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2011年9月28日水曜日

ワリード支援とJIM−NET

 ワリード来日後、とくにこの一ヶ月デリケートな折衝がありその詳細はここで書くことができませんでした。
今後はJIM−NETなど大手NGOがワリード支援にあたることになりました。ワリードは以前彼自身が希望したとうり福島に震災ボランティアに行くようです。

ワリード兄弟救出連絡会は役割を終えることになりました。
連絡会としてワリード釈放までは一定の役割を果たしたと思います。金銭的支援は昨年の2月の釈放時までで以降は振り込み口座を停止しました。
いまだワリードの末弟アリは服役中です。アリにたいしてはワリードからの具体案のないことのままに連絡会としての対策を打ち出せませんでした。
救援という言葉はワリード釈放後の「連絡会」の実態をあらわさずおこがましいのでこれを機にあらためます。
今後は「ワリード兄弟イラク通信」としてワリードの近況を軸にイラク問題の時事的な情報をアップしていくつもりです。
なお管理人の都合につきこのブログの更新を10月11日まで休止します。

2011年9月25日日曜日

「報道されなかった湾岸戦争」1992年影書房刊


「報道されなかった湾岸戦争」写真集編集委員会編。
 当時、イラクとイラク戦争に関する情報は圧倒的にアメリカから伝えられるものばかりでした。まさに報道されなかったイラク側からの戦争被害を伝える写真集です。
イラクではフィルムも印画紙も現像のための薬品も不足していました。 デジカメもネットもアルジャジーラといった報道機関も存在していませんでした。

湾岸戦争と日本山妙法寺

 1991年1月湾岸戦争が始まり(前年8月にイラクがクウェートに侵攻)世界中から反戦の動きがありました。いくつかの団体や個人がヨルダンやサウジを拠点にして活動を始めました。日本からは妙法寺の寺沢さんが駆けつけました。
戦下の中ガルフピースチーム一員(ノーベル平和賞候補、のちに荒野の声を主催したキャシー・ケリーもメンバー)としてイラク入りし体を張って終戦の仲立ちをしようとしました。寺沢さんが帰国し伝えた情報は日本での反戦と支援の動きにつながり終戦間もない3月にはPAN(ペルシャ湾の命を守る市民ネットワーク)が支援団を派遣することができました。寺沢さんの活動がなければおそらく支援の動きははるかに遅れた、あるいは成立しなかったのではないかと思います。ワリードが初めて出会った日本人はPANの後継団体として活動していたメンバーでした。PANは92年に解散しましたがその流れはまだイラク支援に引き継がれています。

寺沢さんはイラクの後拠点をチェチェンに移しこの数年はキルギスを中心に活動をしています。

写真:日本山妙法寺卯辰山仏舎利塔と寺沢正人(撮影2008年)

ケータイ紛失顛末記「警察で殺されずケータイが戻ってきた!」by ワリード

どんどん日本を好きになっていきます。昨夜、ケータイを失くしてしまいました。あきらめることもできず、近くの赤羽駅の交番に行きました。夜の11時をまわっていました。英語が通じませんでしたが交番の警察官にはどこかの部署に電話を掛けてくれました。相手先のひとは1時間もかけてあれこれ調べてくれました。わたしが失くした時間帯ではいくつものケータイがすでに届けられていて赤羽警察署に保管されていることがわかりました。
その赤羽警察署は赤羽駅から歩いて20分ほどかかりました。すでに時間は12時半になっていました。真夜中です。教えられた場所の建物は警察署なのかはっきりしませんでした。イラクでは警察は大きく威圧的な建物で敷地には数台のパトカーが何台も停められているものです。
こんな遅い時間なのにジョギングをしている男性がいました。尋ねたところ目の前の建物がやはり警察署でした。場所はわかったものの時間も遅くわたしは歓迎されざる人間ではないかと不安になりました。
エントランスを覗いててみましたが誰もいません。やはりイラクなら数名の武装した警官が立ち番をしているものなのです。ちょっと上を見上げてみると警察の星のような看板が掲げられていました。パトカーが停まっていることにも気がつきました。この建物は警察署で間違いありません。
しかしながらわたしは建物にはいることにためらいました。警察署に入るには許可証がいるのでは?わたしはただ失くしたケータイのことを聞きに来ただけです。呼び鈴もないのでそのまま中に入ることにしました。わたしは足を止めました。こんな夜更けに勝手に中に入ることができるのがおかしい。警察署に警備がいないなんて異常な話です。たまたま警備がいないだけかもしれません。イラクでなら場合によっては命に関わる要注意な状況です。バグダッドで間違いで入った建物の武装セキュリティに殺されてしまう事故が多発しているのです。今にも誰かが現れてわたしを呼び止め不審者と見誤って銃を撃つかもしれません。


*ワリードの弟(四男)は警察に連行されたあとミリシアに殺害されています。手記14
(管理人より補足)

2011年9月24日土曜日

ロスト アンド ファウンド

ワリードがケータイを無くしました。あわてて連絡してきたのですが警察に届けるということに思い当たらなかったようです。「もう無理だ、見つからない」とへこんでいました。翌日ちゃんと交番に届いていました。日本はすばらしい国だと感心するワリードですがイラクではやらないような不注意になっているかもしれません。

2011年9月20日火曜日

Waleed in Tokyo



来日して2ヶ月以上になります。帰国を考えています。

2011年9月7日水曜日

2011年9月4日日曜日

写真


 ワリードがいつも持っている写真です。2006年脅迫されバグダッドを脱出する前日に写した母と孫たちです。ワリードと妻子はサマワへ。後日両親らはツアイサ近くの村へ移住します。


手記10:両親との別離
シリアへの脱出を決め準備を始めました。
その頃すでに多くの家族がバグダッドから脱出を試みていましたが、かなりの人数が市内を抜け出すところで殺害されていたのです。脱出には幸運も必要でした。
ところが両親までも脅迫を受けてしまったのです。
これは一族にとっても戦争でした。わたしたちは戦争をやり過ごし戦争から生き延びねばならないと決意しました。
病弱な母にはわたしたちのプランを告げずに夕食に招きました。わたしたちが家族から離れることを知った場合母はおそらく悲しみにくれるでしょう。そして親戚や隣人に黙っていることは出来ないはずでした。計画は誰にも知られてはならなかったのです。
わたしは家族のそろった写真を何枚も撮りました。

わたしと妻は両親が帰るのを待ち脱出の準備を進めました。当時バグダッドでは夜間の戒厳令で、外出が許される朝の5時まで6時間しかありませんでした。そ れまでにで全ての荷造りを済ませました。父は同行したいと行ってきましたがわたしは断りました。二人同時に失うよりは一人だけのほうがまだましでしょう。
かわりに父に頼みました。「わたしが殺されたら子どもたちを頼みます」
わたしは死を覚悟していました。しかしせめて家族のいる家では殺されたくはなかったのです。

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