ワリード兄弟イラク通信 Topページ  手記  メモ | ワリードとは | メール

2016年2月18日木曜日

チグリス川で泳いだ I swam in the Tigris

バグダッドの郊外。北の上流だとこんな素朴な感じでした。
ワリードの兄の運転と案内で医薬品を届けたあと地元の青年たちが泳いでいたの見つけました。気温は40度以上と暑く思わず飛び込みました。
ゆるやかに見えて深く重い流れで油断できない感じでした。
兄、ヤヒヤによるとサダム時代は川沿いにサダムの宮殿などあり自由に泳ぐことかできなかそうです。
この後の宗派対立などでたくさんの死体がこの川に投げ込まれたのだとか。

2016年2月10日水曜日

ワリードの愛車。経済制裁中とはいえボロ車。

イギリスのランドローバーディフェンダー。
このころすでに骨董品。
サイドブレーキはなし。坂道に駐めるるときは石ころかなんかをタイヤにかます。
鍵もなし。イグニッション電線を接触させてエンジンスタート。
バックギアもなし。後退するときは押して。
そんな車がイラクでふつうでした。

2016年2月9日火曜日

女子校にあったドラム缶

サーベイメータの数値は0.073。単位はマイクロシーベルト。屋外バックグラウンドでは0.020前後でした。
帰国後この後このドラム缶について東京のグリーンピースに連絡しました。

サマワの女子校

2003年12月。
この学校に廃棄された核物質があるというので訪問。
持参していたガイガーカウンターで調べてほしいと先生らに案内されて中へ。
階段の下にドラム缶がありグリーンピース(ヨーロッパ)が地域に呼びかけ怪しいと思われるものを集めさせたようです。その後学校に置かれたままでした。幸いなことにメータにはわずかな反応しか出ませんでした。
*ツワイサではなくサマワです。タイトル直しました。動画の字幕ではサマワと正しかったのですが。

2016年1月30日土曜日

イラクの砂嵐

2003年5月。沖縄平和市民連絡会メンバーと。
アンマンから支援物資を積んでバグダッドに向かうところ。
米軍が恐れ戦争集結を急がせたという砂嵐。
バグダッド到着は戒厳令をとうに過ぎた深夜。バグダッドのど真ん中で米軍に止められサーチライトで照らされホールドアップ。戦後(?)一ヶ月でまだのんきな雰囲気でした。数ヶ月後だったら市民は不満だらけ、米軍はピリピリで無事では済まなかったかったかも。
バグダッドは電話局が空爆されまったく不通。ワリードに電話が出来ず。記憶をたよりにバグダッド郊外までタクシーで。
ワリードの住むニューバグダッドでは電話線が繋がっていて無事にワリードに再会。ワリードにさえ会えればミッションはほぼ達成したも同然だと思ったものです。

2016年1月24日日曜日

香港からのお客さん

日本で知り合ったそうです。
施設のFACEBOOKから。

ところで白い雪とアラブ人たち、、砂というイメージが強いので新鮮。

2016年1月23日土曜日

Young Waleed and us

1996年12月バグダッド。
日本で治療を受けていたサアド少年と家族。
左端がワリード。
ブルカ姿はアラブの子どもとなかよくする会の主宰者。

ワリードが紹介されました。

日本での難民申請をあきらめ、出国前に京都を訪れたイラク人のワリードさん=2012年6月、アジアプレス大阪の玉本英子さん撮影
 バグダッドでエンジニアだった彼は、得意の英語を生かし外国の支援団体やメディアで通訳ガイドとしても働いてきた。日本のテレビ局のイラク取材でも何度 も通訳を務めた人なので、彼の関わったニュースを見た人も多いと思う。私も以前バクダッドでお世話になったことがある。浅黒い顔と鋭い眼光だが、笑うと顔 をくしゃっとさせて愛らしかった。
 彼はいくつかの外国メディアに協力したとしてイラクの武装組織から殺害予告を受け、家に脅迫状が届くようになった。2011年、商用で来日したワリードさんは、そのままイラクに帰国せず、難民申請を行なった。
 私は東京までワリードさんに会いに行った。彼は「ダイジョウブ」と笑顔で言った。関東でうまくやっているんだと思った私は、それ以降、頻繁に連絡はしな かった。1年後、「来週イラクに帰ります」と突然メールが届いた。難民申請は審査結果が出ないまま何カ月もたった。支援などに支えられ生活してきたが、い つまで待ち続けなければならないのか不安は募り、帰国を決めたという。「日本の難民制度の壁は厚かった」。遠い異国の地、日本に暮らす彼の心情に思いを寄 せてこなかった自分を反省した。少しでもいい思い出を残せたらと、京都旅行に招待することにした。
 京都にやってきた彼をレンタル着物に着替えてもらい、私の友人の案内で清水寺などをまわった。「着物似合うてはるよ」。道すがら声をかけられた。バスの 席では、彼が座った隣のすき間に、おばちゃんがお尻を割り込んできた。それがうれしかったらしい。「中東系の顔をした僕の隣に座ろうとする人なんていな かったから」。先斗町のおばんざいの店では、お客さんが赤ちゃんを抱かせてくれた。イラクには幼い子どもたちがいる。彼の瞳は潤んでいた。
 いったんイラクに戻ったワリードさんは、カナダを目指すが途中で送還される。再度出国し、昨年9月、17歳の長男とともにトルコを経由してゴムボートでギリシャに渡った。そしてヨーロッパ数カ国を移動して、フィンランドにたどり着いた。
 いま彼は、町から離れた森の中にある難民収容施設に仮滞在している。町に出たとき、地元の男たちから侮蔑的な言葉を投げかけられ、不安に駆られたとい う。混乱に陥ったイラクでは命の危険にさらされ、庇護(ひご)を求めて難民になった先では厄介者扱いされる。「自分のせいでこうなったわけではないの に……」。ワリードさんの思いはイラク、シリアから命がけで脱出する人びとの共通の思いでもある。生まれ育った故郷を奪い、隣人関係を引き裂いた戦争は今 も続いている。
 まだバグダッドには妻と子どもたち6人が暮らす。フィンランドで言葉を覚えて仕事を見つけ、一緒に暮らしたいと願っている。<文と写真・玉本英子>

 ■人物略歴

たまもと・えいこ

 1966年生まれ。アジアプレス大阪所属。2001年からイラクに通い、内戦下のシリアも取材している。

2016年1月21日木曜日

湾岸戦争と市民運動

 キャシー・ケリーと活動については2011年に書いた記事をどうぞ。
http://savewaleed.blogspot.jp/2011/01/blog-post_24.html

キャシーと仲間たち

ワリードの左は長男。18才。すっかり大人になっていました。
最後に会ったのは12年前。幼稚園児でした。

長男の左がキャシー。

2016年1月16日土曜日

キャシー・ケリーとワリード

Voices for Creative Nonviolenceのキャシーがフィンランドに来てワリードに会ったそうです。

2016年1月14日木曜日

安田純平氏とワリード

安田純平さんからの消息が途絶えはやくも半年以上たってしまいました。
ワリードと面識がありました。
彼がシリア入りする前、ワリードに連絡をしてイラク入りのアレンジを打診していました。6月の上旬か5月の下旬でした。
当時のワリードからのメッセージを読み直し確認しようとしたのですがスカイプは4ヶ月くらいまでしか履歴が保存されていないようでした。なので正確な日時内容ではありません。
安田さんはおそらくトルコ経由でシリア入りが難しくイラク経由あるいはイラク内でISISの取材を試みたようです。
ワリードはすでにそういった仕事はしておらず断ったのだそうです。危険なのはイラクにはいる外国人だけではなく受け入れるイラク人にも及びます。
その後ワリードは連絡もなく安田さんの音信はやはりわからないままでした。
その頃もうひとり、やはりイラク入りをワリードに依頼してきた日本人がいましたが同じくワリードは断っています。

2016年1月9日土曜日

収容施設での新年

ワリードから新年のメッセージが届きました。
フィンランドの冬は寒く、暗く、町から離れた湖のほとりの施設ではふだんと何もかわらない日々だったそうです。

2016年1月4日月曜日

米、ビザ免除を厳格化=シリア訪問者ら適用外

先月の情報ですが、時事通信より引用です。
 _______________________
米、ビザ免除を厳格化=シリア訪問者ら適用外
時事通信 12月19日(土)10時17分配信
    •   
    •   
 【ワシントン時事】オバマ米大統領は18日、外国人旅行者に査証(ビザ)なしで90日以内の米国滞在を認めている「ビザ免除プログラム」の適用条件を厳格化する法案に署名した。
 2011年3月以降にシリアやイラクなどを訪問した申請者はプログラムの適用外とされ、通常の観光ビザ取得を義務付けられる。
 パリ同時テロやカリフォルニア州の銃乱射事件などを受けた措置。プログラムは日本を含む38カ国・地域の旅行者が対象になっている。また、ビザ免除の対象国が米国と対テロ情報の共有を怠った場合は、プログラムが打ち切られるという。

_______________________

2015年12月6日日曜日

ワリード手記について

11月中旬にワリードからイラク脱出の手記が寄せられ翻訳・アップをしました。
現在手記として届いたぶんは全て掲載しています。続きについてはワリード次第、、なのですがこの2週間彼と連絡が取れていません。スカイプがオンラインになっていないようですが通信事情が悪いのかなぜなのか理由はわかりません。

続編をお待ちの方もおられるかもしれません。管理人自身もワリードがバルカン半島からハンガリー、オーストリア、ドイツ、そしてフィンランドへたどり着いたルートのごく一部しか知りません。

ワリードは9月21日にフィンランドに到着しました。
現在はヘルシンキから北へ60キロの湖のそばの難民キャンプに収容されています。
そのキャンプはキリスト教団体が運営していた保養所をフィンランド政府が委託(貸し切り)難民のための居住施設として運営しているようです。今回の難民急増のため専用の施設が足りなくなったのではないかと思います。この施設には約100人の避難民がおり、ほとんどはイラク人でシリア人は数家族がいるのだそうです。
施設の近辺に人家はなく最寄りの町まで12キロ、買い物などは週に一度施設のバスに乗って連れて行かれるそうです。施設の職員以外のフィンランド人と話す機会はないとのこと。
17才の長男は学校にも行けず何もすることがないと嘆いています。

彼らが難民として認定され居住・就労・就学が保証されるにはまだ時間がかかるようです。
(管理人)

2015年11月20日金曜日

14:夜の海

私たちに許されボートに持ち込むことのできた荷物はたいへんに限られていました。小さな男の子がやってきて予備のライフジャケットはないかと聞いてきました。その子の母親は貧しくライフジャケットを用意することができなかったのです。わたしは自分のライフジャケットをその子に渡しました。自分にはまだクルマのタイヤチューブがありました。
ケータイは全て電源を切るよう指示されました。沿岸警察はケータイの信号をキャッチするのだそうです。
ギリシア側の島までわずか13Kmでボートの船長は40分くらいで到着するだろうと言いました。ボートは重量オーバーでまったくスピードが出せなかったからです。

13:海へ

バス4台を連ねて港へ向かいました。バスそれぞれに23人の乗客です。町外れで斡旋業者と合流し2隻のボートを牽引しました。すなわち一隻に46人でエンジンはたったの30馬力です。
バスの運転手はかなりの速度でバスをとばしました。取り締まりを恐れてのことですが山道ではスリップしそうでなんどもヒヤリとしました。運転手にとって逮捕されるのは事故よりも大問題なようです。それでも一台が捕まってしまいました。
狂気の運転でもイスタンブールから9時間の道のりで深夜2時にようやく海に到着しました。しかし港ではなく森のようなところで恐ろしげに見えました。斡旋業者は繁みに隠していた船の部品などを引っ張り出し、運んできたボートと組み立てました。
ボートは海に押し出されました。海は高くうねり、風の音が強く暗闇で何も見えず誰もが押し黙ったままでした。夢に見たはずのヨーロッパへの一歩のはずでした。それぞれ日常で脅かされていた爆弾、銃撃などとは違った恐怖を感じました。みな無言でライフジャケットを着はじめました。

12:イスタンブール出発

ただ時間がすぎ不安がつのりました。前払いした船代を返してもらい別の斡旋業者を探すことにしました。仲買人に手数料を払って見つけたのはバスラから来た信頼できるという評判の男でした。彼と交渉し操船をするという条件で自分の分の船賃は無料になりました。数日無為に待ち出発の準備が整ったという連絡がありました。今度の集合場所は別の丘でした。ミニバスが来てようやく乗ることができました。バスの運転手は窓にカーテンを引き、前の座席には金髪の女性を座らせ後ろの方にはむくつけき髭の男たちを座らせたのでした。今回も警察が現れましたがわたしたちのバスは止めらることもなく出発しました。
今回の手配のシリア人の元締めが現れ段取りの説明をしました。わたしはエンジンについて質問をしました。途中で止まってしまっては困ります。エンジンはホンダの30馬力の新品だと答えました。

11:イスタンブールで待機

翌日バスを待つひとびとは増えていました。待機場所は取り締まりの目を恐れて町から遠く離れた丘に移りました。やがて2台のバスが来ましたがわたしたちの座席はありませんでした。
数分後警官隊が現れ周囲を囲まれました。何人かは逮捕されたようですがわたしたちは路地裏からなんとか抜け出すことができました。今回の逮捕劇で港行きのバスは3日間キャンセルになりました。アクサライの難民集結場所は警察にマークされてしまったようです。

10:イスタンブールの脱出者たち

斡旋業者は戦後トルコに脱出してきたサダム・フセインの一族で誠実そうな男でした。彼を信用して前金を払いました。出発の日は確定せずいつでも出発できるよう待機していろ言われました。海の旅のためにライフジャケットを買い、さらに浮き輪代わりにクルマのタイヤ用のゴムチューブも買いました。貴重品は防水袋に入れひとつにまとめずあちこちのポケットに仕舞いました。
公園では100人以上が港へのバスを待っていました。トルコ当局の取り締まりを警戒し30分ごとに場所を変えました。夜の7時から深夜1時までバスを待ちましたが小さなバスが2台来ただけでわたしたちは乗ることができずそのうち警察がやってきてわたしたちは逃げ出すしかありませんでした。今夜チャンスはないとあきらめました。
わたしたちは公園で朝を迎えました。強盗に襲われるよりは高いホテルに泊まるべきなのですが深夜ということもあってホテルは見つかりませんでした。

9:家族と未来のために

イスタンブールのホテルで息子と話し合いをしました。海に乗り出すのはひとつの決断でした。息子はイラクの田舎で育った純朴な少年です。危険を冒し海を渡るべきかその判断を彼にゆだねてもいいものでしょうか。しかしイラクに留まっていては彼に未来はありません。電話で話した妻はとくに最初の子供である彼のことを案じています。イラクに引き返したところでさらなる恐怖が待ち受けるだけです。イラクに帰ることはできません。
ある晩、わたしは息子に話しました。イラクで残酷なテロリストに殺されるわけにはいかない。この旅は危険かもしれないが勇気を持って乗りだそう。残してきた家族の未来のためにも。
息子は納得し翌日わたしは斡旋業者を決めました。

8:海を渡ってギリシアへ

トルコの先の目的地はギリシアです。翌日から海路ギリシアへの方法を探しはじめました。だたいたい密輸をやっているような商人が手配も請け負うようでした。
だいたい二つの選択がありました。
ひとつは小さな数人乗りのプラスチック製のボートで、予算はひとり1500ドルくらい。
もうひとつは大型船でひとりあたり2500ドル。商人は前払いを要求しました。
うわさ話がわたしたちのようなヨーロッパに向かう脱出者の間で飛び交っていました。ギャングに金を奪われた話。海で沈んだボートの話。わたしは誰を信じて海に乗り出せばいいのでしょう?ともかくわたしも息子も泳ぎができません。息子を海で死なせては妻に言い訳ができません。小さなボートはやはり避けるしかないようです。資金に余裕がないものの選択の余地はありませんでした。しかし海で溺れることるだけが心配ごとではありませんでした。
もしトルコ警備隊に捕まったらどうなるのか?イラクに犯罪者として送り返されるのか?手配の商人は信用できるのか?だまされてしまうのではないか?

7:トルコ

ひさしぶりのトルコはすっかり変わっているようでした。そしてほとんど全て、街の通りからなにからイラクとは違って見えました。
アルビルからトルコの大都市イスタンブールまで34時間のバスの旅でした。
イスタンブールの到着は午後になりました。数時間で夕暮れでした。
わたしと息子はアカサラという難民受け入れセンターに来てみました。そこには100人ほどのひとたちが路上で寝ていました。イラク人、シリア人、アフガニスタン人、他の国籍のひとたちもいたでしょう。いくつかのNGOが来ておりとくに子供と女性向けの支援をしているようでした。多くの家族がいてたいへんな混雑ぶりでした。わたしたちが横になるスペースもないようで長旅で疲れ切った体を休めるためにホテルを探しました。どこも満室あるいは高額な料金のため長いあいだイスタンブールの街を探し歩きました。

6:故郷との別れ

生まれた国、愛しい家族を残して深夜の国境から去っていくことになるとはきょうその日まで想像もしませんでした。イラクがこのまま危険な地であれば戻ることもない、、つらい想像でした。
しかしわたしに選択はあったでしょうか。あのままイラクに残ればいずれ、遠くないうちに殺されるのは明白でした。
手続きが終わってバスがもう戻ることのないトルコへの道を走りはじめました。

5:トルコ入国と山本美香さん

アルビルでクルド商人と相談し山岳地帯の国境越えも検討しましたがISISメンバーと疑われる可能性もあり危険と判断しました。クルド当局は出入国に対して慎重になっているようで安全策としてバグダッドークルディスタンのノーマル航空券を購入することになりました。昨夜と同じ農家で一晩を過ごし、翌日航空券の提示でスムーズに国境を通過することができました。
国境を越えた側のアルカリールでトルコ側の手続きがありました。バスが停車しました。11年前にジャーナリストの山本美香さんとこの地に来ました。わたしの胸が痛みました。

4:トルコ国境越えで一悶着

翌日、国境まで乗り合いバスで向かいました。バスは満員で一時間ほどでアルビルの出国審査ポイントで降ろされました。国境の警官は航空券か許可証が無ければ通せないと言ってきました。クルド人商人からはそのような書類はいらないと事前に聞いていました。しかし警官は出国を認めてくれません。わたしはこのルートを手配したクルド商人に連絡をとりアルビルのバスターミナルに引き返すことにしました。

3:トルコ国境の町へ

真夜中にディアーラというのトラックサービスエリアに着きました。夜間の戒厳令のため道路はこの先封鎖されるというので駐車場で夜明けを待つのです。わたしたちは数時間の仮眠をとりました。12時間の長いドライブでしたがところどころ未舗装の道でトラックは何度も停車をしました。わたしたちはアルビル到着まで車外に出ることができませんでした。
アルビル到着後パーキングエリアにランドクルーザーがやってきました。トラックはここまででした。わたしたちはランクで郊外の小さな農家に連れて行かれ翌日まで不安な思いで過ごしました。

2015年11月19日木曜日

2:イラク脱出

8月8日、わたしは子供たちのうちの17才の長男ひとりを連れ、日没から数時間後の夜のバグダッドから北のクルディスタンを目指しました。
最初に乗ることができたのは大型トレーラーで食品用の冷蔵車でした。非常に暑い真夏の貨物車に乗るのは不可能でした。
バグダッドから北部のアルビルまでは国道をシーア派民兵がコントロールしており激しい戦いがISISとの間でおきています。スンニ派市民がこのルートを通過することは非常に危険で多くのスンニ派市民が殺されていました。
クルドエリアにはアラブ系イラク人は許可証がないと入れません。クルド人密輸商人は北のトルコ国境までのトラック乗車を約束してくれました。

ワリードからの手紙1:2015年夏イラクから脱出を決断

友人のみなさんへ。
この夏の突然の決断、イラクを脱出し北欧のフィンランドを目指しました。
イラクの治安は悪化しとくにバグダッドそして自分の住む村までも日々危険にさらされるようになっていました。
わたしの村では子どもから大人までの誘拐が頻発し、理由なき殺人、さらに不当な警察による逮捕、その後の音信不通。この一年の間に自分の二人の従兄弟、友人ひとりがそれぞれ別の地域で警官に拘束されました。そして今にいたるまで彼らの消息は誰も知りません。

イラクを脱出したワリード

ヨーロッパ諸国を目指す難民が続出した今年の夏、ワリードとその息子もまた国境を越えていました。
移動中のワリードとの連絡は不定期でしたが約一ヶ月前に北欧に到着、当面の受け入れ先収容施設の暮らしにも落ち着いたようです。
この数ヶ月間の彼のイラクから北欧フィンランドを目指した道のりをお伝えします。

2015年6月2日火曜日

バスラのトカゲ

砂漠にいるこのトカゲ、食べるとある種の効果があって人気だそうです。
ワリードは都会育ちなので食べたことはないと言っています。

2015年3月18日水曜日

最悪の年とは?

とあるイラク人によると今のISIS絡みの治安悪化よりも2006年が最も危険で最悪な年だったそうです。
あくまでバグダッド中心に住んでいたイラク人の感想です。
もっとも今も危険なことに変わりはありません。

2015年3月4日水曜日

悪化する治安と残してきた家族

家族からの連絡によると昨夜は迫撃砲による村への攻撃が激しくなり家を離れ農園で夜を過ごしたのだそうです。
そして朝からは警察が家にやってきて、それに加えて宗教私兵らによる家宅捜索(侵入)にも家族はおびえているそうです。





ワリードが現在いる南部もシーア派のスンニに対する敵対心が強まり、報復なのか見せしめのためなのか、町のあちこちでスンニ派住民の首がつるされているのを見るのだそうです。

2015年3月2日月曜日

イスラム国(ISIS)の余波

ワリードの住むバグダッド南部はイスラム国の拠点から遠く離れているのですが、安心もできる状況ではないようです。
スンニ派のイスラム国に対抗するためにシーア派民兵の活動が活発化しています。
ワリードの住む村はちょうどスンニとシーアの境界(北がスンニ、南はシーア)になるらしく両派がせめぎあうことになってしまいました。
つい先日も村人17人が拉致され殺害されたそうです。
ワリードは大家族を支えるため単身南部で出稼ぎしています。思うように家族の元に帰れずたいへん不安な日々のようです。

2014年7月4日金曜日

兵庫県議会見のインパクト

イラク人にも知れ渡り説明を求められました。

2014年6月25日水曜日

名もなき小さな村でも

ワリードの村はいまだミリシア(宗教私兵集団)に包囲されており、一昨日は村に侵入を試みたミリシアを何とか追い返したそうです。死者は出ませんでした。
しかし隣の村(アルダエリア)では40人が拉致されそのうちの数人の死体が見つかりました。ワリードのまだ若い学生の従弟が含まれていました。
まだ数人の従弟の行方がわからないとのことです。


*ワリードは日本のみなさまに無事と感謝を伝えてほしいとのことです。

2014年6月24日火曜日

イラク情勢

イラクの状況が悪化しています。
バグダッド郊外にいるワリード家族と5日ぶりに連絡がとれました。
ISISが勢力を強めバグダッドに近づいてきており、それに対抗するかのようにシーア派民兵がワリードの村を包囲している状況と聞いていました。

スレイマンからも無事の連絡がありました。スレイマンはバグダッド市内に住んでいます。

2012年12月8日土曜日

8年ぶりのスレイマン

イラク人スレイマンからメールが来ました。8年前に来日したことがありスレイマンを知っている方もおられるでしょうか。
彼は2006年頃の治安の悪化でエジプトに逃れたと聞いていました。
スカイプのアカウントを聞いて8年ぶりに話をしました。
彼と会ったのは2003年たしか5月、バグダッドのネットカフェでした。その頃は解禁されたインターネットがようやく出来るようになり市内のあちこちにネカフェが開店しはじめたころでした。電話とくに長距離電話のインフラが復興されておらず破壊した側のアメリカ兵もネカフェに来てイラク人と並んでいました。その行列でなんとなく会話したのがスレイマンでした。
スレイマンが帰国できるほどにはなったようです。
あのひと、このひとと名前をあげて消息を知りたがっていました。

2012年8月26日日曜日

R.I.P. Mika san 追悼、山本美香さん








 Mika san, Mika san was one of my best friend, i met with  her in 2003MArch before the war and since that time we kept good relationship, she visited my family several times, she know my wife and my kids.every body  like her,she was always smiling
 In 2006 May she took care of me when i visited Japan, I met with her family, father,mother,sister, and niece,her mother welcomed me in her house which locate  nearby The Fuji mountain
  No words can described Mika san kindness, she was like my sister, her lose cause a big hole on my heart, when i got the news of her death i got very bad feeling it was the same feeling when i lost my young brother in Sectarian war in Iraq2006
 my wife and kids feel so sorry for her lose

now her soul moved to the another world,and all human been will die, so, the only wish i have it is i can meet with her in eternal life
waleed


*ワリードは山本さんが亡くなる前日まで今回の取材に同行していました。
ワリードはまだトルコにいて数日後のフライトでイラクに戻るとのことです。

2012年2月4日土曜日

イラクで禁煙法

禁煙法が成立=罰金650円―イラク

時事通信 2月4日(土)6時12分配信
【バグダッドAFP=時事】イラク議会は3日までに、公共の場での喫煙に650円程度の罰金を科す禁煙法を承認、成立させた。役所や学校、病院、空港、 ホテル、劇場、レストランはもちろん、およそ人の集まる場所として民間会社の社内やガソリンスタンドでも「たばこ禁止」になる。 

2012年1月12日木曜日

お知らせ

イラクでは米軍の完全撤退など重要な状況が続いているのですが12月中旬より管理人の個人的な理由(入院・体調不良)によりブログの更新ができませんでした。当面療養に専念しこのブログはお休みさせていただきます。

2011年11月28日月曜日

復活したマフディ軍と反マフディ軍の新勢力

ワリードによると18日に投稿した記事のシリアに向かうバスの行列はマフディ軍とのことで、そのマフディ軍に対抗する新しい勢力も出てきてマフディ軍を襲撃しバグダッド出身の兵士数人を殺したのだそうです。
マフディ軍は米軍が年内に撤退しないと復活すると脅していたはずでしたがイラクのことはまったくわかりません。

2011年11月18日金曜日

ガイガーカウンターの音

03年12月ワリードとサマワで見つけたものでメーターの数字は1.5〜4.5マイクロシーベルトを指していました。同年5月のツワイサでは500マイクロシーベルト以上計測しました。

シリアとイラン。間のイラク。

Syria and Iraq future
   as we said before the dream of Iran is to establish its state from Iran till Lebanon, and making crescent shape surround Gulf countries ,  the loyality of Syrian regime is for Iran and this bothering the Gulf countries so that currently many attempt trying to stop this dream by topple Syrian regime. this attempt started by isolating the Syria from Arab university council  recently and supporting the anti Syrian regime resistance .

2011年11月16日水曜日

混迷深まるイラク

ワリードからの情報です。

 the spokes man of Iraq resistance announce the withdrew of US forces from our country its not welcomed by our leadership because we want them to stay as much as they can to revenge from them otherwise we can not follow them to state to fight them, thats why now a days all resistance groups increase there attack to US bases .

米軍の撤退にともないこれまで押さえつけられていたグループが次ぎなるイラク支配を目指し武力に訴える動きをみせています。
ヨーロッパからイラクに戻ろうとしたワリードの友人はあまりに危ないと家族が警告し隣国シリアで足止めされているそうです。イラクは急激に治安が悪化しています。

2011年11月15日火曜日

悪化する治安

 米軍の撤退に呼応するかのように急激に治安が悪化しているそうです。

Now let me write to you about iraq, today many accident happened there
al bayaa area , baghdad al karkh roadside bombed near from bus terminal two civilian people were wounded
camp sara area, al rissafa road side bomb targeted police car two police man were wounded
Al rabeea street al karkh area two policeman were wounded by silent gun attack
al karada  area roadside bomb attack VIP convoy ,1 civilian people were wounded
Alsader city(saddam city) road side bomb target eshbilia bank , two civilian peoples wounded
7 katiosha rocket attacked kalso US base in Babel yon province, one of those rocket miss the base and dropped near from base cause 2 civilian injury and n information for us side
two rocket attacked US base in kirkuk , one of them dropped on civilian house no victem from civilian side.

2011年11月8日火曜日

Iraq situation  米軍イラク年内撤退について

福島にいるワリードからレポートが届きました。明日東京に戻るそうです。

Iraq situation
  the decision of president Obama for withdrew his country troops from Iraq was big surprise for most politicians in Iraq especially Kurd and sunna leaders, because everybody knows that iraqi forces still weak and can not protect Iraq from any foreign aggression even they can not protect citizens inside Iraq from terrorism .
   United state offered to Iraq government to submit request to extend there troops(means Iraq should pay the expenses of US troops) staying but there was big opposition inside Iraq parliament that's why this decision couldn't get approved, from the other hand USA couldn't afford to resist the expenses of the huge number of there troops from there fund during current economic crises in united state.

2011年11月2日水曜日

ワリード、福島へ

明日からNGOの案内で福島に行きます。

2011年11月1日火曜日

ワリードの疑問

ある日のことこんなものを見つけたのだそうです。

 Dear friends
  Day by day i discover many new thinks in Japanese society which totally not founded in our society.
    So i am asking if any one can give me the real story or the meaning of the attached pictures-- see the pictures first to understand what about i am talking-

briefly while i am walking inside tokyo i saw  a ( Fuse vaginal cotton ) with dry blood, means its been used hanging above or beside river ???

what is the message the girls want to send it when they hang such things, and how we (men) shall reply when we saw such things

waiting your reply
thank you
waleed
ワリードにどんな回答があったかわかりませんが、管理人は東京で見たことはありません。興味深いのは 「girls からのメッセージ」とワリードが決めてかかっていることです。それってそうだといいなあというワリードの妄想?願望?
このようなことを書くとわざわざ翻訳してワリードに教えてくれるひとがいるかもしれません。だいじょうぶです本人に直接言いましたから。
「少女がぶさらげているとこ」を目撃したわけではないそうです。

2011年10月10日月曜日

当ブログ閉鎖について

9月13日より当ブログを閉鎖しました。ワリード来日を機に内容を見直しました。ワリードから再開の要望があり、ワリードをサポートしているNGOの弁護士からも内容(手記)に問題がないことを確認できたため一週間後に再開しました。
このときの検討の結果、会の名称を変え再出発することになりました。圧力がメディアからかかったわけではありません。

2011年10月9日日曜日

ワリード証言2:サマワ日本テレビ

「証言」です。

サマワ自衛隊からの感謝状

 証言1の冒頭でワリードがもらったと言う感謝状は2006年7月6日、陸自山中敏弘群長名で出されています

ワリード証言1:危険な勤務。サマワ犠牲者

2011年7月31日「イラク人が見た自衛隊、米軍基地、捕虜収容所—ワリード・ホマディ氏証言会」より

 2005年1月中旬のことだそうです。いまだ行方不明です。
詳しくはこちらを http://www.ustream.tv/recorded/16347142

to the readers

I apologize to the people who want to continue with my story,there are many reasons why i am stopping writing my story
when i was in Iraq ,before my visiting Japan i was so busy with hardship of life ,me and my family need to survive so that it was to hard to find time to continue writing, and when i came to japan the life been harder than Iraq,like securing house thinking how make my trip success and many other reasons currently i can not disclose it.but the sure think is one day i will continue it.and i will not forget one day you helped me
many thanks and GOD blessing all of you
waleed

まず原文をアップします。

なお、これまでワリードが書いた手記の原文もアップするかご要望の方にはお送りする予定です。(管理人)

2011年10月8日土曜日

ご質問ご要望クレームはこちらまで

当ブログの内容についての責任はワリードではなくイラク通信(旧連絡会)管理人にあります。ワリード手記についても翻訳文は当会の対応とさせていただきます。訳文のミスはすぐに対応いたします。
ご質問・クレームは shurayra@gmail.com までお寄せください。google voice で会話も可能です。

記事を削除しました

ワリードの要望により一部記事を削除しました。○○社より不適切と指摘されたそうです。

2011年9月28日水曜日

ワリード支援とJIM−NET

 ワリード来日後、とくにこの一ヶ月デリケートな折衝がありその詳細はここで書くことができませんでした。
今後はJIM−NETなど大手NGOがワリード支援にあたることになりました。ワリードは以前彼自身が希望したとうり福島に震災ボランティアに行くようです。

ワリード兄弟救出連絡会は役割を終えることになりました。
連絡会としてワリード釈放までは一定の役割を果たしたと思います。金銭的支援は昨年の2月の釈放時までで以降は振り込み口座を停止しました。
いまだワリードの末弟アリは服役中です。アリにたいしてはワリードからの具体案のないことのままに連絡会としての対策を打ち出せませんでした。
救援という言葉はワリード釈放後の「連絡会」の実態をあらわさずおこがましいのでこれを機にあらためます。
今後は「ワリード兄弟イラク通信」としてワリードの近況を軸にイラク問題の時事的な情報をアップしていくつもりです。
なお管理人の都合につきこのブログの更新を10月11日まで休止します。

2011年9月25日日曜日

「報道されなかった湾岸戦争」1992年影書房刊


「報道されなかった湾岸戦争」写真集編集委員会編。
 当時、イラクとイラク戦争に関する情報は圧倒的にアメリカから伝えられるものばかりでした。まさに報道されなかったイラク側からの戦争被害を伝える写真集です。
イラクではフィルムも印画紙も現像のための薬品も不足していました。 デジカメもネットもアルジャジーラといった報道機関も存在していませんでした。

湾岸戦争と日本山妙法寺

 1991年1月湾岸戦争が始まり(前年8月にイラクがクウェートに侵攻)世界中から反戦の動きがありました。いくつかの団体や個人がヨルダンやサウジを拠点にして活動を始めました。日本からは妙法寺の寺沢さんが駆けつけました。
戦下の中ガルフピースチーム一員(ノーベル平和賞候補、のちに荒野の声を主催したキャシー・ケリーもメンバー)としてイラク入りし体を張って終戦の仲立ちをしようとしました。寺沢さんが帰国し伝えた情報は日本での反戦と支援の動きにつながり終戦間もない3月にはPAN(ペルシャ湾の命を守る市民ネットワーク)が支援団を派遣することができました。寺沢さんの活動がなければおそらく支援の動きははるかに遅れた、あるいは成立しなかったのではないかと思います。ワリードが初めて出会った日本人はPANの後継団体として活動していたメンバーでした。PANは92年に解散しましたがその流れはまだイラク支援に引き継がれています。

寺沢さんはイラクの後拠点をチェチェンに移しこの数年はキルギスを中心に活動をしています。

写真:日本山妙法寺卯辰山仏舎利塔と寺沢正人(撮影2008年)

ケータイ紛失顛末記「警察で殺されずケータイが戻ってきた!」by ワリード

どんどん日本を好きになっていきます。昨夜、ケータイを失くしてしまいました。あきらめることもできず、近くの赤羽駅の交番に行きました。夜の11時をまわっていました。英語が通じませんでしたが交番の警察官にはどこかの部署に電話を掛けてくれました。相手先のひとは1時間もかけてあれこれ調べてくれました。わたしが失くした時間帯ではいくつものケータイがすでに届けられていて赤羽警察署に保管されていることがわかりました。
その赤羽警察署は赤羽駅から歩いて20分ほどかかりました。すでに時間は12時半になっていました。真夜中です。教えられた場所の建物は警察署なのかはっきりしませんでした。イラクでは警察は大きく威圧的な建物で敷地には数台のパトカーが何台も停められているものです。
こんな遅い時間なのにジョギングをしている男性がいました。尋ねたところ目の前の建物がやはり警察署でした。場所はわかったものの時間も遅くわたしは歓迎されざる人間ではないかと不安になりました。
エントランスを覗いててみましたが誰もいません。やはりイラクなら数名の武装した警官が立ち番をしているものなのです。ちょっと上を見上げてみると警察の星のような看板が掲げられていました。パトカーが停まっていることにも気がつきました。この建物は警察署で間違いありません。
しかしながらわたしは建物にはいることにためらいました。警察署に入るには許可証がいるのでは?わたしはただ失くしたケータイのことを聞きに来ただけです。呼び鈴もないのでそのまま中に入ることにしました。わたしは足を止めました。こんな夜更けに勝手に中に入ることができるのがおかしい。警察署に警備がいないなんて異常な話です。たまたま警備がいないだけかもしれません。イラクでなら場合によっては命に関わる要注意な状況です。バグダッドで間違いで入った建物の武装セキュリティに殺されてしまう事故が多発しているのです。今にも誰かが現れてわたしを呼び止め不審者と見誤って銃を撃つかもしれません。


*ワリードの弟(四男)は警察に連行されたあとミリシアに殺害されています。手記14
(管理人より補足)

2011年9月24日土曜日

ロスト アンド ファウンド

ワリードがケータイを無くしました。あわてて連絡してきたのですが警察に届けるということに思い当たらなかったようです。「もう無理だ、見つからない」とへこんでいました。翌日ちゃんと交番に届いていました。日本はすばらしい国だと感心するワリードですがイラクではやらないような不注意になっているかもしれません。

2011年9月20日火曜日

Waleed in Tokyo



来日して2ヶ月以上になります。帰国を考えています。

2011年9月7日水曜日

「アイスクリームが買えないの」

農村でアイスクリームが売っていないと嘆く次女。

2011年9月4日日曜日

写真


 ワリードがいつも持っている写真です。2006年脅迫されバグダッドを脱出する前日に写した母と孫たちです。ワリードと妻子はサマワへ。後日両親らはツアイサ近くの村へ移住します。


手記10:両親との別離
シリアへの脱出を決め準備を始めました。
その頃すでに多くの家族がバグダッドから脱出を試みていましたが、かなりの人数が市内を抜け出すところで殺害されていたのです。脱出には幸運も必要でした。
ところが両親までも脅迫を受けてしまったのです。
これは一族にとっても戦争でした。わたしたちは戦争をやり過ごし戦争から生き延びねばならないと決意しました。
病弱な母にはわたしたちのプランを告げずに夕食に招きました。わたしたちが家族から離れることを知った場合母はおそらく悲しみにくれるでしょう。そして親戚や隣人に黙っていることは出来ないはずでした。計画は誰にも知られてはならなかったのです。
わたしは家族のそろった写真を何枚も撮りました。

わたしと妻は両親が帰るのを待ち脱出の準備を進めました。当時バグダッドでは夜間の戒厳令で、外出が許される朝の5時まで6時間しかありませんでした。そ れまでにで全ての荷造りを済ませました。父は同行したいと行ってきましたがわたしは断りました。二人同時に失うよりは一人だけのほうがまだましでしょう。
かわりに父に頼みました。「わたしが殺されたら子どもたちを頼みます」
わたしは死を覚悟していました。しかしせめて家族のいる家では殺されたくはなかったのです。

...続きhttp://savewaleed.blogspot.com/2010/09/blog-post_8048.html

2011年8月28日日曜日

2003年5月ワリードの兄ヤヒヤ、ツワイサで核被害を語る


市民団体のガイドをするヤヒヤ。
この数年後バグダッドから逃れこの近くの村に住むことになります。
当時オシラク原子炉研究所はまだ米軍基地化されていませんでした。2008年ヤヒヤたち兄弟が逮捕され拘置されたのが研究所敷地(広大です)にできた米軍基地でした。

映像でヤヒヤが発言した病院のサルマンパックとは近くの町の名前です。右バー下地図参照。
現地を訪問したのは終戦から一月たらずのころです。核による被害はそれ以前の話です。1991年の湾岸戦争、1981年イスラエル空軍によるオシラク原子炉の爆撃による放射線が原因のひとつではないでしょうか。もちろんイラク政府がどのように核物質を管理していたかも定かではありません。地域の住民は何も知らされず知識もなくゆえに戦後オシラク原子力研究所から容器目あてのドラム缶を持ち出すことになります。それにはイエローケーキがはいっていました。
関連記事

2011年8月27日土曜日

Dear Haitham 2003年10月末


 アンマンの薬剤師ハイサムです。動画シーンは買い付けした医薬品をクルマに積み込みアンマンを出発するところ。国境を深夜に越え、バグダッドに朝到着します。


一昨年、カンパいただいたワリード支援金をイラクを送るためにハイサムの協力がありました。当時銀行送金は不可能でした。アンマンで活動している連絡会メンバーが、ヨルダンとバグダッドを行き来するワリードの知人に現金を手渡ししイラクの家族まで届けてもらいました。タイミングがあわなければイラクに入るワリードの知人が来るまでハイサムに預かってもらいました。そのワリードの知人もイラクに住み続けるのは困難で今年ヨーロッパに脱出しました。

2003年ラマダン中のある夜(音量注意)

夜の11時半。戒厳礼は解除されてましたが危険なのは変わらず夜間外出するひとはいません。停電のためホテルは真っ暗。外も一部の自家発電以外は暗闇です。突然ホテル周辺のあちらこちらから銃声が響きました。米軍への一斉蜂起か!と緊張しました。いよいよバグダッドで内戦か、と。
画面中央斜めの白いコンクリートは昨年襲撃された教会です。

おまけ映像。2003年5月。バグダッドに向かうハイウエイで砂嵐多重衝突

医薬品など物資を積んだ別の一台は玉突き衝突に巻き込まれました。バグダッドの街中で砂嵐は経験していましたが砂漠ではまったく別物でした。
翌日バグダッドは電話もネットも通じず記憶を頼りにワリードの家を探しだし戦後初めて再会しました。

2003年12月サマワ劣化ウラン弾

先頭を歩くのがワリード。
攻撃から9ヶ月たち風雨にさらされたキャノン砲はぼろぼろでした。
ガイガーカウンターの表示単位はマイクロシーベルトです。
関連手記5:サマワ、劣化ウラン発見

2011年8月26日金曜日

1998年ドキュメンタリ「イラク、戦禍にみまわれた子供たち」後編

容量制限のため 7分の1に画質をエンコードしてあります。

2003年12月ワリードとサマワで見つけた劣化ウラン弾使用の証拠動画も近日中にアップします。

1998年ドキュメンタリ「イラク、戦禍にみまわれた子供たち」前編

ワリードが通訳コーディネートしたドキュメンタリです(NHKBS)。
クリントン政権によるこのバグダッド空襲は当時ほとんど話題になりませんでした。イラク戦争の4年以上前のことです。国連安保理の決議を得ずに行われたこの攻撃は「砂漠の狐作戦」と呼ばれその後のイラク戦争に繋がるのです。
日本では小渕政権があっさりと攻撃支持の声明を出しました。市民運動側は抗議のデモを渋谷でやりましたがささやかなものでした。
そのころコソボ攻撃で劣化ウランが使われたこともあり1999年末には東京九段に有志が集まりおそらく日本で初めての劣化ウラン問題に取り組むNGOを立ち上げました。
*動画の容量制限で先日アップしたものは途中で切れていました。二つに分割して再アップします。
後編はこちら  http://savewaleed.blogspot.jp/2011/08/1998_2402.html

2011年8月25日木曜日

再アップ!1996年映像イラク経済制裁

通訳ワリード。1996年11〜12月。7分30秒、小学校で絵本を読んでいるのがワリード。教室の生徒の数が倍近い70人に増えたそうです。
農村にあるこの小学校にワリードの子どもたちが通うことになるとは当時独身のワリードには思いもよらなかったでしょう。

2003年1月。イラク戦争2ヶ月前映像。イヤササ

ワリードが通訳・コーディネートしました。ビデオ後半に映る幼稚園はバグダッドにありワリードの長男が通っていました。

2011年8月16日火曜日

出発前の子どもたち

 ←今回の来日の出発直前、スーツケースに入って一緒に日本に行こうとする次男と次女









夜、不審者に備えてこれから寝ずの番をする長男。
身を守る術はありませんが家族を起こすことはできます。
この子はバグダッド生まれの都会っ子でした、、。







→写真はバグダッドにいた2003年
左が長男。
隣は戦場カメラマンW氏


2011年8月12日金曜日

爆発した発電機

ワリードの報告会で話しのあった発電機の写真が届きました。
イラクではいまだに電力供給が不安定です。
一家には昨年11月に生まれた幼子がいるので50度以上になる夏の暑さはたいへんです。

2011年7月18日月曜日

ご参加ください。7月31日

【東京・主催イベント】
「イラク人が見た自衛隊、米軍基地、*捕虜収容所—ワリード・ホマディ氏証言会」(仮)
日本のNGOやメディアへの協力者として活躍し、劣化ウラン被害や自衛隊の活動をレポートし続けたワリード・ホマディ氏。外国メディアへの協力を理由に、現地武装勢力から処刑宣告され、宗派衝突で弟を失い、米軍に罪をでっち上げられ、無実でありながら家族を守るために2年間も苛烈な獄中生活を強いられた…ワリード氏の見聞きしたこと、体験したことは、正にこの間イラクで起き続けた悲劇を象徴するものでしょう。
来日したワリード氏に、その体験を、映像や写真、不当拘束中、心の支えだったという子どもからの手紙などのエピソードも交えて、証言していただきます。

2011年7月16日土曜日

来日しました

火曜日にエティハド航空で成田に到着しました。実は半信半疑なところがありました。
ワリードは「日本政府は自分の逮捕歴を問題にしてビザを出さないのではないか?」と心配もしていました。マイナーとはいえここのブログでも堂々と書いていますので。

月末にイベントに呼ばれているようです。場所は渋谷です。詳細がわかりましたらアップしますのでご参加ください。
*都内にいるワリードは滞在先でネット環境にないためメールを開いていません(ネカフェに行けばともかく)。3日前からケータイを入手しています。
にメールいただければワリードに連絡します。

2011年7月10日日曜日

ワリード来日

ワリードが来日することになりました。来週早々の予定です。イラク人ビジネスマンのアテンドなのでワリード自身で予定を決められないようです。ワリードの話を聞かれたいかたはご連絡ください。

2011年6月30日木曜日

難民としてヨーロッパに逃れたイラク人

ワリードの友人が難民登録されました。認定された理由のひとつは外国メディアに協力したことにより武装勢力から脅迫され身に危険が及んでいるということです。ワリードのほうがよほど実害を受けていると思います。しかしイラクを出ることもEU諸国のビザを取ることもワリードにはできません。
外国メディアとは日本のテレビ局です。

2011年6月28日火曜日

津波ごっこと戦争ごっこ

東北の被災地では子どもたちが津波ごっこをしているそうです。遊びをとおして衝撃を乗り越えるのだと紙面で読みました。イラクでは戦争ごっこをしています。赤いワンピースの女の子はワリードの長女です。兄弟と近所の子どもたちと遊んでいます。次兄に刺され死体役になり長兄からは銃で撃たれます。
*2時間のDVDからカットしました。この遊びには意味があるのだとわかり公開することにしました。


2011年6月20日月曜日

刑務所で舌を噛んだワリードの弟

もう数ヶ月前のことですがワリードと一週間ほど連絡が取れなくなったことがありました。ようやく連絡がとれたワリードはたいへん沈んでいました。
弟アリが収監されているアルビルの刑務所に呼び出され留守にしたとのことでした。18才で逮捕され3年めを迎えたアリが所内で舌を噛み病院に運ばれたのでした。アリはワリードの手記にあるとおり家族を守るため兄らの身代わりになり、ひとり10年の刑を受けています。まだ若い彼には刑務所は厳しすぎるはずです。舌を噛んだのはてんかんによるものだろうとワリードは書いてきました。てんかんについて何も知らなかったので調べてみたのですが、昔はてんかんで舌を噛むと言われていたようですが現在ではてんかんでは舌を噛むことはないとの記述がありました。幸いアリの容態は回復したそうです。

イラクの村、放射能汚染の影 8年経てがん相次ぐ

今朝の朝日新聞記事です。
http://www.asahi.com/special/npr/TKY201106190405.html
イエローケーキの入ったドラム缶が持ち出されたツワイサ原子力研究所はワリードの住む村から数キロしか離れていません。この高い塀に囲われた広大な施設は戦後米軍の基地になり、3年前逮捕されたワリードが最初に拘置されたところです。
1981年にイスラエル空軍が16発の爆弾を落とし、1991年の湾岸戦争では米軍がさらに破壊しました。出力の小さな実験炉とはいえ、人口4−5百万人のバグダッドから距離30キロ弱にある原子炉に爆弾を落とすのですからすごいことをするものです。
イラク政府は国民にも厳重に秘密にしており住民たちは放射線被害を知りようも防ぎようもなかったようです。湾岸戦争の数年後、近くを通った際に軍による厳重なチェックポイントがありました。その理由がわかったのはイラク戦争後のことでした。

参考まで2003年6月に現地取材したフォトジャーナリストの森住氏の記事です。
http://www.morizumi-pj.com/iraq/iraq4/03/iraq4_03.html
35マイクロシーベルトを検出したと書いてあります。
このとき乗っていた車に向けて集まってきた少年たちが石を投げ車のガラスが割れた(ひびが入った)ことを思い出しました。運転手は文句を言うと思いきやそのまま車を走らせました。

2011年6月14日火曜日

ワリード、震災ボランティアで来日?

ワリードが今回の東北の被災者の役に立ちたいと言ってきました。
生活に余裕がないので資金的には厳しいはずです。生後半年の子どももいれて6人の子持ち、さらに大家族の面倒も見ています。
いろいろ聞いてみると4月にバグダッドで会った日本のNGOのスタッフから、イラクは日本から世話になったから今回はボランティアとして来るべきだ!と言われたのだそうです。
イラクは日本ほど豊かで安全な国でもないので基本的な条件が違いすぎます。ワリードが今回用意できる資金は不十分なうえ日本人ならたいした金額ではありませんが彼には大金です。
(ワリードが5月にシリアに行ったのは日本のビザを取るためでした。イラクには日本大使館がありますがビザ発給業務は行っていません)

2011年6月13日月曜日

ヨルダンで空港トランジットさえできないイラク人

かつてイラク人は隣国ヨルダンにはビザなしで自由に行き来していました。しかしイラク戦争後の治安悪化でヨルダンに逃れるイラク人が増え、ヨルダンは入国の制限をするようになりました。実質イラク人はヨルダン入国ビザを取ることはできなくなりました。
海外旅行で目的地に行く前に経由地で飛行機を乗り換えることがありますが空港から出ないトランジットなら(入国しなければ)例えその国の入国ビザを持っていなくても問題ありません。日本からだとアエロフロートでモスクワ乗り継ぎヨーロッパ行きなどがそうです。
イラク人の場合バグダッド発着の国際線がまだ少ないので近くの国際空港アンマン乗り継ぎが合理的になります。例えば九州から国際線で近くのソウルで乗り換えるようなものです。
ところがワリードによるとアンマン乗り継ぎでもヨルダンはビザを要求するというのです。入国を伴わない空港保安エリア内ではビザは不要だと常識的に思います。ワリードの勘違いではないか?と。
イラク人が日本への入国ビザを取ったとします。日本への直行便はないのでヨルダン経由にするとヨルダンのビザも必要となるのです。ヨルダンのビザが取れないので飛行機に乗ることが出来ないということになります。

このように好ましからざる国を封じ込める政策の国は他にもあることがわかりました。
一例ですがドイツです。イラク人はドイツ経由になるルフトハンザに乗れません。
 以下ドイツ政府HPより
http://www.tokyo.diplo.de/Vertretung/tokyo/ja/01__RK/VISA/TRANSIT/TOP.html
旅行者の大多数は、飛行機でドイツを経由する際ビザを必要としません。しかしながら、その国籍によっては、空港トランジット・ビザが必要となります。
空港トランジット・ビザは、国際線トランジット・エリア内での短時間の滞在だけを認めるものであり、同エリアを出ることも宿泊することもできませんのでご注意下さい。
手荷物の受け取りや再チェックインが必要かどうかは、搭乗の航空会社に確認してください。そのような場合には、ドイツへの入国が必要になり、観光ビザを所持していなければなりません。
トランジット・ビザ申請が必要な国のリスト
アフガニスタン、バングラディッシュ、コンゴ共和国、エリトリア、エチオピア、ガーナ、インド、イラン、イラクヨルダン*、レバノン、ミャンマー、ナイジェリア、パキスタン、ソマリア、スリランカ、スーダン、シリア、トルコ**
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
実質的な制裁処置に見えるのですが上記の国はドイツにどのような害を与えているのでしょう?
ちなみに日本で乗り継ぎする外国人は空港内トランジットであればビザを必要としないようです。

イラクでATMとクレジットカードが使えます

いまのところバンクオブバグダッドだけのようですがVISAやマスターカードを発行するようです。そういった国際化がよいことかどうかの論はあるかもしれません。
恩恵に預かるひとたちはまだ限られていると思います。ワリードはATMも知らないし銀行カードさえ持っていません(ATMがなかったので当然ですが)。

2011年6月11日土曜日

昨日(金曜)バグダッドで大規模なデモ

マリキ政権は100日以内に国内の諸問題(雇用、治安、電力・水供給等)の解決を約束しました果たせませんでした。数日前がその公約の100日目でした。抗議のデモが昨日あり多くの逮捕者負傷者が出たそうです。

生後半年の息子。目元がそっくり。

2011年6月10日金曜日

イラクに郵便が送れます

 遅ればせながら上記の情報を見つけました。昨年ワリードからイラク国内の郵便事情が復旧していないと聞いていたので、日本から郵送ができるようになるには時間がかかると思っていました。

イラクあて航空運送する郵便物(EMS及び航空便)の全面引受の開始

http://www.post.japanpost.jp/whats_new/2011/0304_01.html

2011年5月20日金曜日

ワリード、シリアから無事帰る

ワリードが所用でダマスカスに10日ほど行っていました。シリアでは民主化運動で多数の死者が出ており心配しましたが、ワリードに言わせればイラクで危険と常に隣合わせで生きていたわけで危険についてイラク人に言えることはありませんでした。

2011年4月16日土曜日

米軍駐留延長とマフディ軍復活の噂

米軍は今年末にイラクから撤退することになっていますがマリキ政権は米軍に駐留を延長するように要望するような動きがあるそうです。オバマ政権もイラク政府にたいして駐留を延長する提案をしているようです。ワリードによると米軍に反対するサドル派が来週バグダッドでデモンストレーションをするそうです。解散しているマフディ軍が復活するのではと言われています。

2011年4月11日月曜日

イラクでも花粉症?

ワリードが体調が悪いと言います。咳鼻水涙が出ると言います。先週からバグダッドは砂嵐が吹いてそのせいかと聞いたのですがアレルギーだそうです。花粉症のような症状になるひとがバグダッドにもいるそうです。
追記:1993年くらいから4月のこの時期に症状が出るひとが増えたそうです。バグダッド近郊に杉などは生えていません。
左はワリードの息子ですが数年前の写真です。

2011年3月15日火曜日

タラルからお見舞い

brother..
I want to tell you how I am sad and sorry to what is japanese faceing now..it is hard time for them and I wish that I can help with..
I wish you are fine
please send me to know..about you..
keep in touch..

2011年3月12日土曜日

ワリードから震災お見舞い My condolence

Dear Friends

   We received the news of earthquake  in Japan with big sorrow  and sadness
    I have nothing to do except praying to GOD to save the lives of people and quick recover for the wounded people
 
Yours
waleed