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2010年9月10日金曜日

手記18:国外脱出への希望

移民ないしは難民として国外脱出するアイディアは日に日に強くなりました。
9月にアンマンに出ました。そこでの職探しと国外脱出の交渉でした。
しかし当時200万人ともいわれる大量のイラク人が国から逃れ隣国ヨルダンやシリアに押し寄せていました。それまで自由に行き来できたヨルダン入国も制限されるようになり、ましてイラク人が仕事をえることなどは不可能でした。やはり移民としてヨーロッパに行くことに気持ちが傾いていきました。
ヨーロッパのいくつかの国は難民を受け入れていました。まずわたしがヨーロッパに渡りそこで一年を過ごすと家族を呼び寄せることができる仕組みのようです。
大きな挑戦でした。これまでそのように長く家族と離れたことはありません。しかし徒にイラクにいたのでは家族をひとりまたひとりと失うことになります。

手記17:自衛隊の撤退と村での新しい暮らし

「2006年7月17日。自衛隊サマワ撤退」
自衛隊撤退の取材に日本からジャーナリストが来ました。
無事に取材は終わり取材チームは帰国しました。
自衛隊が去り、サマワの事務所も閉鎖しわたしは職を失いました。
バグダッドに戻ることもできず、村で人生をやりなおすことになりました。

宗派間戦争では、とくにひとつの国の中での戦争ではたいへんに困ったことがありました。それは宗派が支配するエリアの通行でした。ミリシアは町外れに勝手に検問所を作り銃を構えてクルマを止めてID(身分証明書)を提示させます。スンニのわたしがシーアのエリアを通行することは危険で出来ませんでした。逆も同じです。そのため多くのイラク人は偽のIDを持って検問を通っていたのです。

やがてバグダッドに残っていた両親と下の妹が村に逃れて来ました。バグダッドの実家はマフディ軍に奪われ彼らが斡旋するシーア派が住むことになるでしょう。
一家は両親に兄弟姉妹、その家族を入れて20名以上にふくれあがりました。誰もが仕事がありません。時に食糧が底をつき雑草を食べたこともあります。

*管理人より:偽ID使用はワリード逮捕の理由のひとつと聞いています。いずれワリードが米軍による逮捕の真相を書くと思います。

手記16:夜のミリシア

葬儀を済ませたその夜、わたしたちは農村で過ごしました。農村は父の生まれ故郷で一族の農場がありました。安全な暮らしのためバグダッドから生活を移す予定でした。
しかしその農村さえも夜になると銃声が聞こえてきました。農村から隣町まで夜はミリシアが支配していたのです。
農場の向こうに黒ずくめに武器を携行した7、8人の男たちの姿が見えました。わたしたちはこの村では新参者です。彼らがなにものかはわかりません。
わたしは兄ヤヒヤを呼びました。連中を農場へ入れてはならない。家族への危害を防がねばなりませんでした。
こんな状況の出会い頭で撃ち合いになり死人が出るのです。
私は大声で彼らに呼びかけました。
彼らは無言です。
威嚇のために銃を撃ちました。
撃つな!お前たちの仲間だ。彼らが叫びました。
しかし距離を保ったままです。
彼らの狙いは何でしょう。わたしは少し近づきました。
そこにいろ!彼らが警戒の声を発しました。
その時爆発音が聞こえました。ロケット弾の着弾でした。闇の先のミリシア側からの攻撃でした。
男たちは私に背を向け応戦し始めました。
どちらの宗派にもミリシアはいました。いまでも彼らがこちら側の自警団だったのかわかりません。

2010年9月9日木曜日

手記15:死体置き場

日曜日に葬儀でした。
バグダッドの治安は日に日に悪化していました。みながモルグ(死体置き場)に行くことを恐れていました。
わたしは父、妹の夫とバグダッドに一カ所あるモルグへ弟を引きとりに行くことになりました。
人間はいつか自身の宿命、運命に向き合うべきときがあります。
死はいたるところにあふれ私たちを取り巻いていました。
いつしか死への恐怖は消えました。
恐怖の世界で生き続けるより死んだほうがましだと思うようになっていました。

わたしはモルグに入りました。
人生でこれほどひどい状況を知りません。この場所とこの悲惨さを説明できる言葉が見つかりません。
死体は100体ほどあり地面に横たえられていました。首のない処刑された死体も並べられていました。
冷房設備も冷蔵設備もなくすさまじい悪臭でした。あたり一面、肉と流れ出た体液に覆われていました。野良猫数匹がうろついていました。
人間でいることがいやになりました。
たくさんの遺体の中から弟を判別するのは困難でした。死体の顔は大きく腫れ目は飛び出しほとんどが同じように見えるのです。弟が殺された日の写真を見せられていましたが、酷暑のバグダッドで3日もさらされて、激しく損壊した死体を弟と一致させることは不可能でした。イラクにはDNA検査などないのです。
その日、惜別の日が過ぎました。

手記14:拉致殺害された弟

約二ヶ月日本に滞在し7月6日にバグダッド空港に到着しました。サマワでの仕事が待っており急ぎの旅でした。
空港に迎えに来てくれた兄は浮かぬ顔していました。留守のあいだに何かあったのでしょうか。
兄は家族を預けた村への途中に重い口を開きました。弟が一昨日前モスクに礼拝に行ったきり行方不明になっていたのです。今、父親と親戚が病院を回り担ぎ込まれているのではないかと探しているのだそうです。
そして当時のイラクでは当たり前になっていることでしたがモルグ(死体置き場)にも行かなければなりませんでした。発見される可能性がもっとも高かったのです。
まもなく家族に会えるであろうという喜びも吹っ飛びました。村まであと数キロというところで兄は電話を受けました。見る間に暗い表情になりました。電話を切ると涙を流しました。
弟はモルグで見つかりました。変わり果てた姿で路上に投げすてられていたそうです。弟はまだ32才でした。
シーア派ミリシア(宗教私兵集団)支配地域ではスンニの家族がモルグに立入ることは非常に危険でしたが警察官の親戚らと武器を持って押し通ったそうです。


わたしたち一族には最悪の日でした。
家で待機していた母たちは家族の一員を掠われ一様に悲しげでした。しかし殺されたことはまだ知らないのでした。ひさしぶりの再会で喜ぶべき場に悲しみを伝える使者になってしまいました。

バグダッドで長く続けられていた一族の生活は激変していました。そしてバグダッドから家族の半分が郊外の一族の出身地の村に移ったところでした。一部の家族は治安の急激な悪化で町に閉じ込められ、母は糖尿と高血圧の治療・通院のためにも残っていました。

その日は弟の亡骸を受け取ることはできませんでした。翌日埋葬のために引き取ることになりましたが週末にあたる木曜日でモルグは半日しか開かず、遺体の引き渡しは出来ないと言ってきました。わたしたちは翌々日の土曜まで待たざるをえませんでした。死者への尊厳などありませんでした。生きている人間にさえ価値がありませんでした。
わたしたちはイスラム教徒です。いまはただイスラム教徒を装っているだけです。社会は正気をなくしています。まったくもってイスラム教では許されないことばかりです。

疑問と不安

管理人の感想です。
ここまでの手記を読んであらためて当時の記憶がよみがえりました。ワリードが当時わたしに伝えなかったことも書いてあります。しかし当時の疑問が解消したともいえません。読んでおられるかたは納得されているでしょうか?
・なぜ家族から反対されかつ脅迫されてまでテレビの仕事を続けたのでしょう?
・サマワの責任者が拉致殺害されているのになぜサマワに家族で避難したのでしょう?
上記二点(家族の反対とサマワでの殺害)は今回初めて知りました。常識的にはガイドの仕事は外国人といるだけでターゲットと見なされ危険でした。
ワリードは長い日本人とのつきあいで身につけた、日本人にはかゆいところに手が届くガイド能力に自負があったことでしょう。さらにふつうには稼げないギャラも手にしていました。単純には比較できませんが戦前、NGOが払っていた給料の50倍をマスコミはポンと出していました。
不安に思っており「十分稼いでいたのだからもう商売でも始めて、外国人と手を切るべきだ!」と言ったところで聞くわけがありませんでした。
サマワでの業務も問題でした。サマワはシーア派エリアでサダム時代に相当の迫害を受けていました。サダム時代は表向きは宗派対立はありませんでしたが裏では当然差別がありました。サマワは当時もっとも国外に逃れる住人の割合が高かったと聞いたことがあります。すさまじい迫害があったからです。戦後は米軍に抵抗するよりサダム=スンニへの反感で「敵の敵は味方だ」という論理で米軍に協力すべしというファタワが出たともいいます。それゆえ自衛隊活動の候補地としては住民から協力が得やすかったのです。ワリードの問題はおのずと発生しています。彼はスンニだったのです。しかもバグダッド育ちの都会っ子でした。
シーア派地域ではシーアのガイド、スンニ派エリアではスンニのガイドが適切でかつ本人のためでもあったと思っています。管理人は南部シーア派エリアで活動するときはシーアの友人に協力を得ていました。
それでもワリードが避難先としてサマワを選んだのは長く住んでしがらみが多く、人間関係が硬直してしまったバグダッドよりスンニがごく少数で、かえって猟師の懐の「窮鳥」たりえたサマワのほうが、比較として安全だったのではということです。
覆水盆に返らず。ワリードは稼いだ全てを失った、それ以上かもしれませんが失ったようです。

2010年9月8日水曜日

ラマダン明け

ラマダンが明けてこれからお祝いだそうです。早めに帰宅すると言っていました。日本で言えば盆と正月が一度にやってきたような感じでしょうか。

2010年9月7日火曜日

手記13:日本訪問

2006年4月上旬、私のサマワでの業務が終了しました。そのころ自衛隊は何度も攻撃を受け陣地に閉じこもり活動は中断していました。次の仕事と将来を考えて日本に行くことにしました。

5月22日から7月4日まで日本に滞在しました。
日本は夢の国でした。なんとか新しい仕事と生活を日本で見つけたいと思いましたが移民・難民としては歓迎されるわけではないとわかりました。難民を多く受け入れているヨーロッパ諸国とは違っていました。
6月の下旬、自衛隊がイラクから撤退の時期が近づき、日本テレビから再度サマワに行くよう要望がありました。目先の仕事が鼻先にぶらさがりました。むろん断れるはずがありません。
夢の国でのわたしの「夢」は途中であきらめることになりました。日本は新しい人生を見いだすには難しい国でした。
イラクに戻ればまたも宗派戦争に向き合うことになります。
日本には45日滞在し結局大きな失望とともに帰国しました。


*彼の手記にもありますが脅迫を受けており「家族、友人、自分を知るイラク人、またはそれにつながる可能性のあるアラブ人に日本とつながっていることを知られたら殺される」という状況で、来日後東京でのアラブ人社会には近づかないようにしていました。
個人的にいろいろ思うところがあって和訳が遅れました。(かつお)

手記12:悪化する治安、サマワ

詳しくはリンクのサマワリポートをご覧ください。

2010年9月6日月曜日

メモ:陸自への自爆攻撃警告

参考資料として当時の報道を貼ります。オリジナルリンクはもう切れていますのでご了承ください。当時ワリードと数週間連絡が取れず、この報道もあり焦ったことを思い出しました。

2005年11月21日、共同通信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051021-00000272-kyodo-int
陸自への自爆攻撃警告 サマワでサドル師派
 【サマワ21日共同】陸上自衛隊が駐留するイラク南部サマワでイスラム教シーア派の反米指導者サドル師派の代表を務めるムハンナド・ガラウィ師は21日の金曜礼拝で、「友好と称してイラク人と関係を持とうとする日本人にはわたし自身が自爆攻撃する」と警告した。
 サドル師派は、以前から陸自を「占領軍」とみなし撤退を訴えていたが、これまでにない強い表現で敵意をあらわにし陸自撤退を要求、イラク人が日本人と友好関係を持つことも禁じた。
(共同通信) - 10月21日22時21分更新
陸自への自爆攻撃警告サマワでサドル師派
 【サマワ21日共同】陸上自衛隊が駐留するイラク南部サマワでイスラム教シーア派の反米指導者サドル師派の代表を務めるムハンナド・ガラウィ師は21日の金曜礼拝で、「友好と称してイラク人と関係を持とうとする日本人にはわたし自身が自爆攻撃する」と警告した。
 サドル師派は、以前から陸自を「占領軍」とみなし撤退を訴えていたが、これまでにない強い表現で敵意をあらわにし陸自撤退を要求、イラク人が日本人と友好関係を持つことも禁じた。
 ガラウィ師は集まった数百人の支持者に対し、「日本人の友達がいるといって、自宅に招こうとすることは禁止する」と訓示。「占領軍のメンバーと取引し、友達だといって彼らを自宅に招くやつを数え上げろ」と呼び掛けた。
 サマワでは7月、日本友好協会会長だったアンマル・ヒデル氏が、多数のサドル師派を含むデモ隊の一部に「日本人との付き合いをやめなければ店を爆破し、おまえを殺す」と脅迫を受けた後、経営する宝飾店が爆破されていた。事件を受け、協会も解散した。

*管理人補足:
アンマル・ヒデル氏が自分の店のあるアーケードに「ようこそ」という横断幕を掲げたのは2003年12月のことでした。宝飾店主で協会の会長というとあるイメージが喚起されますが実際の店は3人も入ると動くスペースもない狭い極小の店で、彼自身は単純な善意で横断幕を作ったのではと思います。

手記11:バグダッド脱出

荷物をSUVに積み込み最後に子どもたちをのせるとすぐに床に寝そべらせました。そして冬の早朝のバグダッドの街へクルマを走らせました。両親の家はすぐ近くで父だけがわたしたちの出発を見つめていました。
幸いにもその日は朝靄で薄暗く、監視がいてもわたしのクルマを見分けるのは難しかったでしょう。
わたしは銃を用意していました。当時のイラクでは誰もが武装していましたが、ミリシア(民兵)を動員しての本格的な宗派間戦争にちっぽけなピストルが役に立つとは思えませんでした。それでも家族を守るために弾丸をこめました。
目的地まではふつうなら3時間で行けましたがこの日は満載した荷物に悪天候のため最大限の安全運転で6時間かかりました。
妻はシリアの国境と検問が見えてくるのを予想していました。数時間後に出むかえたのは「サマワ市」の案内標識でした。その時に至るまでわたしは妻にサマワ行きを知らせていませんでした。
妻はようやくわたしの計画に気がつきました。もし妻に話していたら妻の口から妻の親族に伝わったことでしょう。その先どこまで話がもれるかわかりません。どうしても秘密にしておかなければならなかったのです。


管理人補足:イラクは戦争前は銃の所持は許可されていました。戦後は政府が崩壊、無法な世界を生きるため市民は自衛のため武装しました。軍の武器庫からの大量流出もあったといいます。2003年に道ばたで自動小銃が100ドル、ピストルが150ドル程度で売っていました。ワリードの家、彼の部屋でピストルを見せられたことがあります。持ち歩いたりしないのか?と聞いたところ「持っていると使おうとする。かえってそのほうが危険だから自分は持ち出さない」と話していました。ワリードを含めほとんどのイラク成年男性は軍での武器操作の経験があります。武器の怖さをよく知っているのだと思います。

2010年9月5日日曜日

手記10:両親との別離

シリアへの脱出を決め準備を始めました。
その頃すでに多くの家族がバグダッドから脱出を試みていましたが、かなりの人数が市内を抜け出すところで殺害されていたのです。脱出には幸運も必要でした。
ところが両親までも脅迫を受けてしまったのです。
これは一族にとっても戦争でした。わたしたちは戦争をやり過ごし戦争から生き延びねばならないと決意しました。
病弱な母にはわたしたちのプランを告げずに夕食に招きました。わたしたちが家族から離れることを知った場合母はおそらく悲しみにくれるでしょう。そして親戚や隣人に黙っていることは出来ないはずでした。計画は誰にも知られてはならなかったのです。
わたしは家族のそろって写る何枚もの写真を撮りました。

わたしと妻は両親が帰るのを待ち脱出の準備を進めました。当時バグダッドでは夜間の戒厳令で、外出が許される朝の5時まで6時間しかありませんでした。それまでにで全ての荷造りを済ませました。父は同行したいと行ってきましたがわたしは断りました。二人同時に失うよりは一人だけのほうがまだましでしょう。
かわりに父に頼みました。「わたしが殺されたら子どもたちを頼みます」
わたしは死を覚悟していました。しかしせめて家族のいる家では殺されたくはなかったのです。

手記9:殺されないために。シリア脱出計画

翌朝、サマワでカメラマンとして働いたことのある友人に相談しました。
サマワのわれわれの事務所の責任者も誘拐された。これからの仕事も続けられるかわからない。自分も脅迫され家族も一人ずつ殺すという。
イラクからすでに多くの市民がシリアに逃れているが誰も仕事をみつけられずカネばかりかかっているという。しかしもうイラクは無理だ。すぐにでも家族をバグダッドから離したい。
検討の結果、家族をいったんサマワの信頼できるエリアに移し単身シリアに渡り移住の準備をすることになりました。
バグダッドでは住人の誰が敵対しているかわからず、計画は注意深く秘密のうちに進めました。

*管理人補足:ワリードの住んでいた町はスンニ派シーア派混在エリアでしたがシーア派武装組織が勢力を伸ばしスンニのワリード一家は圧迫を受けるようになります。
数年後ワリード夫婦の家はワリードが服役中に妻が生活費のために売り払いました。ワリードの実家はスンニが住むには治安が悪すぎて家族はいまだ戻ることができません。

手記8:家族に届いた脅迫状(続き)

母が現れ叫びました。「ワリードを入れてはダメ」
わたしはなんとか安心してもらおうと早口で説明しました。「クルマは遠くに止めてある。ここまではバスで来た。暗くなってから来たから誰にも見られていない」
「おお、神がワリードとともににおわすだろう。ドアを開けよう」父はわたしの強い願いを拒めず家に招き入れてくれました。

わたしは家に入りました。家族のみなから抱きしめられました。そして誰もが涙を流しました。
父はこれまでもわたしの仕事に不満を持っていました。日本人との仕事がわたしの身に危険を及ぼすからと非常に心配していました。そのことで父は常にわたしを責めていましたが、あらためてわたしを責め始めました。
「わかっているのか?今の危機はおまえ自身が招いたのだぞ。家族まで危険に巻き込んでいるではないか」


一番小さな息子が玄関前に投げこまれた封書を見つけました。それが脅迫状でした。
偉大なるアッラーの神の名のもとに背信者かつスパイであるワリードに告げる。と文は始まっていました。
われわれはお前が異教徒の軍の占領に協力する日本のメディアで働きプロパガンダを行っていることを知っている。
自衛隊はアメリカ支配の協力者だ。
我々はお前とお前のスタッフらに警告する。すぐに日本メディアへの協力をやめること。さもなくばアッラーの名において殺害を宣告する。

わたしはアタマが真っ白になりました。

父は国外に出てはどうかと言ってきました。どこの国に行けばよいのか当時イラク人を受け入れる国はシリアだけでした。

手記7:家族に届いた脅迫状

2006年、引き続きサマワに駐在し自衛隊の活動を追っていました。家に帰るのはほぼ2週間おきでした。四番目の子どもが生まれたばかりで家族に会うのは楽しみでした。
1月の中ごろでした。父から連絡がありました。
「たいへんなことが起きたが家には帰ってはいけない」
いったいどういうことでしょう?父が言うには家族は無事だといいます。「バグダッドに戻っても家には近づいてはいけない」それ以上のことは電話では聞き出せませんでした。
サマワからバグダッドまではおよそ300キロ離れています。たいへん気をもみながらクルマを走らせ日没の2時間前にバグダッドに着きました。来るなと言われても行かないわけにいきません。子どもたちに妻に会わないではいられませんでした。
わたしは家族と会うための計画をたてました。
父や兄弟とは別に隣町に家を借りて住んでいましたが自分の家には立ち寄りませんでした。父との電話では子どもたちはすでにわたしの家から両親の家に連れて行かれ安全だということでした。同時にその受話器ごしに聞こえてきたのは「ワリードを家に入れないで!」という家族たちのおびえた声でした。
その頃すでにイラク中で多くの人々が理由もなく殺されていました。自分個人の関係でも善良な友人らが40人以上も殺されていました。
あたりが暗くなるまで時を過ごしました。そして家の近くまでしのび寄り父に電話を掛け到着を告げました。驚いた父は家に入ってはいけない、お前が殺されると言いました。その時、危険にさらされているのは家族ではなく自分がターゲットなのだとわかったのでした。
私は神に祈りながら家の前の街灯に姿をさらしました。父が現れ即座に門扉を開けてくれました。
(写真:銃弾が貼られた脅迫状)

2010年9月4日土曜日

手記6:サマワ。脅迫と誘拐

自衛隊のサマワ派遣と時を同じくしてシーア派有力グループのサドル師派がサマワでの活動を強化しました。
日本テレビはサマワに事務所を開き常駐スタッフを置くようになります。責任者は有能な男で日本語とアラビア語を流ちょうに話しました。
2004年暮れから翌年にかけサマワ事務所は脅迫を受けます。日本テレビはスタッフをバグダッドに移動させることにします。
2005年1月中旬、サマワの責任者は拉致されました。彼はまだ見つかっていません。
彼の母親はバグダッドに住んでいて息子を探し続けています。
わたしは彼の後任としてサマワで常勤スタッフになります。自衛隊の取材はたいへん厳しい仕事になりました。
そしてわたしも同じように殺害予告を受けることになります。

その年2005年、宗派間の対立が激化しました。一説ではアメリカが自らが攻撃対象ににならないために宗派間の対立に火を付け加速させたとあります。

手記5:サマワ、劣化ウラン弾発見

2003年12月9日、フォトジャーナリストと沖縄平和市民連絡会をガイドしたサマワで、劣化ウラン弾の使用を裏付ける破壊されたキャノン砲を発見しました。彼らが持参してきたガイガーカウンターで確認をしました。ユーフラテス河沿いの道の脇の広場で見つかりました。対岸はすぐサマワの街でした。戦争時サマワは戦闘を否定しバグダッドに向けて進軍するアメリカ軍を素通りさせた、よって組織だった戦闘はサマワでは起きず劣化ウラン弾も使用されていないと言われていました。
わたしは2004年の始めから不定期にサマワに入るようになりそして2005年から常駐するようになりました。
自衛隊の派遣と前後するようにサドル師派はその活動を始めました。外国企業や外国軍隊への抵抗活動でたいへん危険な状況になりつつありました。過激な行動で知られるのがサドル師派であり数々の暴力事件をおこした直属のミリシア(宗教私兵集団)、マフディー軍です。
はじめ自衛隊が来た頃のサマワは静かとも言えました。
しかし自衛隊は復興の約束を守れませんでした。時間がたっても何も変わりませんでした。
サドル師派は抵抗活動を始め 住民らの不満をもとに組織行動し自衛隊にサマワから出て行くように警告を発しました。
わたしは仕事と同時に生き延びるため二倍の努力が必要でした。
治安は目に見えて悪化してきました。
どんな小さなミスも死に直結するやもしれませんでした。自分だけでなく取材チームにも危険は及んでいました。実際にサマワ事務所の責任者は命を落としたのでした。
日本テレビは2005年から取材拠点として市内に借りていた事務所を、ミリシアに目をつけられることを警戒して何度か場所をかわりました。多くの武装ガードマンを雇っていました。
日本人スタッフはミリシアから脅迫を受けると現地スタッフには黙って素早く逃げ出しました。残ったイラク人らはなぜ急に日本人がいなくなったかわからないのでした。
続き・・・

手記4:マスコミへの協力。そしてサマワへ。

イラク政府は2002年に一部外国人旅行を解禁しました。
生活のためパートタイムで旅行ガイドとして働き始めました。
しかしその年の終わり頃からアメリカがイラクに難癖をつけてきました。その頃のことはみなさんもご存じと思います。
もちろん半年以上に及ぶ国連の査察でも大量破壊兵器は見つかりませんでした。しかしアメリカはイラクの周辺国に部隊を配備しイラクは包囲されるようになっていました。観光の仕事などはなくなりガイドとしての仕事は2003年1月まででした。
一方で戦争取材のマスコミは押し寄せるようになりました。わたしは通訳として日本テレビに雇われました。
わたしがあの戦争から生き延びられたのは奇跡のようなことだと思いました。4月8日昼取材班が滞在し拠点となっていたバグダッド市内の高級ホテルが米軍により攻撃されたのです。まさに隣の部屋が砲撃されジャーナリストらの死傷者が出ました。すぐさま駆けつけたのですが室内はむごたらしい状況でした。
4月20日、バグダッドは静かになりました。米軍はイラクを占領し続けました。
その年の暮れ、自衛隊がイラクに派遣されることが決定し、日本のテレビ局からはサマワに行くようにとの電話がはいりました。

2010年9月3日金曜日

手記3:NGOとの協力

軍役の後貿易省に職が決まりエンジニアとして働きました。湾岸戦争が終わって数年たっていてもイラクの経済は疲弊したままで、インフレと物価高で公務員の月収10ドルではとても生活ができませんでした。そのころは医者や学校の先生でさえ月給だけでは生活ができず勤務後にタクシーの運転手などして生活を補うのがあたりまえでした。
月収10ドルでは輸入品のクスリからクルマの部品ひとつさえ買えません。わたしはやむなくタクシーのドライバーになりました。外国のNGOとの仕事をメインにするにはまだ不安定でした。
病院への定期的な訪問と支援で主に子どもたちの病気の増加など変化が目に付いたのが90年代なかばでした。劣化ウランという言葉を聞くようになりました。
イラク保健省、赤新月社との交渉などをとおしてアメリカやヨーロッパのNGOとも仕事をするようになりました。
湾岸戦争と前後して始まった経済制裁によるイラク人の苦しみはわたしも味わっていましたが、会の活動で訪問した小児病院での医薬品不足による悲惨な様子はイラク人であっても、身内に子どもや障害者がいなければ知る機会がなくわたしにとっても驚きでした。
劣化ウランによる被害は当初はサダム・フセインのプロパガンダと決めつけられ、なかなか認知されませんでした。
日本の支援NGOのイラクでの活動は1〜2年間ですでに去っておりその後も定期的に活動していたのは「アラブの子どもとなかよくする会」ぐらいだったはずです。
1997年イラク政権の方針が変わり海外NGOのイラクでの活動が制限されるようになりました。バグダッドがアメリカの制裁による空襲を受けた年でもあります。NGOはイラクでの活動をあきらめさらに撤退していきました。
諸説ありますが1990年の国連(アメリカ主導)の経済制裁によるイラク人の死者は120から170万人に及ぶと言われます。その大半は乳幼児でした。

日本では劣化ウランや経済制裁によるイラクの困難が知られるようになり、一部のジャーナリストがイラクに目を向けるようになり支援活動と並行して通訳・ガイドの仕事を引き受けるようになりました。イラク戦争が近づいて来ました。

手記2:日本人との出会い

1993年のことでした。当時まだ兵役中で勤務の合間、小都市ヒッラでの商店街で買い物をしていました。おおくの人だかりの中になにやらアジア人らしき女性の姿が見えました。その女性は何かを訴えているのですがアラビア語をしゃべれない様子でした。周囲の人々も彼女の言葉を理解できません。当時のイラクは湾岸戦争の直後で世界中からつまはじきされており外国人がたいへん珍しかったのです。しかもアジア人であり女性でした。わたしも好奇心にかられ英語で話しかけていました。彼女は英語で呼びかけられたことで安心した表情を浮かべたように見えました。
バスでバグダッドに戻りたいとのこと、そして日本から来たということがわかりました。なんということでしょう。首都バグダッドでさえもめったに会ったことのない外国人なのに地方のヒッラでしかも日本人に会うとは!
その頃のイラクは貧しいけれど安全でした。バグダッド行きのバスを待つまでにその日本女性はわたしに名刺をくれました。それまで名刺などもらったことがありません。自分でも名刺を持っておらず彼女のノートに自分の名前と連絡先を書きました。
アラブのこどもとなかよくする会という東京のNGOに所属する伊藤さんは91年からイラクの子どもたちへの医療支援や文化交流をしていました。
わたしはちょうどそのころ軍役が終わりかけていたころであり、機会があれば活動の協力もできそうでした。まずはパートタイムのドライバーとして、そしてアラビア語通訳として会の活動を手伝うことから始まりました。