村には1時間で行けたはずです。なんとガソリンを入れるのに2時間並ぶのだそうです。ブログ管理人も2003年の11月からのガソリン不足を経験しましたがその後7年も続いているとは予想もしていませんでした。

2010年8月25日水曜日

バスラのタラル

ワリードとも面識があり日本人とも交流のあったタラルの近況です。
大混乱の数年を生き延びています。
最近はスカイプをとったので連絡が安定しました。
昨年はコンピュータの専門学校に通っていて、かなりポジティブな印象でした。もちろん治安がよくなったという前提です。
2005年ころ民兵組織から脅迫を受け、バグダッドに逃げたもののそこも危険になりバスラに戻りますがやむをえず家族と離れ身を隠していました。昨年から家族ら(母親)と一緒に暮らしています。スカイプ動画でも姪の子どもの姿が映っていました。
バスラも爆弾事件が続き被害者が出ているもののバグダッドよりはよほど安全だと言っていました。現在はタクシードライバーをしているそうです。
100MBのブロードバンドが月に70ドルだそうです。昨年はふつうの電話回線でした。イラクのインフラもどんどん変わっていきます。

2010年8月22日日曜日

拘束の状況



本日送られてきた写真は米軍がワリードの家に突入してきた際のものでした。2007年2月28日、夜の11時。ドアには3発の銃痕があります。米兵は英語でまくしたて撃ったそうです。対応した義理の兄は英語が通じずたいへんなパニックだったそうです。

拘束時の状況、米軍による取り調べ、収監などワリードがじょじょに話しはじめています。またワリードがレポートにまとめているところでもあり、あらためてご報告できると思います。

*訂正;義理の兄ではなく弟でした。

2010年8月18日水曜日

サマワリポート2006

ワリードと話をしていたところ米軍にPCを押収されたため写真の大半を失ってしまったそうです。ワリードがサマワから送ってきた写真ならHPとして公開してありました。ワリードが撮りためた写真の一部でしかありませんが。
リンク先に追加しました。
(当時、ワリードのセキュリティを考慮し名前をアリードと変えてあります) 
なお米軍に押収されたカメラなど一部は来週に返却されるそうです。米軍が発行した公式の書類で押収品リストを見ましたが映画「ヒバクシャ」のビデオがありました。ワリードは多くのジャーナリストのサポートをしたため写真集など多数持っていたはずですがそれらはリストにはありませんでした。

2010年8月11日水曜日

ラマダン

今日からラマダンです。のどが乾くしアタマが痛いとワリードがスカイプからチャットしてきました。2003年にブログ管理人もイラクでラマダンをフルに体験しましたが10月中旬からの2ヶ月間でした。その際ワリードが「何年か先の真夏のラマダンほど苦しいものはない、そのころには涼しい国外に出ていたいものだ」と話していたことを思い出しました。停電(毎回ですが)のためシャットダウン、チャットも会話も長くは続きません。

2010年8月6日金曜日

ワリード近況

ワリードから写真が送られてきました。
刑務所が不衛生なうえ高温多湿だったため皮膚病にかかってしまい写真でもわかるように右目にトラブルがあります。

2010年7月31日土曜日

酷暑のバグダッドと物価高

ワリードによるとガソリンが1リッター1ドルに値上がりしたとのことです。数週間で二倍近い値上がりで生活が非常に厳しいそうです。
戦前のイラクではガソリンは1リッター1円でした。当時は給与水準が低いので単純に比較して安いとはいえませんが食糧など生活必需品の配給があったりでなんとか生きていけたともいえます。
ガソリンが100倍に値上がりして収入も100倍になったのでしょうか。

2010年7月26日月曜日

気温53度!

スカイプでのワリードとの会話によるとバグダッドの気温は50度を突破したそうです。戦後からの電力事情はあまりかわらず停電は続いています。発電機は必需品で燃料のガソリン代が負担だそうです。

2010年7月20日火曜日

ワリードの悩み

ワリードが拘束された当時一歳だった次女は釈放時には三歳になっていました。
再会したときは、知らないひと!と大泣きされたそうです。
「もう3ヶ月たつのにまだ父親だとわかってくれない」
ワリードの悩みは尽きません。

2010年4月17日土曜日

カンパと弁護士費用

いただいたカンパは家族に送金(アンマンでワリードの友人に手渡し)し家族はその全てを弁護士費用にあてました。
総額で約6,000ドルの弁護士費用がかかりました。これについて弁護士など役に立たないのではないか?という疑問の声をいただきました。
連絡会では以前から直接弁護士に連絡をとり経過や様子について知るべきではという意見がありました。また費用の妥当性についても納得できるような情報も必要でした。
しかし前提として弁護士はワリードの考えで雇ったものです。こちらとしてはワリードの意図に沿って支援をするとすれば経済的に苦しい家族に協力して弁護士費用を送ることでした。
また6,000ドルというのは何人かのイラク人に聞いてみたところ兄弟3人分としては妥当ではないかということでした。しかし役人へのワイロに使われるとも指摘されました。しかし家族はイラク人ですがどの役所のどの役人にワイロを渡せば効果があるのかふつうわかるはずがありません。やはり手数料を取られたところで弁護士にまかせるしかないわけです。
弁護士との直接連絡は、外国人が支援しているとわかると足下を見られぼったくられる、という意見もあり、また弁護士は英語が話せないという情報もあって直接の連絡は控えました。
ほかにワリードと共通の知り合いでもあるアメリカ人女性キャシー・ケリー(ノーベル平和賞候補者)とも相談し国際赤十字人権委員会などにも頼りましたが具体的な結果は出ませんでした。あとでわかったことですがワリードも赤十字に手紙を書いていました。30万人とも言われる受刑者に対して支援する側は少なすぎたのです。
管理人:いその