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2016年6月7日火曜日

ラマダン

ラマダンが始まりました。
ワリードの住む北欧は白夜。日が沈まない時間は22時間だとか。

ワリードは数週間前にヘルシンキの施設に移りました。これまでの森の施設よりは町の中だそうです。

そして難民認定の面接がありました。
まだ居住権など確定ではないそうです。
まずは4年間の定住権を得られるかどうかという段階。

ワリードにはイラクから逃れざるを得ない十分な理由があると思います。こういうのは比較できるものではないのでしょうがベルギー、フランス、オーストラリア、アメリカなどに脱出できたイラク人を知っていますがそう思います。

今年のニュースではヨーロッパにたどり着いたシリア、イラク、イランの難民たちが国境で追い返されているとか。フィンランドはまだ人道的だと思いたいのですが追い返されるケースもあるそうです。
詳しいことをワリードに聞くことができません。

2016年3月27日日曜日

巨大砂嵐


1994年。ヨルダンへの国境近くで。
視界ほぼなし。カメラが壊れました。

2016年3月2日水曜日

アメリカ兵士もイラク人も人間の盾も

2003年6月、バグダッドのシェラトンホテルのプールサイドパーティ。
戦争時にドーラの浄水場にいた人間の盾参加者(フランス人)の企画。
背後のホテルはパレスチナホテル。
当時はまだのどかでした。

2016年2月18日木曜日

チグリス川で泳いだ I swam in the Tigris

バグダッドの郊外。北の上流だとこんな素朴な感じでした。
ワリードの兄の運転と案内で医薬品を届けたあと地元の青年たちが泳いでいたの見つけました。気温は40度以上と暑く思わず飛び込みました。
ゆるやかに見えて深く重い流れで油断できない感じでした。
兄、ヤヒヤによるとサダム時代は川沿いにサダムの宮殿などあり自由に泳ぐことかできなかそうです。
この後の宗派対立などでたくさんの死体がこの川に投げ込まれたのだとか。

2016年2月10日水曜日

ワリードの愛車。経済制裁中とはいえボロ車。

イギリスのランドローバーディフェンダー。
このころすでに骨董品。
サイドブレーキはなし。坂道に駐めるるときは石ころかなんかをタイヤにかます。
鍵もなし。イグニッション電線を接触させてエンジンスタート。
バックギアもなし。後退するときは押して。
そんな車がイラクでふつうでした。

2016年2月9日火曜日

女子校にあったドラム缶

サーベイメータの数値は0.073。単位はマイクロシーベルト。屋外バックグラウンドでは0.020前後でした。
帰国後この後このドラム缶について東京のグリーンピースに連絡しました。

サマワの女子校

2003年12月。
この学校に廃棄された核物質があるというので訪問。
持参していたガイガーカウンターで調べてほしいと先生らに案内されて中へ。
階段の下にドラム缶がありグリーンピース(ヨーロッパ)が地域に呼びかけ怪しいと思われるものを集めさせたようです。その後学校に置かれたままでした。幸いなことにメータにはわずかな反応しか出ませんでした。
*ツワイサではなくサマワです。タイトル直しました。動画の字幕ではサマワと正しかったのですが。

2016年1月30日土曜日

イラクの砂嵐

2003年5月。沖縄平和市民連絡会メンバーと。
アンマンから支援物資を積んでバグダッドに向かうところ。
米軍が恐れ戦争集結を急がせたという砂嵐。
バグダッド到着は戒厳令をとうに過ぎた深夜。バグダッドのど真ん中で米軍に止められサーチライトで照らされホールドアップ。戦後(?)一ヶ月でまだのんきな雰囲気でした。数ヶ月後だったら市民は不満だらけ、米軍はピリピリで無事では済まなかったかったかも。
バグダッドは電話局が空爆されまったく不通。ワリードに電話が出来ず。記憶をたよりにバグダッド郊外までタクシーで。
ワリードの住むニューバグダッドでは電話線が繋がっていて無事にワリードに再会。ワリードにさえ会えればミッションはほぼ達成したも同然だと思ったものです。

2016年1月24日日曜日

香港からのお客さん

日本で知り合ったそうです。
施設のFACEBOOKから。

ところで白い雪とアラブ人たち、、砂というイメージが強いので新鮮。

2016年1月23日土曜日

Young Waleed and us

1996年12月バグダッド。
日本で治療を受けていたサアド少年と家族。
左端がワリード。
ブルカ姿はアラブの子どもとなかよくする会の主宰者。

ワリードが紹介されました。

日本での難民申請をあきらめ、出国前に京都を訪れたイラク人のワリードさん=2012年6月、アジアプレス大阪の玉本英子さん撮影
 バグダッドでエンジニアだった彼は、得意の英語を生かし外国の支援団体やメディアで通訳ガイドとしても働いてきた。日本のテレビ局のイラク取材でも何度 も通訳を務めた人なので、彼の関わったニュースを見た人も多いと思う。私も以前バクダッドでお世話になったことがある。浅黒い顔と鋭い眼光だが、笑うと顔 をくしゃっとさせて愛らしかった。
 彼はいくつかの外国メディアに協力したとしてイラクの武装組織から殺害予告を受け、家に脅迫状が届くようになった。2011年、商用で来日したワリードさんは、そのままイラクに帰国せず、難民申請を行なった。
 私は東京までワリードさんに会いに行った。彼は「ダイジョウブ」と笑顔で言った。関東でうまくやっているんだと思った私は、それ以降、頻繁に連絡はしな かった。1年後、「来週イラクに帰ります」と突然メールが届いた。難民申請は審査結果が出ないまま何カ月もたった。支援などに支えられ生活してきたが、い つまで待ち続けなければならないのか不安は募り、帰国を決めたという。「日本の難民制度の壁は厚かった」。遠い異国の地、日本に暮らす彼の心情に思いを寄 せてこなかった自分を反省した。少しでもいい思い出を残せたらと、京都旅行に招待することにした。
 京都にやってきた彼をレンタル着物に着替えてもらい、私の友人の案内で清水寺などをまわった。「着物似合うてはるよ」。道すがら声をかけられた。バスの 席では、彼が座った隣のすき間に、おばちゃんがお尻を割り込んできた。それがうれしかったらしい。「中東系の顔をした僕の隣に座ろうとする人なんていな かったから」。先斗町のおばんざいの店では、お客さんが赤ちゃんを抱かせてくれた。イラクには幼い子どもたちがいる。彼の瞳は潤んでいた。
 いったんイラクに戻ったワリードさんは、カナダを目指すが途中で送還される。再度出国し、昨年9月、17歳の長男とともにトルコを経由してゴムボートでギリシャに渡った。そしてヨーロッパ数カ国を移動して、フィンランドにたどり着いた。
 いま彼は、町から離れた森の中にある難民収容施設に仮滞在している。町に出たとき、地元の男たちから侮蔑的な言葉を投げかけられ、不安に駆られたとい う。混乱に陥ったイラクでは命の危険にさらされ、庇護(ひご)を求めて難民になった先では厄介者扱いされる。「自分のせいでこうなったわけではないの に……」。ワリードさんの思いはイラク、シリアから命がけで脱出する人びとの共通の思いでもある。生まれ育った故郷を奪い、隣人関係を引き裂いた戦争は今 も続いている。
 まだバグダッドには妻と子どもたち6人が暮らす。フィンランドで言葉を覚えて仕事を見つけ、一緒に暮らしたいと願っている。<文と写真・玉本英子>

 ■人物略歴

たまもと・えいこ

 1966年生まれ。アジアプレス大阪所属。2001年からイラクに通い、内戦下のシリアも取材している。