2011年8月28日日曜日
2003年5月ワリードの兄ヤヒヤ、ツワイサで核被害を語る
市民団体のガイドをするヤヒヤ。
この数年後バグダッドから逃れこの近くの村に住むことになります。
当時オシラク原子炉研究所はまだ米軍基地化されていませんでした。2008年ヤヒヤたち兄弟が逮捕され拘置されたのが研究所敷地(広大です)にできた米軍基地でした。
映像でヤヒヤが発言した病院のサルマンパックとは近くの町の名前です。右バー下地図参照。
現地を訪問したのは終戦から一月たらずのころです。核による被害はそれ以前の話です。1991年の湾岸戦争、1981年イスラエル空軍によるオシラク原子炉の爆撃による放射線が原因のひとつではないでしょうか。もちろんイラク政府がどのように核物質を管理していたかも定かではありません。地域の住民は何も知らされず知識もなくゆえに戦後オシラク原子力研究所から容器目あてのドラム缶を持ち出すことになります。それにはイエローケーキがはいっていました。
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2011年8月27日土曜日
Dear Haitham 2003年10月末
アンマンの薬剤師ハイサムです。動画シーンは買い付けした医薬品をクルマに積み込みアンマンを出発するところ。国境を深夜に越え、バグダッドに朝到着します。
一昨年、カンパいただいたワリード支援金をイラクを送るためにハイサムの協力がありました。当時銀行送金は不可能でした。アンマンで活動している連絡会メンバーが、ヨルダンとバグダッドを行き来するワリードの知人に現金を手渡ししイラクの家族まで届けてもらいました。タイミングがあわなければイラクに入るワリードの知人が来るまでハイサムに預かってもらいました。そのワリードの知人もイラクに住み続けるのは困難で今年ヨーロッパに脱出しました。
2003年ラマダン中のある夜(音量注意)
夜の11時半。戒厳礼は解除されてましたが危険なのは変わらず夜間外出するひとはいません。停電のためホテルは真っ暗。外も一部の自家発電以外は暗闇です。突然ホテル周辺のあちらこちらから銃声が響きました。米軍への一斉蜂起か!と緊張しました。いよいよバグダッドで内戦か、と。
画面中央斜めの白いコンクリートは昨年襲撃された教会です。
画面中央斜めの白いコンクリートは昨年襲撃された教会です。
おまけ映像。2003年5月。バグダッドに向かうハイウエイで砂嵐多重衝突
医薬品など物資を積んだ別の一台は玉突き衝突に巻き込まれました。バグダッドの街中で砂嵐は経験していましたが砂漠ではまったく別物でした。
翌日バグダッドは電話もネットも通じず記憶を頼りにワリードの家を探しだし戦後初めて再会しました。
翌日バグダッドは電話もネットも通じず記憶を頼りにワリードの家を探しだし戦後初めて再会しました。
2011年8月26日金曜日
1998年ドキュメンタリ「イラク、戦禍にみまわれた子供たち」後編
容量制限のため 7分の1に画質をエンコードしてあります。
2003年12月ワリードとサマワで見つけた劣化ウラン弾使用の証拠動画も近日中にアップします。
2003年12月ワリードとサマワで見つけた劣化ウラン弾使用の証拠動画も近日中にアップします。
1998年ドキュメンタリ「イラク、戦禍にみまわれた子供たち」前編
クリントン政権によるこのバグダッド空襲は当時ほとんど話題になりませんでした。イラク戦争の4年以上前のことです。国連安保理の決議を得ずに行われたこの攻撃は「砂漠の狐作戦」と呼ばれその後のイラク戦争に繋がるのです。
日本では小渕政権があっさりと攻撃支持の声明を出しました。市民運動側は抗議のデモを渋谷でやりましたがささやかなものでした。
そのころコソボ攻撃で劣化ウランが使われたこともあり1999年末には東京九段に有志が集まりおそらく日本で初めての劣化ウラン問題に取り組むNGOを立ち上げました。
*動画の容量制限で先日アップしたものは途中で切れていました。二つに分割して再アップします。
後編はこちら http://savewaleed.blogspot.jp/2011/08/1998_2402.html
2011年8月25日木曜日
再アップ!1996年映像イラク経済制裁
通訳ワリード。1996年11〜12月。7分30秒、小学校で絵本を読んでいるのがワリード。教室の生徒の数が倍近い70人に増えたそうです。
農村にあるこの小学校にワリードの子どもたちが通うことになるとは当時独身のワリードには思いもよらなかったでしょう。
農村にあるこの小学校にワリードの子どもたちが通うことになるとは当時独身のワリードには思いもよらなかったでしょう。
2011年8月16日火曜日
2011年8月12日金曜日
2011年8月11日木曜日
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