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2016年1月23日土曜日

ワリードが紹介されました。

日本での難民申請をあきらめ、出国前に京都を訪れたイラク人のワリードさん=2012年6月、アジアプレス大阪の玉本英子さん撮影
 バグダッドでエンジニアだった彼は、得意の英語を生かし外国の支援団体やメディアで通訳ガイドとしても働いてきた。日本のテレビ局のイラク取材でも何度 も通訳を務めた人なので、彼の関わったニュースを見た人も多いと思う。私も以前バクダッドでお世話になったことがある。浅黒い顔と鋭い眼光だが、笑うと顔 をくしゃっとさせて愛らしかった。
 彼はいくつかの外国メディアに協力したとしてイラクの武装組織から殺害予告を受け、家に脅迫状が届くようになった。2011年、商用で来日したワリードさんは、そのままイラクに帰国せず、難民申請を行なった。
 私は東京までワリードさんに会いに行った。彼は「ダイジョウブ」と笑顔で言った。関東でうまくやっているんだと思った私は、それ以降、頻繁に連絡はしな かった。1年後、「来週イラクに帰ります」と突然メールが届いた。難民申請は審査結果が出ないまま何カ月もたった。支援などに支えられ生活してきたが、い つまで待ち続けなければならないのか不安は募り、帰国を決めたという。「日本の難民制度の壁は厚かった」。遠い異国の地、日本に暮らす彼の心情に思いを寄 せてこなかった自分を反省した。少しでもいい思い出を残せたらと、京都旅行に招待することにした。
 京都にやってきた彼をレンタル着物に着替えてもらい、私の友人の案内で清水寺などをまわった。「着物似合うてはるよ」。道すがら声をかけられた。バスの 席では、彼が座った隣のすき間に、おばちゃんがお尻を割り込んできた。それがうれしかったらしい。「中東系の顔をした僕の隣に座ろうとする人なんていな かったから」。先斗町のおばんざいの店では、お客さんが赤ちゃんを抱かせてくれた。イラクには幼い子どもたちがいる。彼の瞳は潤んでいた。
 いったんイラクに戻ったワリードさんは、カナダを目指すが途中で送還される。再度出国し、昨年9月、17歳の長男とともにトルコを経由してゴムボートでギリシャに渡った。そしてヨーロッパ数カ国を移動して、フィンランドにたどり着いた。
 いま彼は、町から離れた森の中にある難民収容施設に仮滞在している。町に出たとき、地元の男たちから侮蔑的な言葉を投げかけられ、不安に駆られたとい う。混乱に陥ったイラクでは命の危険にさらされ、庇護(ひご)を求めて難民になった先では厄介者扱いされる。「自分のせいでこうなったわけではないの に……」。ワリードさんの思いはイラク、シリアから命がけで脱出する人びとの共通の思いでもある。生まれ育った故郷を奪い、隣人関係を引き裂いた戦争は今 も続いている。
 まだバグダッドには妻と子どもたち6人が暮らす。フィンランドで言葉を覚えて仕事を見つけ、一緒に暮らしたいと願っている。<文と写真・玉本英子>

 ■人物略歴

たまもと・えいこ

 1966年生まれ。アジアプレス大阪所属。2001年からイラクに通い、内戦下のシリアも取材している。

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