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2016年2月18日木曜日

チグリス川で泳いだ I swam in the Tigris

バグダッドの郊外。北の上流だとこんな素朴な感じでした。
ワリードの兄の運転と案内で医薬品を届けたあと地元の青年たちが泳いでいたの見つけました。気温は40度以上と暑く思わず飛び込みました。
ゆるやかに見えて深く重い流れで油断できない感じでした。
兄、ヤヒヤによるとサダム時代は川沿いにサダムの宮殿などあり自由に泳ぐことかできなかそうです。
この後の宗派対立などでたくさんの死体がこの川に投げ込まれたのだとか。

2016年2月10日水曜日

ワリードの愛車。経済制裁中とはいえボロ車。

イギリスのランドローバーディフェンダー。
このころすでに骨董品。
サイドブレーキはなし。坂道に駐めるるときは石ころかなんかをタイヤにかます。
鍵もなし。イグニッション電線を接触させてエンジンスタート。
バックギアもなし。後退するときは押して。
そんな車がイラクでふつうでした。

2016年2月9日火曜日

女子校にあったドラム缶

サーベイメータの数値は0.073。単位はマイクロシーベルト。屋外バックグラウンドでは0.020前後でした。
帰国後この後このドラム缶について東京のグリーンピースに連絡しました。

サマワの女子校

2003年12月。
この学校に廃棄された核物質があるというので訪問。
持参していたガイガーカウンターで調べてほしいと先生らに案内されて中へ。
階段の下にドラム缶がありグリーンピース(ヨーロッパ)が地域に呼びかけ怪しいと思われるものを集めさせたようです。その後学校に置かれたままでした。幸いなことにメータにはわずかな反応しか出ませんでした。
*ツワイサではなくサマワです。タイトル直しました。動画の字幕ではサマワと正しかったのですが。

2016年1月30日土曜日

イラクの砂嵐

2003年5月。沖縄平和市民連絡会メンバーと。
アンマンから支援物資を積んでバグダッドに向かうところ。
米軍が恐れ戦争集結を急がせたという砂嵐。
バグダッド到着は戒厳令をとうに過ぎた深夜。バグダッドのど真ん中で米軍に止められサーチライトで照らされホールドアップ。戦後(?)一ヶ月でまだのんきな雰囲気でした。数ヶ月後だったら市民は不満だらけ、米軍はピリピリで無事では済まなかったかったかも。
バグダッドは電話局が空爆されまったく不通。ワリードに電話が出来ず。記憶をたよりにバグダッド郊外までタクシーで。
ワリードの住むニューバグダッドでは電話線が繋がっていて無事にワリードに再会。ワリードにさえ会えればミッションはほぼ達成したも同然だと思ったものです。

2016年1月24日日曜日

香港からのお客さん

日本で知り合ったそうです。
施設のFACEBOOKから。

ところで白い雪とアラブ人たち、、砂というイメージが強いので新鮮。

2016年1月23日土曜日

Young Waleed and us

1996年12月バグダッド。
日本で治療を受けていたサアド少年と家族。
左端がワリード。
ブルカ姿はアラブの子どもとなかよくする会の主宰者。

ワリードが紹介されました。

日本での難民申請をあきらめ、出国前に京都を訪れたイラク人のワリードさん=2012年6月、アジアプレス大阪の玉本英子さん撮影
 バグダッドでエンジニアだった彼は、得意の英語を生かし外国の支援団体やメディアで通訳ガイドとしても働いてきた。日本のテレビ局のイラク取材でも何度 も通訳を務めた人なので、彼の関わったニュースを見た人も多いと思う。私も以前バクダッドでお世話になったことがある。浅黒い顔と鋭い眼光だが、笑うと顔 をくしゃっとさせて愛らしかった。
 彼はいくつかの外国メディアに協力したとしてイラクの武装組織から殺害予告を受け、家に脅迫状が届くようになった。2011年、商用で来日したワリードさんは、そのままイラクに帰国せず、難民申請を行なった。
 私は東京までワリードさんに会いに行った。彼は「ダイジョウブ」と笑顔で言った。関東でうまくやっているんだと思った私は、それ以降、頻繁に連絡はしな かった。1年後、「来週イラクに帰ります」と突然メールが届いた。難民申請は審査結果が出ないまま何カ月もたった。支援などに支えられ生活してきたが、い つまで待ち続けなければならないのか不安は募り、帰国を決めたという。「日本の難民制度の壁は厚かった」。遠い異国の地、日本に暮らす彼の心情に思いを寄 せてこなかった自分を反省した。少しでもいい思い出を残せたらと、京都旅行に招待することにした。
 京都にやってきた彼をレンタル着物に着替えてもらい、私の友人の案内で清水寺などをまわった。「着物似合うてはるよ」。道すがら声をかけられた。バスの 席では、彼が座った隣のすき間に、おばちゃんがお尻を割り込んできた。それがうれしかったらしい。「中東系の顔をした僕の隣に座ろうとする人なんていな かったから」。先斗町のおばんざいの店では、お客さんが赤ちゃんを抱かせてくれた。イラクには幼い子どもたちがいる。彼の瞳は潤んでいた。
 いったんイラクに戻ったワリードさんは、カナダを目指すが途中で送還される。再度出国し、昨年9月、17歳の長男とともにトルコを経由してゴムボートでギリシャに渡った。そしてヨーロッパ数カ国を移動して、フィンランドにたどり着いた。
 いま彼は、町から離れた森の中にある難民収容施設に仮滞在している。町に出たとき、地元の男たちから侮蔑的な言葉を投げかけられ、不安に駆られたとい う。混乱に陥ったイラクでは命の危険にさらされ、庇護(ひご)を求めて難民になった先では厄介者扱いされる。「自分のせいでこうなったわけではないの に……」。ワリードさんの思いはイラク、シリアから命がけで脱出する人びとの共通の思いでもある。生まれ育った故郷を奪い、隣人関係を引き裂いた戦争は今 も続いている。
 まだバグダッドには妻と子どもたち6人が暮らす。フィンランドで言葉を覚えて仕事を見つけ、一緒に暮らしたいと願っている。<文と写真・玉本英子>

 ■人物略歴

たまもと・えいこ

 1966年生まれ。アジアプレス大阪所属。2001年からイラクに通い、内戦下のシリアも取材している。

2016年1月21日木曜日

湾岸戦争と市民運動

 キャシー・ケリーと活動については2011年に書いた記事をどうぞ。
http://savewaleed.blogspot.jp/2011/01/blog-post_24.html

キャシーと仲間たち

ワリードの左は長男。18才。すっかり大人になっていました。
最後に会ったのは12年前。幼稚園児でした。

長男の左がキャシー。

2016年1月16日土曜日

キャシー・ケリーとワリード

Voices for Creative Nonviolenceのキャシーがフィンランドに来てワリードに会ったそうです。

2016年1月14日木曜日

安田純平氏とワリード

安田純平さんからの消息が途絶えはやくも半年以上たってしまいました。
ワリードと面識がありました。
彼がシリア入りする前、ワリードに連絡をしてイラク入りのアレンジを打診していました。6月の上旬か5月の下旬でした。
当時のワリードからのメッセージを読み直し確認しようとしたのですがスカイプは4ヶ月くらいまでしか履歴が保存されていないようでした。なので正確な日時内容ではありません。
安田さんはおそらくトルコ経由でシリア入りが難しくイラク経由あるいはイラク内でISISの取材を試みたようです。
ワリードはすでにそういった仕事はしておらず断ったのだそうです。危険なのはイラクにはいる外国人だけではなく受け入れるイラク人にも及びます。
その後ワリードは連絡もなく安田さんの音信はやはりわからないままでした。
その頃もうひとり、やはりイラク入りをワリードに依頼してきた日本人がいましたが同じくワリードは断っています。

2016年1月9日土曜日

収容施設での新年

ワリードから新年のメッセージが届きました。
フィンランドの冬は寒く、暗く、町から離れた湖のほとりの施設ではふだんと何もかわらない日々だったそうです。

2016年1月4日月曜日

米、ビザ免除を厳格化=シリア訪問者ら適用外

先月の情報ですが、時事通信より引用です。
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米、ビザ免除を厳格化=シリア訪問者ら適用外
時事通信 12月19日(土)10時17分配信
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 【ワシントン時事】オバマ米大統領は18日、外国人旅行者に査証(ビザ)なしで90日以内の米国滞在を認めている「ビザ免除プログラム」の適用条件を厳格化する法案に署名した。
 2011年3月以降にシリアやイラクなどを訪問した申請者はプログラムの適用外とされ、通常の観光ビザ取得を義務付けられる。
 パリ同時テロやカリフォルニア州の銃乱射事件などを受けた措置。プログラムは日本を含む38カ国・地域の旅行者が対象になっている。また、ビザ免除の対象国が米国と対テロ情報の共有を怠った場合は、プログラムが打ち切られるという。

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2015年12月6日日曜日

ワリード手記について

11月中旬にワリードからイラク脱出の手記が寄せられ翻訳・アップをしました。
現在手記として届いたぶんは全て掲載しています。続きについてはワリード次第、、なのですがこの2週間彼と連絡が取れていません。スカイプがオンラインになっていないようですが通信事情が悪いのかなぜなのか理由はわかりません。

続編をお待ちの方もおられるかもしれません。管理人自身もワリードがバルカン半島からハンガリー、オーストリア、ドイツ、そしてフィンランドへたどり着いたルートのごく一部しか知りません。

ワリードは9月21日にフィンランドに到着しました。
現在はヘルシンキから北へ60キロの湖のそばの難民キャンプに収容されています。
そのキャンプはキリスト教団体が運営していた保養所をフィンランド政府が委託(貸し切り)難民のための居住施設として運営しているようです。今回の難民急増のため専用の施設が足りなくなったのではないかと思います。この施設には約100人の避難民がおり、ほとんどはイラク人でシリア人は数家族がいるのだそうです。
施設の近辺に人家はなく最寄りの町まで12キロ、買い物などは週に一度施設のバスに乗って連れて行かれるそうです。施設の職員以外のフィンランド人と話す機会はないとのこと。
17才の長男は学校にも行けず何もすることがないと嘆いています。

彼らが難民として認定され居住・就労・就学が保証されるにはまだ時間がかかるようです。
(管理人)

2015年11月20日金曜日

14:夜の海

私たちに許されボートに持ち込むことのできた荷物はたいへんに限られていました。小さな男の子がやってきて予備のライフジャケットはないかと聞いてきました。その子の母親は貧しくライフジャケットを用意することができなかったのです。わたしは自分のライフジャケットをその子に渡しました。自分にはまだクルマのタイヤチューブがありました。
ケータイは全て電源を切るよう指示されました。沿岸警察はケータイの信号をキャッチするのだそうです。
ギリシア側の島までわずか13Kmでボートの船長は40分くらいで到着するだろうと言いました。ボートは重量オーバーでまったくスピードが出せなかったからです。

13:海へ

バス4台を連ねて港へ向かいました。バスそれぞれに23人の乗客です。町外れで斡旋業者と合流し2隻のボートを牽引しました。すなわち一隻に46人でエンジンはたったの30馬力です。
バスの運転手はかなりの速度でバスをとばしました。取り締まりを恐れてのことですが山道ではスリップしそうでなんどもヒヤリとしました。運転手にとって逮捕されるのは事故よりも大問題なようです。それでも一台が捕まってしまいました。
狂気の運転でもイスタンブールから9時間の道のりで深夜2時にようやく海に到着しました。しかし港ではなく森のようなところで恐ろしげに見えました。斡旋業者は繁みに隠していた船の部品などを引っ張り出し、運んできたボートと組み立てました。
ボートは海に押し出されました。海は高くうねり、風の音が強く暗闇で何も見えず誰もが押し黙ったままでした。夢に見たはずのヨーロッパへの一歩のはずでした。それぞれ日常で脅かされていた爆弾、銃撃などとは違った恐怖を感じました。みな無言でライフジャケットを着はじめました。

12:イスタンブール出発

ただ時間がすぎ不安がつのりました。前払いした船代を返してもらい別の斡旋業者を探すことにしました。仲買人に手数料を払って見つけたのはバスラから来た信頼できるという評判の男でした。彼と交渉し操船をするという条件で自分の分の船賃は無料になりました。数日無為に待ち出発の準備が整ったという連絡がありました。今度の集合場所は別の丘でした。ミニバスが来てようやく乗ることができました。バスの運転手は窓にカーテンを引き、前の座席には金髪の女性を座らせ後ろの方にはむくつけき髭の男たちを座らせたのでした。今回も警察が現れましたがわたしたちのバスは止めらることもなく出発しました。
今回の手配のシリア人の元締めが現れ段取りの説明をしました。わたしはエンジンについて質問をしました。途中で止まってしまっては困ります。エンジンはホンダの30馬力の新品だと答えました。

11:イスタンブールで待機

翌日バスを待つひとびとは増えていました。待機場所は取り締まりの目を恐れて町から遠く離れた丘に移りました。やがて2台のバスが来ましたがわたしたちの座席はありませんでした。
数分後警官隊が現れ周囲を囲まれました。何人かは逮捕されたようですがわたしたちは路地裏からなんとか抜け出すことができました。今回の逮捕劇で港行きのバスは3日間キャンセルになりました。アクサライの難民集結場所は警察にマークされてしまったようです。

10:イスタンブールの脱出者たち

斡旋業者は戦後トルコに脱出してきたサダム・フセインの一族で誠実そうな男でした。彼を信用して前金を払いました。出発の日は確定せずいつでも出発できるよう待機していろ言われました。海の旅のためにライフジャケットを買い、さらに浮き輪代わりにクルマのタイヤ用のゴムチューブも買いました。貴重品は防水袋に入れひとつにまとめずあちこちのポケットに仕舞いました。
公園では100人以上が港へのバスを待っていました。トルコ当局の取り締まりを警戒し30分ごとに場所を変えました。夜の7時から深夜1時までバスを待ちましたが小さなバスが2台来ただけでわたしたちは乗ることができずそのうち警察がやってきてわたしたちは逃げ出すしかありませんでした。今夜チャンスはないとあきらめました。
わたしたちは公園で朝を迎えました。強盗に襲われるよりは高いホテルに泊まるべきなのですが深夜ということもあってホテルは見つかりませんでした。